動き出す人
つまり導入部
一報が届いたのは楽進と周泰が南皮から出立して九日経ってからであった。
その内容について『緊急』と殴り書きされた物、この緊急と言う言葉は用途が限られる。
その使用条件はただ一点、『袁家に多大な不利益を齎す情報』と言う物。
ある程度の情報確認を省いても問題無い、処罰無しと間諜に指示してある言葉。
それでも易々と使うことは出来ない重い言葉、今の現状から使用される理由が郷刷の頭を過ぎる。
手早く封を解き、手紙を開いて読み耽った。
「……これは、拙い」
手紙の内容につい言葉を漏らす、予想以上の速度で事が動いていると己の先見の拙さに悲観した郷刷。
素早く手紙を握りつぶして丸め、歩きながら懐に収める。
早足で自室を出て、人を呼びながら袁紹の元へ向かう。
「誰かある!」
怒鳴るような郷刷の声に、数名の従者が急いで駆け寄り傍に控えた。
「軍備に携わる全ての監督官に出陣準備の通達、兵は精鋭を最優先で集めさせろ、大至急だ!」
「は、はっ! 直ちに!」
慌てて駆け出す従者の一人、見送らずに続けて郷刷は怒鳴る。
「文醜、顔良に今すぐ仕事を止め休息を取るように伝えろ!」
「はっ!」
「趙雲には玉座の間に来るように伝えろ、行け!」
「はっ!!」
次々と命を受けた従者たちが走り去り、郷刷は変わらず早足で歩み続ける。
「……早すぎる」
宦官を廃し皇帝が洛陽に戻り、その洛陽から南皮に戻ってきてまだ二十日余りしか経っていないと言うのにもう連合軍結成の動きが見えていた。
あまりにも早すぎる、複数の者らが広めているとは思っていたが風評の浸透が早すぎる。
情報が送られてくるまで近い所では数日から遠く離れた地区からでは十数日掛かる、つまり他の諸侯は遅くても数日前から軍事行動に出始めている。
緊急の手紙に書かれていた内容とは、『并州に軍勢の動き有り』と書いてあった。
これがもし連合軍結成の物、恐らくは何者かの檄文でも各地に飛ばされたのだろう、それに応じて動き出したのであろうもの。
となると一大勢力である袁紹にそれが届いていないのはかなり気になる、こちらが董卓に付く事が漏れているのかと考える。
これを知っているのは郷刷と袁紹、文醜と顔良に趙雲、あとは董卓側の面々しか知らない事。
郷刷はその情報が漏れるような、手紙などの形として残るような物は一切残していない。
基本口頭で交わした物ばかりであり、賈駆に渡した改善案も董卓と袁紹が繋がるような事は一つも書いてなく、ただ洛陽とその周囲にある関の修繕案などしか書いてはいない。
金子や物資の提供も数字として書いてはあるが、袁紹が董卓にこれだけ渡しますよ、などと指し示すような事は当然書いてない。
輸送も一度で大量には送らず、商人に偽装したりして小分けで送っている。
基本的にそこから割れるような事は行ってはいない、董卓側か袁紹側、漏れるとしたら誰かの口からしか有りえないと見る郷刷。
袁紹や文醜、顔良に絶対公言無用と非常に強く言い含めてある、本心からの真摯な懇願である為に破って言い触らすような真似はしないはず。
となれば袁紹側で怪しいと思えるのは一人しかいない、そこまで考えて郷刷はその考えをかき消す。
まだこれは推定、ただ檄文が遅れているだけかもしれないし、そもそも并州の動きが未だ燻っている黄巾党の残党を退治する為の動きかもしれない。
だがこの動きが連合軍の結成に関しての物なら、無理を押してでも準備しておかなければならない。
楽観視して事実であれば手痛いものになる、だからこそ郷刷は全速で準備をするように命じた。
これがただの誤報か、あるいは賊退治の物であればいいがと郷刷は袁紹の下へと歩んでいった。
そうして五分ほど掛かって郷刷は袁紹の部屋の前へ、戸の前に陣取る護衛の親衛隊にまだ寝ているのかと尋ねる郷刷。
それを聞いた親衛隊の面々は警戒した、また何か起こったのだろうかと。
二十日前の郷刷が戸の錠を剣で叩き壊した事は親衛隊の記憶に新しい、その時も大事で有ったので今回もまたそんな大事なのかと考えたわけであった。
流石に郷刷によって壊された戸は新しく取り替えられてまだ新しい、その上この前の事の様な大事もあるかもしれないので今回は錠は取り付けない代わりに護衛が増えている。
郷刷は親衛隊がまだ寝ているとの返答を聞き、遠慮なく戸を開いて袁紹の部屋に入る。
昨日の朝も袁紹の部屋で袁紹の髪を整えた郷刷だが、昨日の部屋と比べて物の配置が換わり見知らぬ物が増えていた。
これについて郷刷は何も言わない、郷刷が言う必要もなく侍女長が小言を言うからだ。
とりあえずは寝台に歩み寄る前に籠から袁紹の着替えを取り、手に持ったまま寝台に寄って膝を着き一人寝ている袁紹に声を掛ける。
「……本初様、大事なお話があるためご起床願います」
「……もう朝なんですのぉ?」
もぞもぞと動き起き上がる袁紹、それに合わせて郷刷が上着を袁紹に掛ける。
「并州で動きがありました、他の報告待ちですがもしかすると董卓様を攻める連合が結成されるかもしれません」
「……へいしゅう? だから何だというんですの?」
まだ頭が回らない袁紹は郷刷の言葉を殆ど聞き流していたが、構わず話し続ける。
「未だ本初様の元には檄文と言ったものが届いておりません、念のため今すぐにと言う訳では有りませんが出立の準備を整えて頂きます」
口元を隠しつつ欠伸をする袁紹。
「はっきりといいなさい、良く分かりませんわ」
「董卓様を攻める為、他の諸侯が軍を動かし始めました」
「……遅かったですわねぇ、もうちょっと早くならなかったんですの?」
「こちらの準備はまだ終わっておりません、今のままですと予定の兵数で参戦するのが間違いなく遅くなります」
「……どういうことですの?」
「并州の動きが洛陽を攻める動きであれば、遅くとも十四日以内には開始されるかと。 そしてその時には本初様が率いる軍勢は予定の半数、四万ほどしか率いる事は出来ないかと」
喋りながらも郷刷は袁紹の髪を纏め、櫛で梳いていく。
「たった四万ぽっちしか用意できませんの?」
「今のままではそうなります。 私個人としては万全の状態で出立して頂きたく思いますので、その処理を私に任せてはいただけませんか?」
郷刷とて休息は十二分に取った、流石に目の下の隈は完全に取れた訳ではないが、以前よりはかなり体が軽くなっている。
「うーん、でしたら顔良さんと文醜さんに頑張ってもらえれば……」
「既に限界を迎えております、独断となりましたが二人とも休みを取らせました。 戦ってもいないのに疲れたままで戦に向かうのは困りますゆえ」
出来るだけ素早く終わらせ、私の事とて行軍中に休めば何も問題はありません。
そう郷刷は袁紹に上申する。
「……しかたありませんわねぇ、素早く終わらせる事、よろしいですわね?」
「はっ、本初様の随意に」
そうして目の前で着替えを始める袁紹に、返事を返す郷刷。
急激に動き出した時代の波に、乗り遅れないよう対処に動き出す郷刷であった。