熱くなる人
こと時間は何物にも代えられない貴重なもの、次いで正確な情報が大事なもの。
その両方が揃えば多種多様な状況に対処できる、間違いが無い正確な情報を元に許す限りの時間を掛けて対処を施す。
両方とも喉から手が出るほど欲しい、特に切羽詰った状況であれば。
たった一秒判断に迷ったら命を落とした、なんて事も決して無いとは言えない。
時に情報は黄金の塊よりも高価になる、しかしそれが生死を分ける物であれば安い物となる。
つまりは情報のやり取り、具体的に言えば情報の争奪戦。
日々庶人の目に入らぬところで熾烈な駆け引きが行われていて、情報を奪って奪われて奪わせる。
既に日常茶飯事になった争奪戦はまあいい、獲得した情報の正確さは最初から除外してある。
問題は奪ってきた情報ではなく、奪われるはずの無い情報がどこから漏れたのかと言う事。
そしてその漏れた、漏らした人物の当てがあると言うのも問題だ。
無論考えるのはこちら側だけではなく、董卓側からと言うのも考えなければいけない。
董卓側はともかく、こちらの情報を奪われ続けるとなるとやはり拙い。
情報を漏らしているのならば当然止めなければならない、しかしながら情報を漏らしているその人物が得られる利益は何なのかというもの。
漏らしているなら当然誰かと繋がっている、可能性としては義勇隊として一旗上げ、平原の相となった劉備であろう。
南皮から南に進めば平原にたどり着ける、その平原の南には広大な黄河がある。
今の世の中であれば警戒して当然、劉備の下には優れた人物が居るという。
中には軍師も居り、警戒すべきだと進言する、少なくとも郷刷が劉備の下に居たなら進言しているだろう。
となれば当然動きを探らせる、その間諜が趙雲ではないかと言うもの。
だが郷刷は趙雲と劉備が接触を持ったことを知っている、何より勧めたのが郷刷自身であるからだ。
ここまで考えれば本当に趙雲が間諜であるのかと言う疑問が湧く、情報が漏れれば一番最初に疑われる位置に立っているのが趙雲であるからだ。
それに動いたのは并州の張燕、南皮により近い劉備が動いていないのはおかしく感じる。
勿論張燕との繋がりも見えず、得た情報をばら撒き他の諸侯の動きを誘発したと言うのも考えられた。
洛陽か南皮か、どちらにしろ冀州全域に注意を促しておかねばならない。
はっきりと決めるにはまだ早い、判断を下す為の情報が少なすぎる。
一先ずやっておくべき事は趙雲の事、本当に間諜かどうかを調べなければならない。
しかしながら他の諸侯の動きと同じく、趙雲が間諜だと決めれるような情報は無い。
思案した事もただの推測でしかなく、状況証拠にすらならないモノ。
客将である位置、他の諸侯と接点を持つ事、そのたった二つだけの事。
されどたった二つ、疑うには十分すぎる。
だからこそ郷刷は踏ん切りが付けられない、その理由はやはり『怪し過ぎる』からと言うもの。
今ここで悩みの種である趙雲を放逐すれば解決することではあるが、趙雲が間諜であったと言うのがただの考え過ぎなら貴重すぎる将を失う事になる。
大金でも非常に得難い人材をここで手放すのはかなりの痛手、これから起きるだろう戦いで不利を齎しかねない。
「………」
そうして袁紹の部屋から玉座へ向かう間、黙して考える郷刷。
怪しいが疑ってくださいと言わんばかりのばかりの状況、そう考えさせる為の策かもしれない。
ぐるぐると頭の中で回る疑念は無限螺旋、疑り深い者なら趙雲を放逐、放逐することによる損失を許容出来ない者なら疑うことを止め留めておく。
郷刷にとってはどっちもどっちで放逐も損失も認め辛い、だからこそ今ここできっぱりと決めなければいけない。
「……ふむ」
「……? どうかなさいまして?」
一つ漏らした呟きに、郷刷の前を歩いていた袁紹が足を止めて振り返る。
「いえ、厄介な事にならなければ良いかと思いまして」
「厄介? そんなもの安景さんが蹴り飛ばせば良いですわ」
「それもそうなのですが、とりあえずは歩みをお止めにならず」
文武官が玉座の間にて本初様をお待ちです、そう郷刷は促す。
それを聞いて腕組みしていた袁紹は、踵を返して再度歩き出した。
「何を心配する事があるんですの。 このわたくしに斗詩さんや猪々子さん、それに安景さんが居れば誰であろうと蹴散らして終わりですわ!」
自信満々に言い放つ袁紹に、軽く笑って郷刷。
「確かに」
郷刷は袁紹が言う通りの出来事しか望まない、それ以外の結末なぞ不要。
それをなす為の策、そしてそれを支える事の出来る人物をを繋ぎ止めなければならない。
このようなこと今に始まった事ではない、今回もやり通すだけ。
何度目か変わらない確認を経て、玉座の間に到着する。
扉の横に控える兵が袁紹と郷刷、二人を確認して両開きの戸を開く。
一直線に敷かれた赤い絨毯、その赤い絨毯と平行に並ぶ多数の文武官。
この場に居ない者は南皮を離れていたり、文醜や顔良のような仕事の果てに休息を取っている者たち。
それ以外の動ける武官と文官が揃い、その中には趙雲も居る。
袁紹はその文武官一同から一斉に頭を下げられつつ、堂々と赤い絨毯の上を歩き、階段状となった段差の上に置かれた玉座にゆったりと腰掛ける。
郷刷は後に付いて玉座の直ぐ傍に控えた。
「始めさせていただきます」
「安景さんの良いように始めていいですわよ」
郷刷が袁紹に聞き、肘掛けに肘を着いて頬杖をしていた袁紹が許可を出した。
「……それでは。 此度の緊急の召集、この袁家にとって重大なものとなる事を先に告げておく」
向き直った郷刷がそう宣言し、聞いていた文武官たちの顔色にはそれぞれの驚きが浮かんでいた。
「まだ確定した事ではないため予断は許さないが、予め準備を整えておく事は不利を避ける為のものとなる」
強く言うその姿、多くの文武官はその事態が良くない物だと感じ取る。
「恐らくは皆も耳に入れていよう、洛陽で董卓が暴政を敷いていると」
そう言って見回す郷刷は頷いている多くの者を視界に入れる。
「これは完全なる虚偽の風評である事は確認済みであり、権力を握った一地方の太守に対して嫉妬を持った諸侯が流した物であると思われる」
簡潔に、出来るだけ分かりやすく要点を絞って郷刷は話し続ける。
「洛陽には陛下を守る十五万ほどの兵が居る、関を守る兵を含めば二十万を超えるだろう。 その数は例え一つの州を治める州牧と言えど簡単に挑める数ではない」
一人で無理ならば、同様の野望を持つ者たちに働きかけて、同盟を組んで連合を作ればよい。
そしてその連合結成を呼びかける檄文が各地に走っている可能性があると、はっきりと郷刷は告げる。
「この董卓が洛陽で暴政を敷いている風評が事実ならば袁家は総力を挙げて参加するべきなのですが、その事実が無い以上参加は無いものと覚えていて欲しい」
むしろ己の欲望を優先して天下を乱すような真似をする諸侯に敵対せざるを得なくなる、つまり連合が組まれれば董卓、ひいては陛下の下へ参じて力を振るわねばならない。
今董卓が負け洛陽が落ち、陛下が邪な諸侯の手に沈めば来るのは大陸全土に広がる戦火。
黄巾の乱を経て辛うじて保たれている平和が完全に壊れてしまう、そのような事態は決して迎え入れるべきではない。
「例えこの平和が仮初であったとしても、真の平和に引っ張り上げてやらねばならない。 少なくとも私はそう思い、他の諸侯たちと敵対することを選びました。 この私の判断に同意が出来ない者はすぐにでも離れてもらっていただいても結構です、恐らくは生死に係わる事ですので止めはしません」
郷刷は文武官たちを一遍するが、誰も動こうとはせず郷刷を見つめ返す。
それは同意に違いなく、この場に居る全ての者が郷刷の言葉に同調した。
「玄胞殿、この場に居る者らは袁成様が存命である頃から居る者や、ごく最近入ってきた者まで、ただひたすらこの大陸に平和を願ってまいりました」
「そうとも、袁成様から続く願いが果たせる時が来たと言う事でしょう。 大陸に平和を齎す礎になることすれ、どこに逃げる必要がありましょうか?」
「なぁに、この大陸を乱す者は我々武官が叩きのめしてやりましょうぞ。 玄胞様や袁紹様はどっしりと腰を据えて、我々の活躍の光景をしかとその目に収めていただきたい」
白髪が目立つ初老を過ぎた文官の男や、二十歳を過ぎたばかりの武官の若者まで、年や役職は違えどそれぞれが同じ大陸の平和について熱く語りだす。
「……よくぞ、よくぞ言いましたわ! それでこそ名門名家に仕える将ですわ!」
その騒がしくなり始めた玉座の間にて、一際大きな声で袁紹が立ち上がる。
「陛下を手にしようと企む不届き者など名門名家の袁家頭領、この袁 本初が一人残らず叩きのめすことを宣言いたしますわ!」
そう言った袁紹に続いて、文武官たちが鬨の声を上げて士気を鼓舞する。
士気は最高潮まで上る、このまま出陣してもなんら問題ないほどに高まっていたが。
「しばし待たれい!」
一歩踏み出し、咎めるように声を上げたのは趙雲。
「どうにも勢いだけで簡単に決められたようだが、勝つために具体的な策は考えておられるのか?」
都合の良い事だけを取って上手く行くと妄信する事がどれだけ危険か、勢いに任せた結果がどのようになるのかと趙雲は咎めた。
玉座の間に広がる雰囲気に水をさしたと言っても良いだろう、これで気分を害する者も出てくる。
これが他の諸侯が開いた評議であったなら、だが。
「……いかんいかん、我々が流されては意味が無い」
「全くですな、客将である趙雲殿に言われてしまうとは情けない」
趙雲の言葉を聞いて数名の文官が自分と、また周りの者らに自戒させるように口を開いた。
「年甲斐にも無く熱くなってしまったわ。 それでは玄胞殿、発言の許可を頂きたい」
「認めます」
あまりにもあっさりと場の空気が冷えて、まるで今までの熱気が演技だったのかと思うほど静まり返る。
趙雲とて自分の立ち位置が軽い物だとわかっている、それでも口を挟まねばならないと思うほど場の流れがあっさりと一点へと流れ始めた事に対して懸念を抱いた。
そして挟んでみたらどうだ、燃え上がった炎が水を掛けられたように一瞬で静まった。
これには流石に趙雲も面を食らい、口を閉ざさるを得なかった。
「全く、趙 子龍は空気が読めていませんわね」
「……それは、いや、なんでもない」
一つ欠伸をしつつ、袁紹が言ったが言い返すのも意味が無さそうなので途中で止めた趙雲。
場の流れがまた冷え静まり、趙雲が知っている評議へと姿が戻った。
正しい評議になりそうだと、趙雲は一歩引いて列の中へと戻る。
「それでは、仮に洛陽へと攻め入る連合が結成されたと致しましょう、先ほど玄胞殿が仰ったように檄文による誘いを蹴って皇帝陛下の下に付き戦うのも理解しました。 その時に我々の立ち位置、董卓軍の傘下に入るか独自に動くのかはお決まりになられているのですか?」
「我々袁紹軍は董卓軍と連動して動きますが、傘下に入って指示を受けて戦うものでは有りません。 立場上は同盟にて、逆に我々が董卓軍をも率いる事になります」
「袁紹軍が、では無く董卓軍が指揮下に入ると言う事で?」
「そうです、そのための約定は一通り結んでおります」
「発言の許可を」
「認めます」
「彼我の戦力差はどれ程になると分かっているのですか?」
「連合軍は多く見積もっても二十万には届かないでしょう、一方こちらは董卓軍の総数約二十万に袁紹軍として八万を出す予定です。 これは冀州の防衛に必要となる兵数の限界に近い数です、理由は負けることは極力避ける為の動員数です。 また敗北が確定した状況なら陛下を保護して即時撤退、冀州に帰還を最優先にして周囲を押さえ込みます」
「発言の許可を」
「認めます」
「撤退した後の、その周囲の諸侯を抑える案は?」
「残る兵力を背景に脅迫に近い圧力を掛ける事になります」
すらすらと問答に入り、小さな疑問から大きな疑問まで問答の応酬。
それも十数と続けば疑問は粗方解消される、発言の許可を求める声も消えて静かになる玉座の間。
「他には? ……無いようですね」
そう郷刷が問うも誰も口を開かない。
「それでは今回の緊急の評議はこれにて、追って書類を手配しますので必ず受け取ってください。 予想通りになれば激戦は必死となります、皆の力をこの袁家にお貸し下さい」
応ッと郷刷の言葉に是と答え、並ぶ文武官たちは頭を下げて玉座の間から急ぎ足で出て行く。
「趙雲殿は申し訳ないですが残ってください」
そう言ってたった一人残ったのを見て郷刷が踵を返し玉座で足を組み、肘掛けに肘を付いて頬杖の袁紹へと振り返る。
その瞼は閉じられ、舟を漕いでいた。
「本初様、評議は終わりました」
「……う~ん、まだ眠いですわね……」
口元を隠しつつ欠伸をする袁紹。
「確か数えで今日は『あの日』でしたね」
郷刷は手を差し出し、袁紹をそれを取って立ち上がる。
直ぐに女官を呼び、少々ふらつく袁紹を部屋へと送らせた。
袁紹には定期的によくわからない睡魔に一日中襲われ続ける日があり、病気かと思い五斗米道の医者に見せても身体的なモノではないと断言された。
恐らくは精神的なもので名医と名高い五斗米道の医者であっても治せない、その上原因不明ときているからお手上げである。
何とかしたいが原因不明で治せず、しかし症状がただ眠いだけで翌日には何時も通りに戻っている為今のところは放置するしかなかった。
「……はぁ」
溜息を吐き怪しい足取りで玉座の間を出て行く袁紹を見送って、解決すべき問題を直視する。
「さて、感謝いたします。 どうにも血気盛んな方が多いので」
「それにしては自制を取り戻すのが早かったようですが」
熱くなって騒ぎ立てたのはいいが、その引きが尋常ではないほど早い。
わざとそうして演技している、趙雲から見ればそんな風にしか見えなかった。
「天下太平は本初様の母君であられる袁成様からの願いです、袁成様と付き合いがあった方々は特に思い入れがありますし」
そう言いながら階段を下り、趙雲の前まで歩む郷刷。
「それが達成出来るかもしれないなら力を入れずには居られないでしょう、それが出来るか出来ないかは今後次第です。 とりあえず子龍殿にはやってもらいたい事が一つ、本来なら文醜殿と顔良殿にやってもらうのですが今は仕事を出来ない状態でしょうから」
「二人に? ふむ、客将である私が関わっても良いものでしたら引き受けましょう」
「ええ、是非とも。 直ぐにでも資料を持たせますのでお願いします」
趙雲を見つつ一つ笑った郷刷、趙雲も軽く笑みを返して頷いた。
その趙雲に与える仕事は袁家の将軍位を持つ者、文醜や顔良がこなす仕事。
罷り間違っても客将に任せられる仕事ではない、それを趙雲に任せる理由はただ一つ。
間諜か否か、それを確かめる為のものであった。
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