悩んで迷う人
「帰っていきましたか」
「はい、私物が無くなっておりました。 それと、これを……」
郷刷、趙雲、楽進、周泰の四人だけでした食事から一晩経ち、翌日の朝。
郷刷は自室で椅子に座り書物を読む傍ら、報告に来た一人の武官の話を聞いていた。
「……手紙、ですか」
「はい、玄胞様にと」
武官の男から手渡された二通の手紙、折りたたまれたそれを開いて中を見る。
「………」
速読、素早く文章を読み解いて内容を理解する。
そうして一枚目、楽進からの手紙をまた折り閉じる。
もう一枚、周泰からの手紙を開いて同じように読んだ。
「……なんとも律儀な」
二枚目も読んだ後閉じ、そのまま懐に収めつつ武官の男を見た。
「盗まれた物などは無いのですね?」
「はい、重要な部屋に侵入した形跡や紛失した物は有りませんでした」
「よろしい、引き続き警備を頼みましたよ」
「はっ、失礼致します」
男は頭を下げた後、踵を返して部屋を出て行く。
それを見送り、背凭れに深く腰掛ける郷刷。
恐らくはあの二人の頭を抑える事は出来ただろう、理想事としては最上級のもの。
多くの偉人たちが望み、不可能と知って諦めた難事。
そして世の基盤となる庶人たちが今最も望む事、それは血が流れない天下太平の世。
その庶人たちと同じく彼女たちも望んでいただろう、誰もが幸せに笑っていられる世の中を。
でなければ曹操と孫策、二人の下には付いていなかったはず。
恐らくは主の下に戻った後、郷刷が語った話が本当に実現可能かどうか聞くだろう。
そして曹操と孫策はこう答えるだろう、『不可能』だと。
郷刷とて無理だろうと理解している、その前提が『話し合うだけ』であればやろうとはしない。
結局郷刷が言った事は力尽くに類した代物でしかない、強力な兵力を背景に他者を脅して屈服させる事、これを力尽くと言わずしてなんと言うのか。
だからこそやる価値がある、脅して戦わず相手が屈服するならこれ以上無いの終決手段。
話し合いで解決できないからこそ、力を駆使して他者を攻め立てるのだ。
その過程にある兵のぶつかり合い、それが丸ごと無くなるのであれば文句など出ようはずも無い。
少なくとも郷刷は文句など無く、前線に立って戦う兵士も喜んで飲むだろう。
誰だって死にたくは無い、志願してきた者ならその覚悟もあるだろうが、徴兵された者は戦いたくなど無い。
しかし徴兵されたからには戦わなくてはいけない、逃げ出せば殺されてしまうような罰を与えられるから必死に訓練に励む。
確かに平和な世の中を夢見るだろう、だが戦の果て平和になった世の中で既に自分は戦いで命を落としている。
そんなものは決して救われない、命を落とした兵士も、その家族も、拭えない悲しみを持って生きていかなければならない。
それは並み以上の軍師、頭の回る者なら嘲笑するような綺麗事。
だったら私は逆に笑ってやろう、無理だ不可能だと頭から否定して大事に挑戦すらしない小心者は邪魔をせず黙って見て居ろ、と。
そう、郷刷にとってこれは挑戦して当然の事。
戦場に出れば誰であろうと死の確率が跳ね上がる、それが軍勢の中で最も安全な場所に居る総大将でも少なからず存在する。
絶対に死なせたくない者が居る郷刷にとって、戦わずして勝つ方法が最優先として処理される。
故に挑戦する、庶人の安全が副次的であったとしても、それはより成功率を上げる物として歓迎する物であるから。
これは郷刷の紛う事無き本心、庶人の生活が安定すれば税も安定し、更なる発展を齎す、そしてより強大となって磐石となる。
「他の者を優先できない者に見せ付けてやるしかない、か」
己の全てを捧げて強大となった主の軍勢を、自分のために戦う者たちに見せ付けてやらねばならない。
戦乱を呼び込む者を叩き潰さねばならない。
「………」
持っていた書物を机に叩きつけるように置く。
「……はぁ、こんな事に精を出したくは無いんですが」
何故こんな策を要さなければいけないのか、理由はわかっているから意味の無い考えだが。
溜息を吐いて椅子から立ち上がって戸へと向かい、手で押し開く。
いつ天下泰平の世は訪れるのか、やはり自分の手で手繰り寄せるしかないか。
部屋を出て一呼吸、それを成す為に続く一歩は今日もまた踏みしめられた。
それから五日後、周泰は郷刷たちとの食事と話の翌日には南皮から出立し、孫呉の本拠地である江東へと戻っていた。
孫策が居を構える屋敷の戸を叩き、戻った事を告げるとすぐに孫策の使いが飛んできて、自分の下に来るようにと伝えられた。
それに従い、周泰は孫策が居ると言う広間に足を運ぶ。
「周 幼平、ただいま戻りました」
戸の前で名乗り、押して開き中に入る。
その広間に集うのは孫家の家長で呉の指導者、孫策にその親友で軍師の周瑜。
孫家の宿将、黄蓋に周瑜の弟子で軍師の陸遜、さらに孫策の妹で次代の孫呉の王、孫権。
その孫権のすぐ傍には周泰と同じく孫権の護衛役である甘寧、今の孫呉を支える中核が揃っていた。
「おかえり、明命。 随分と早く帰ってきたけど都合が良かったわね、それであの男はどうだった?」
部屋の中心、椅子に腰掛けている孫策から三間(約5.5メートル)ほどのところで周泰は止まり口を開いた。
「……最初から私が間諜だと知った上で迎え入れるお方です」
「……なるほど、早く戻ってきた理由は南皮から逃れてきたと言う事ね」
「明命、怪我はない?」
周泰が想定以上の早さで戻ってきた理由を孫策が考え口にし、孫権が周泰の安否を心配する。
「私は大丈夫です、それに玄胞様は私を捕らえる気は無いと仰りました」
「捕らえる気が無い? 捕らえられないの間違いではないのか?」
「いえ、言葉通り私を捕らえようとする動きは一切無くて、南皮から出立する時も門番の人たちに普通に見送られました」
事実、内城と外城の門番は楽進と周泰が出て行くだろうから通せと郷刷から通達を受けていた。
数日と言う短い間ではあったが、可愛い女の子と言う事で兵士の間では知らない者は居ないほど知られていたためすんなりと通れた背景があった。
「奇怪じゃの、他所の間諜と知っておきながら捕らえようとせずそのまま返すなどと、普通では考えられんぞ」
黄蓋が唸って言う、それを自ら体験した周泰もおかしく感じた。
兵の中には南皮の土産と称して幾つか物や食べ物を手渡してくる者もいた、流石に断ってきたが口の端々に「気を付けて」や「お元気で」などの言葉も掛けられた。
一言で言えば非常に気の良い兵士たち、僅か数日だったと言うのに心から見送ってくれるなどとは思いもしなかった周泰。
「何か意図があると思ったほうが良さそうですねー」
「無い方がおかしい、だが幼平をそのまま逃してやる理由も見当たらん……」
軍師がその行動を訝しむも、そうする事によって浮かぶ利点が思いつかないと頭を悩ませる。
周瑜からすれば孫策に対して謀反を勧めて来た時と同じく、郷刷にとって利点となるものが全くと言って良いほど思いつかない。
言動の不一致と言うべきだろう、建前上は完璧に一致しているが、目に見えて分かる利点が無いことに不安が過ぎる周瑜。
周泰の話を聞いて、部屋に集う者たちがそれぞれの考えを口にするがこれと言って当て嵌まるものが無い。
その中で周泰が呟いた。
「……玄胞様はすごく今の世の中を心配しておられました」
顔を俯かせ、小さいながらも皆に聞こえるように喋る周泰の声に、それぞれが口を閉じて聞き入る。
「……今の世の中は危ないと、民がとても苦しみ血を流す世の中で、戦いを無くそうとしているとお話していただきました」
そこまで聞いて孫策や周瑜、陸遜が郷刷の狙いに気がついた。
特に周瑜は周泰を行かせるべきではなかったかと、根が正直で人物像を真っ直ぐ見ることが出来るだろうと送り込んだのは間違ったかと後悔する。
「……力に力で対抗するのはもっと多くの人たちが傷付くと」
「……へぇ、やっぱり面白い事考えるわね、あの男」
ふふっと孫策が不適に笑う、視線を真っ直ぐと周泰に合わせたまま口を開いた。
「力に寄らない大陸の平定、戦う者の多くは庶人であの男はそれを無くそうとしている。 明命が聞いたのはそんな話かしら?」
孫策はあまりにも易々と核心を突き、周泰はそれに頷くしか出来なかった。
「それを聞いた明命は私たちが目指しているものが、玄胞が言う力で力に対抗していると、そして戦いとなって庶人を傷付けているとそう思ったの?」
その問いに周泰は微動だにせず、たっぷりと間を置いてから一言呟いた。
「……わかりません」
「いいえ、わかってるわね? だから明命はそれを私に聞きたくて戻ってきた、違う?」
「………」
否定したい言葉、だが一度考えてしまえば答えを得るまで渦巻き続ける疑念。
周泰は今それに囚われ、誰が正しいのかわからなくなっていた。
「……あの男、玄胞は庶人で構成される軍勢によって決められる戦いを無くそうとしている。 でも私はその軍勢を使って戦いを無くそうとしている、明命はあの男の言葉が凄く綺麗だと感じちゃったわけね」
一言一言、孫策が言う言葉は周泰が思う事を言い当てる。
故に言葉を発する事が出来ず、ただ頷くだけしか出来ない周泰。
「じゃあ明命が悩まないで良い様に結論から先に言っておきましょう、あの男が掲げる理想は何があろうと決して叶わない」
あまりにもあっさりと否定する孫策に、周泰は顔を上げて孫策を見つめた。
「理由はうちの軍師たちが判りやすく説明してくれるでしょうね」
「……雪蓮、そこはお前が決めるところだろう」
「そうですよ、ここはビシっと決めるのが雪蓮様の役割ですよ」
「あら? ここは引き受けた! って言う所でしょう?」
「違う! 幼平は雪蓮の言葉で言って欲しいと思ってるだろう」
「……う~、と言う訳で簡単に説明するわね。 玄胞が掲げた理想は遥か昔から歴史に載るような英傑たちが願っただろう物、だけどそれは一度たりとも達成された事が無い理想」
後はわかるわね? と、周泰を真っ直ぐ見つめて孫策。
いつの世だって天下太平は力によって築き上げられてきた、殷王朝を滅ぼした周王朝も、周王朝を滅ぼした秦王朝も、秦王朝を滅ぼした前漢王朝も。
全ては力、戦いによって滅ぼして滅ぼされた。
つまり郷刷が掲げた理想が不可能である事を、歴史が証明していると孫策。
「……まあ戦わないで勝つ方法も無い事は無いけど、少なくとも今の私たちじゃ間違いなく無理ね」
「っ! それは!?」
「私たちがこの大陸で一番強ければ、脅すと言う方法で戦わずに勝てるでしょうね」
その条件、大陸の半分、いや、最低で三分の一を得て兵や財が他と比べて圧倒的。
そして敵対する諸侯が纏まっておらず、小さく分散していれば一つずつ脅して組み入れる事が出来ると話す。
「玄胞が言っている戦わないで勝つと言う方法は恐らくそれでしょうね」
孫策がそう言って周瑜を見る。
「だろうな、話し合いで大陸の平定など出来ない。 諸侯はそれぞれの主義主張で動いている、中にはわかり易いぐらいに力で示そうとする者も居るだろう。 つまり話し合えない者も居る、そんな相手に幼平、お前ならどうする」
「……戦うしかありません」
「そうだ、確かに玄胞の理想は最も美しいだろう。 だがそれは最も過酷である事と同義だ、我々も玄胞が掲げる理想に同調出来ないわけではない。 だがそれを成す為の力、兵に兵站、それを賄う資金、全てが足りない」
幾ら美しい理想と言っても、それを実現させる為の力が無ければ理想を叶える所か滅んでしまう。
「ねぇ、明命。 貴女が思った事は私も思ってるわ、本当なら戦わせたくは無い、傷付いて欲しくは無い。 でもね、そうさせてくれない相手が居るの」
孫策は立ち上がり、周泰の下に歩む。
「蓮華、小蓮、冥琳、祭、それに穏や思春だって、皆危ない目にあって欲しくない。 そして明命、貴女もよ。 戦わずに皆仲良く出来るなら私はそうするわ、でもそうさせてくれない相手が居るから皆戦うの」
皆の安寧を邪魔する奴が居る、そいつらを倒す為に皆協力してくれている。
「皆、孫呉の兵の一人一人が大事なの。 言わばこれは守る為の戦い、何もせず皆が危ない目に遭うなら誰が反対しようと私は戦うわ。 それだけは覚えておいて」
一度周泰を抱きしめ、優しく語った孫策。
離れた孫策は腰を下げて、周泰と同じ目線で言った。
それに周泰は僅かに頷き、見つめ返す。
「明命がどうしても納得できないなら、私たちから離れて玄胞の所へ行っていいわ。 これは他の誰かが決めることことじゃない、貴女が決めることだからね」
微笑み、座っていた椅子へと戻る。
「……さて、悩んでいる明命には申し訳ないんだけど、これから行かなくちゃいけないところがあるの。 付いてくるかは明命に決めてもらわなくちゃ」
「……なんでしょうか?」
「今すぐじゃないけどね、洛陽に向かわなくちゃいけなくなったの」
「洛陽……、っ!」
周泰は洛陽と言う言葉を聞いて、ハッとして思い出した。
『董卓という地方豪族が帝を助け出した恩に着せて洛陽に押し入り、帝を傀儡にして洛陽で圧政を敷いている』
その言葉を確かに聞いたのを思い出した。
「皇帝様を助けに行くんですか!?」
「ええ、そういう話が来てるわ。 助け出すに当たって勿論戦いになるけど、どうする?」
勿論戦いになる、と言う言葉に抵抗感を感じた周泰。
だが孫策が言ったように戦わなければいけない時がある、それがどこでいつなのか、それを決めなければいけない。
ずっと戦わずにいられたらそれは凄く幸せな事、だけどそれは今の状況じゃ無理。
孫策が言った通り周泰にだって傷付いて欲しくない人が一杯居る、戦わずに居たらその人たちが傷付いてしまう。
「……行きます! お供させてください!」
「うん、決まりね」
「よく言った! うじうじ悩み続けても先には進めんからな!」
一瞬の躊躇いの後、はっきりと言った周泰に皆が笑みをこぼした。
周泰は周泰で他の言葉を思い出していた、確か郷刷は袁紹が皇帝を助けようと乗り気だと言っていた。
だったら一緒に皇帝を助けに行ける、その時にもう一度話してみようと、そう心に決めた周泰であった。
低いボキャブラリーのお陰で雪蓮さまの言いたい事がなんかでこぼこだ
本当ならもっとスマートに言いそうだなぁと、限界を感じた
あと凪さんの方も大体似たようなことになってるので各自補完で!
さらに次で終わるかといったけど嘘ですー、次は本当にネクストチャプターです、嘘ばっかりですみません