隙間を狙う人
飯店の通路を歩く五人、先頭には店主。
通路の装飾は豪華だ、典型的と言って良い装飾が成され言ってしまえば少々目に厳しい。
と言ってもまだこの飯店の通路の装飾は優しいほう、宮中になど出向けば赤青緑に黄金色で色彩感覚がおかしくなりそうになる。
庶人の出である趙雲、楽進、周泰はその色彩に目が痛むのか、時折視線を細めたりしていた。
南皮の内城内も豪華だが、出来るだけ目に刺激を与えやすい赤色などは暗めにして、他は緑色などで補色を避けている。
郷刷としてはこの程度疾うに慣れているので気にせず歩く、むしろ今の内装に改修するために袁紹を説得した時の方が疲れたのでどうと言う事は無い。
母が過ごした建物を作り変える、その事に対して激怒し、決して認めようとしなかった袁紹を説得するのに骨を折った郷刷。
比喩ではなく文字通り骨を折った、決して認めぬ袁紹に食い下がる郷刷、それに対し首を落とされる一歩手前まで行った。
それでも食い下がるのは今は亡き袁成よりも、今を生きる袁紹のため、この程度で命を掛けるのは正気を疑われるほどの事。
別に目に悪い装飾だから袁成が病に掛かった訳ではないが、体に悪い事は間違いないので小さな事でも取り除きたかった郷刷。
結局改修の提案を取り下げず食い下がり続ける郷刷を力尽くで取り下げさせる、口で言っても分からないなら体に判らせる他は無いと。
今は居ない郷刷を疎んでいた文官に唆された袁紹は武官に命じた、『死なない程度に口を利けなくさせよ』と。
一度殴られ取り下げるかと問えば『否』と答える、もう一度殴り再度聞けば『否』、決して取り下げる事をしないその姿に激化は必然。
応答の度に傷は増え、激しくなる物に耐え切れず腕や足の骨が折れ、肋骨から鎖骨、顔も殴られ鼻も折れて血を垂らした。
呼吸を荒げ血を流し立つ事も出来ずそれでもなお食い下がるその姿に、その場に居た全員が恐怖に慄いた。
何故そこまでする必要があるのか? とそう思った。
『私は貴女様の為だけに存在しております、文開様ではなく本初様の僕でございます。 本初様を思い至る事はあれ、優先するのはただお一人、本初様だけでございます』
荒れる呼吸と掠れた声で郷刷は言ってのける、十八に届かない男が袁紹の為だけを考えて命を惜しまず動く。
袁成の思い出と袁紹の現在、どちらを取るのかと言われれば当然袁紹を取る郷刷。
この時の判断も頭でっかちな物では有ったが、将来に至りこの事が原因で起きる袁紹の視覚能力の劣化を許容出来なかった。
袁成の死も有って過敏になっていて極端であったのは違いない、郷刷の中で最優先、最上位に位置するのは袁紹であり、今もそれは変わらない。
変わったと言えばその接近方法、この時のように愚直に一直線は明らかに効率が悪いと理解しての改善。
思考が昔のままであれば董卓に手を貸すと選択した袁紹に、頑なに拒否するよう迫っていただろう。
だが人によっては邪、狡賢いなどの評価を受けるものをもってして郷刷は認めた。
「さて、食事が出来るまで時間がありますから」
店主に案内された部屋は縦横八間二尺(約15メートル)ほどの部屋、中人数で使う為の部屋だった。
喋りながら本来十人ほど座る食台に、対となる椅子を引く。
「少しお話でもしましょうか」
そうして遥か心の奥まで食い込む牙をもたげる、それを持つ男は標的となる『三人』の少女たちへと笑みを向けた。
「どうぞ、お座り下さい」
僅かに目尻を下げ、口角を上げて軽い笑みを作る郷刷。
それを見るのは三人、趙雲、楽進、そして周泰、それぞれが頷いて椅子に座る。
郷刷は三人が座ったのを確かめてから最後に座る、郷刷は周泰と、趙雲は楽進と正面になった。
「こういう機会は滅多にありませんからね」
「荀イクらが居た時もあまり話はしておりませんでしたな」
「したくても出来ない、と言った方が正しいですが」
仕事三昧で話す時間は日に数分あれば良い方、討論会や検討会に出席しても個人的な話はほぼ皆無。
軍師としての能力、戦略から戦術、果ては僅か数名の兵の運用方法まで話し合うために必然的に極小となる。
程昱は郷刷の部屋にある竹簡や書物を借りに来たりしたので、荀イクと郭嘉よりも話した時間が多かったが。
今の郷刷の時間から考えれば、仕事を出来ない状態は非常に稀有。
この事から早々訪れない、ここを逃せば次はあるのかどうか疑問に思う機会。
「確かお二人が袁家に仕官してきた理由、聞いていませんでしたね」
まずは軽く様子見、二人の素性を把握している郷刷は、楽進と周泰の二人にとって軽いようで重い様子見を放つ。
「そう言えば私も話しておりませんでしたな」
「子龍殿は路銀調達と聞きましたが?」
「いやいや、冀州にその人ありと謳われた安景殿を一目拝見したく馳せ参じたのですよ」
「なるほど、常山の昇り龍と讃えられる子龍殿にそう言われると悪い気はしませんね」
それを察して、趙雲がわざと茶々を入れて雰囲気を軽くするよう語る。
「凪、明命。 こういう店は初めてなのだろう? そんなに緊張しては美味い物も不味くなるぞ」
「まあ確かにこう言う店は貴族や富豪など、庶人の方が気軽に入れないような店ですからね。 私も始めての時は緊張したものです」
お二方とも庶人の出でありましょう? 笑みを深めて郷刷が言う。
「はい、自分の出身はエン州陽平郡衛国になります。 仕官を願い出た理由は富んでいる冀州が気になったためです、どうして冀州とエン州がこれほど違うのかと疑問に思ったのでこの度仕官を願い出ました」
本来の目的である玄胞 郷刷の人物像の把握、確かにそれがあるが別の疑問も浮かんでいたのでそちらを話す。
曹操が治める街は楽進が居た街よりも数段整っていた、その状態に仕立て上げた曹操の執政能力に感服したのは記憶に新しい。
だがその曹操が治める街よりも優れ、整っている巨大な街を目前として自然と浮かんだ疑問がそれだった。
この差は一体何なのか、どうしたらここまで整える事が出来るのかと、そう思わずに居られなかった。
「違いですか……、まあ簡単な話ですよ。 別に本初様や私の内政能力が優れていると言う訳ではありません、こうなっている理由はただお金があるからだけですよ」
「お金、ですか」
「ええ、金を使って軍勢を整え、その整えた兵を賊の討伐や訓練だけではなく警邏もやらせている。 冀州の辺境出身でしたらそちらに回し、屯田をさせておりますので意欲が湧きやすいのもあるでしょうが」
「……とんでん?」
聞きなれない言葉、郷刷を除く三人が言葉の意味が理解できないと首をかしげた。
「調練をこなした兵を出身国へと送って土着させるのですよ、平時は農業に精を出してもらいつつ有事の際は兵として国を守るという事です」
自分が生まれた国、その村や街を自分の手で守れると言うのも意欲を失わせにくい。
農作業は見た目以上に肉体を使う為、長期間調練をこなさずとも衰えにくい。
しかしながら農作業ばかりであればいざと言う時に戦い方を忘れました、なんて事になりかねないので定期的に教導団を送り調練を分けておこう。
「……驚きました、そんな方法があるとは」
「兵とは攻撃する為の存在ではなく、守る為の存在だと私は考えています。 兵の誰もが戦いを良しする訳ではなく、自身が守りたいもののために志願してくる者も多いのです」
であればこの屯田兵は思想にあったものであり、平時における兵と労働力の確保を両立できる農政。
他の州よりも人口が多い冀州では糧食の確保は絶対に必要な事であり、常に余裕を維持し続ける必要にも駆られた結果。
糧食の確保を怠れば戸口故、見る間に糧食は減り食う物に困るだろう。
「とまあ、やっていることは中々奇抜だとは思いましたが上手く当たりましたね」
金が有る故に出来た事、そう言って郷刷は頷いた。
「お金があれば選択肢は途轍もなく広がります、商業、農業、軍備……。 他州との外交でも金品は通用しますし、州内でお金に溢れていると風評が流れれば商人から農民と希望を持って集まってきます」
「では他と違うのは袁家にお金があるからですか?」
「ええ、その通りです。 勿論お金があっても、執政に問題がある州牧では持ち腐れなのは間違いないですが」
金金金、世の中は金。
世の中を動かす三つの内の一つを持つ袁家、だから冀州はここまで大きくなる事が出来たと郷刷が言う。
「違いはそれだけです。 労働力である民衆を集めるには犯罪が起きない治安、食うに困らない仕事、そして安らげる家屋。 それを確保できれば後は簡単な話です」
何も疑問に思う事は無い、お金があってそれを内政に使える男が居ただけ。
「恐らく今有力な者として名が挙がる人物が十分なお金を所持していれば、上手くやってのけて州内が賑わうのは容易く予想出来ましょう」
そうして郷刷は三人に向かって指折り数えで名を上げる。
「例えば陳留の曹操様」
ピクリと楽進の眉が動く。
「それに今袁術様の客将をしていらっしゃる孫策殿」
大した反応を見せず郷刷を見る周泰。
「あとは……、子龍殿、劉備様はどのような人物でしたか?」
「気になりますかな?」
「能ある諸侯であれば気にするでしょう、黄巾の乱で飛躍し平原の相にまで上ったのですから」
一介の義勇隊でしかなかったのに今は平原の相、劉備は天祐を得ている、そう言っても過言ではない。
それに郷刷が欲しい才覚ある人材も揃っている、さらには恐らくは本物である天の御遣いも内に抱えている。
これからも大きくなり続ける可能性は十分にある、劉備の風評が事実であれば英傑たる存在に相応しいだろう。
「……ふむ、劉備殿は危険ですな」
「危険?」
「はい、劉備殿が語る一言一言に力がある。 言い換えれば惹き付ける魅力が有ると言っても良いでしょう」
「なるほど」
「確固とした主を支える気心が無ければ大いに揺れるでしょう、大徳と評して違いないかと」
それを聞いて羨ましい事だと郷刷は思った、その趙雲が大徳と評したものが袁紹にあれば大陸に覇を唱え手中に収めることも出来ただろうと考えた。
「でしたら平原の相、劉備様ですな。 恐らくはこの御三方が今のところ有力な諸侯と私は見ます」
その三人が多額の金を掴めば、さらに飛躍することは間違いない。
「まあ孫策殿はこのまま居れば近い内に潰れるでしょうが、さてどうなる事やら」
そう言って郷刷は楽進を見る。
「他の州との違い、お金の有無。 それか劉岱州牧、あるいは太守に治世を行うだけの能力が無かった。 ただそれだけでしょうね」
「………」
その言葉には説得力があった、楽進とてこんな世の中を憂い李典と于禁と共に黄巾党の暴乱に対抗する為義勇軍を挙げた。
結果は良くないものでは有ったが曹操と言う英傑に出会い仕える事が出来た、だがそれは黄巾の乱があってこその出会い。
そもそも黄巾党が暴れなければ曹操との出会いは無かったし、義勇軍を挙げる必要もなかった。
それを思わせた言葉を吐いたのは郷刷、冀州で黄巾の乱を行わせなかったその治世は手放しに褒め称えるの相応しい。
楽進としては出身が冀州であるか、エン州州牧が袁紹であったならまた別の人生を歩んでいただろう。
「私としては御三方のように能力ある方々が陣営に加わって頂けるなら、さらに領地を磐石なものに出来て嬉しいのですが」
「……それは冀州だけですか?」
「他の州にも手を加えてよいのでしたら、少なくとも賊が発生しない程度には治安を安定させるのですが」
最低の基準を明確にする郷刷、幸い冀州で打った手は通用すると判明している。
それを行うだけの金を袁家は有しており、冀州と国境を隔てる州。
幽州、并州、司州、エン州、青州の五つの州、流石に今の冀州にする為の政策を五つの州同時に行えるほどの財力は無い。
だが治安を安定させると言う点のみであれば、五つの州に同時に行う事が出来ると断言する郷刷。
「しかし世の中はそんな簡単には行かないわけです、ですから私は冀州を磐石にする事しか出来ないわけでして」
「それだけでも十分立派な事だと思います」
顔を上げる楽進はしっかりと郷刷を見て言う、これは楽進の本音であり偽らざる思い。
「ありがとうございます、まあお金が無ければ他の州と変わらなかったかもしれませんが」
軽く笑って言う郷刷、だが楽進は真摯な表情のまま郷刷を見ている。
「とりあえずは楽進殿が世を憂いている事はわかりました、今後もっと詳しくお話できるようでしたらお聞かせ下さい」
軽く会釈をして郷刷は次の人物を見る。
その視線の先には周泰、曹操の楽進に次ぐ孫策の周泰。
少なくとも楽進よりは御し難いと考え見る周泰は、その大きな瞳の内に郷刷を映しこんでいた。
次は明命ちゃん!