漏らす人
南皮から出立して、袁紹軍は南へと進軍する。
足並みを揃え歩いて進んでいく姿は壮観、だが五万もの軍勢の進行はそれだけで速度を落とす。
本来ならさらに三万の兵が存在したはずだが、居たとしても移動速度がさらに落ちるだけであるから差ほど問題は無い。
そうして時間を掛けつつ南下し、黄河へと辿り着く。
本番はここからだ、何せ今から渡る黄河の幅は途轍もなく広い。
五万の軍勢を対岸まで渡すにはかなりの時間が掛かり、十日を超える日数が必要となる。
だからこそ事前に一手を打ち、大量の人員を乗せれる大型の船を数十隻用意させた。
これもかなり金が掛かったが問題は無い、これが無ければ間違いなく対岸に全軍渡した時には連合軍が攻撃を始めているだろう。
そうして黄河から西へと転進、そのまま洛陽の北にある港から一番近い北西にある、并州の港へと進む。
さらに数日掛かって港に着けば、巨大な船が港に付けられ、袁紹軍を待っていた。
すぐさま袁紹軍は野営の準備を行い、時間を掛けて渡河の準備を整える。
先んじて賈駆へと入港する事を記した手紙を送ってあるので、問題なく入港できるだろう。
後は兵と輜重隊の渡河を終えるのを待つだけ、だが郷刷はいの一番に対岸へと渡るべきと袁紹へと伝える。
「本初様、渡河の準備が整いましたので渡りましょう。 陛下や董卓様に『挨拶』をしなければなりませんので」
「確かに陛下へと挨拶をしなければなりませんわね」
「ですから渡りましょう」
「分かりましたわ」
郷刷の言葉に袁紹は頷く、そして準備が整っている一つの船に乗船、親衛隊を引き連れて渡河の準備。
「伝令」
「はっ」
「すぐに文醜殿を呼んできてください」
傍に控えていた一人の伝令が頷いてすぐに走り出し、馬に飛び乗って駆け出した。
「管統殿に渡河の監督を任ずると伝えてください」
「はっ」
さらにもう一人、頷いて同じように馬にまたがって駆け出していく。
そうして郷刷は船に乗り込んでいく袁紹と親衛隊を見つめながら待ち、数分後に現れた文醜には袁紹の護衛を、管統には渡河の監督官を命じる。
それが終われば郷刷も船へと乗り込み、洛陽の北にある孟津港へと出航した。
その頃、虎牢関の東に反董卓連合軍が集結しているとの報を受けすぐさま防戦の命を出している賈駆。
その下に一通の手紙が届いた、差出人は玄胞、内容は入港の許可を求める旨。
やっと来た、遅いじゃないの! と手紙を握り締めて賈駆は入港を認める手紙を港へと宛てる。
賈駆は遅いと思っていても、全体の進行状況から見ればかなり速いものである。
未だ反董卓連合は参加する全ての者らが集まっては居ない、集結に数日から十数日、盟主選びにさらに数日と掛かるだろう。
賈駆が思うほど時間は切迫していない、袁紹軍が渡河し終わり、洛陽や関に展開するまでの時間を差し引いても十分におつりが来る。
そう思えなかったのは賈駆の余裕の無さから来ている。
董卓軍の大部分は大将軍であった何進の指揮下に有った兵、それを吸収して今の董卓軍を作り上げた。
言えば皇帝直下の軍勢、董卓軍と名が付いても実質皇帝の兵なのである。
無論董卓自身がそれを願ったわけではない、それを画策したのは部下でありながら親友の賈駆。
宦官を廃する要因となった袁紹と、偶然皇帝を引き連れる張譲らと遭遇し捕らえる事になった董卓。
そこで終わっていればよかった、何らかの恩賞を貰ってさっさと涼州に帰るつもりだった。
しかしここで話が大きく、しかもややこしく転がったのだ。
十常侍が消え大将軍も消えた、ではこの後の簾政は誰が行うのか? という話。
ここで上がる候補は勿論二人、袁紹と董卓。
派手好きで自己主張が激しい袁紹と、争いを好まず自己主張を控える董卓。
皇帝である劉協が考慮の末選んだのは董卓、その判断に酷く落胆、絶望と言って良い気持ちを抱いたのは賈駆であった。
一介の太守である董卓が、一夜にして栄達を望む諸侯が嫉妬する位置に上り詰めた。
それは一身に妬みを受けるものであって、命の危険すらあるものでもある。
とすれば賈駆が取れる手段はどのようなものがあるか。
下手に皇帝に言っても無駄、止めてくれなんて言えないし、退くにしても許しを請わなければならない。
そう言って無理やり退こうとしたら皇帝は酷く落胆するだろう、そしてそれが怒りに変わったりしないかと言う不安。
そんなものもあり賈駆は、今すぐ董卓が今の位置から退く事が出来ないと考えて、ならば害せないほどの力を持ち凌ぐ事を考えた。
その結果が何進軍の吸収であり、董卓を強力無比な天下人として君臨させる事を選んだ。
だがそれだけではまだ弱い、もっと強くなるために出来る事を考えた結果、袁紹へ協力の打診であった。
大陸の十三州を治める州牧は特に力が強く、その中でさらに頭一つ抜きん出ているのが袁紹。
その裏では失敗したときのために袁紹へと皇帝を擦り付けるつもりでは有ったが、あっさりと見抜かれたために一本に絞らざるを得なくなったが。
そしてその袁紹が洛陽に今留まっている、今この機会を逃せば董卓軍だけで戦わなくてはならなくなると判断しての行動であった。
その賈駆の行動は功を奏した、条件付では有るが協力を得る事が出来、さらに他の諸侯の目を袁紹に向ける機会までも蘇った。
勝てばその力は磐石になり、負けても袁紹に操られていたと信憑性のある話で董卓が首を取られる可能性も低くなると。
そうして賈駆が望んだ状態が顔を見せ始めた、何とかなる、董卓が助かる道が見えてきた。
恐らく袁紹、もとい郷刷が断って連合側に付いていたら目も当てられない状況になっていただろう。
兵力の差は無くなり、呂布や張遼たちが居るとは言え、連合側には匹敵しうる者らが集まっているのだ。
同数でありながらも一方的にしてやられ、見る間に関を抜き洛陽まで迫られた可能性があった。
しかし諸侯の中で最も抜きん出た袁紹が董卓側に付いた、それは思い描いた最悪の結末を打ち消すもの。
「……負けてられない、そうよ、負けてたまるもんですか」
賈駆は自分に言い聞かせる、ここで落ちれば自分はもとより罪の無い月が殺されてしまう。
逃げられる可能性もあるが、そればかりを考え勝てる物を落としてしまうかもしれないので敗北は即ち死と言い聞かせる。
曲がらぬ決意を胸に抱く賈駆は歩き出す、目指す先は董卓と皇帝の下。
状況の説明をするために歩む、今回の事に関して賈駆は約束通り必死に皇帝へ言い願った。
皇帝は袁紹に近寄って欲しくは無い、だからこそ董卓を選んでと言うのにいざと言う時に全軍の指揮権を与えるなど何事かと。
勿論賈駆もその言い分は分かる、だが想定した事が起きれば洛陽周辺の兵力だけでは守りきれるか分からないと。
そこで諸侯の中で一番力のある袁紹に助力を頼み、いざと言うとき力を貸してもらえるようにするべきだと上奏した。
当然そこには条件付き、この戦いのみの指揮権であってそれ以外の事では決して袁紹の命令に従わぬよう一兵卒にまで言い聞かせるよう徹底するようにもした。
そうでなければ指揮権など与えられる訳が無い、賈駆とて郷刷の事を完全に信用しているわけではないからだ。
面と向かって董卓を切り捨てると明言している故、任せても大丈夫だと思うほど暢気な性格ではない。
一時の共闘、それ以上は無いと賈駆は断言し、その強い言葉に董卓は頷き、皇帝たる劉協も渋々ながら認めた。
これで良い、納得させると言う約束は果たした、あとは勝つか負けても袁紹に擦り付けるかの二つ。
負けて董卓が捕まっても皇帝は信頼する董卓の助命を願い出るだろうし、何とか生き残る道を作り出そうともがく賈駆。
「……もう最悪よ、なんでこんな運命なのよ」
恐らく人生の中で最も不運な時に、勝気な賈駆が泣きそうな声で一人漏らした。
次は劉協さまだ!