内心弾む人
宦官の排除、董卓の簾政、そして埋伏とも間諜とも取れる仕官してきた二名の武官。
大陸は動き始めている、郷刷にとって向かって欲しくない方向へと。
そう受け取った理由は聞こえ始めてきた風評、懸念事項の董卓の暴政。
実際はそんな事は無い、内政に対しての口出し、もとい提案して賈駆はその殆どを採用している。
洛陽に置いている細作からも税率の低下などで、庶人は歓迎こそすれ不満が上がっている様子は欠片も無いとの報告。
さらに袁家からの支援、関所や洛陽の城壁の補修など、罷り間違っても洛陽の庶人を苦しめるような事を行っていない。
つまりはそんな風評が流れる訳が無い、だと言うのに郷刷の耳に入るのは董卓が洛陽で暴政を敷いているとの話。
郷刷にとって好ましい風評を流す細作も十分に働いているはず、だと言うのに董卓にとって悪い風評が広がる速度が異常に速い。
これは意図的に誰かが流している、そうとしか取れない速度。
この流れに便乗している者が複数居る、共同してはいないだろうが思惑が一致して風評を自重せずに流している。
「……どうしても気に入らないようですね」
押さえきれない、今後もこの風評が広がり続け大陸全土に行き渡る。
結果は諸侯が立つ、地位を利用して専権を振るう董卓の討伐、そして傀儡となって居る帝の救出と。
まるで美談、今の大陸を憂い世を正そうと立ち上がる諸侯たち、そうして囃し立てられるだろう。
それが自作自演の演劇などと庶人は知れずに、諸侯たちを憂国の士と褒め称え支持を得るだろう。
権力を得たいが為仮初めとは言え平和を乱し、戦乱を呼び込もうとする愚かな諸侯には本当に反吐が出そうだ。
そんなことをしている暇があったら内政に注力して、賊などが発生しないように尽力しろと。
他所から入り込んできて悪事を働いていくので、少なからず被害が出て迷惑だと郷刷。
「………」
一つ溜息を吐いて、郷刷は手紙を蝋燭の火にかざし燃やす。
これは本格的に準備をしておく必要が出てきた、ある程度の事は既に整えてはいるが、年単位で睨み合いが出来るほどではない。
ここは洛陽にごっそりと糧食を送り込んでおく必要があるか、いや、確実な撤退をなすために平原やギョウを押さえておきたい。
洛陽攻略戦が始まってから撤退路を確保させるか、撤退しながらも順路の城を落とすのも……、士気の低下は免れないし難しいか。
南皮に戻っても周りは全て敵、戦力の増大のため勝っても負けても領土の拡大は図らねばならないかと、自室から出ながら考える郷刷。
まさしく自身の手腕に掛かってくる、董卓軍を含む全軍の指揮権を移譲され将兵を自由に扱える。
兵の数は袁紹軍を含めれば二十万を超える、数の上で見れば連合を組んだ他の諸侯よりも多いだろう。
しかしながら戦闘に全軍を投入できるわけではない、武関や函谷関、汜水関に虎牢関、洛陽にも勿論それなりの兵をおいておく必要がある。
野戦を行うとしたら精々十万ほどの兵力位しか使えないだろう、と言っても敵の位置次第で動員できる兵力も変わってくるのだが。
「共を、街を散歩しますので」
そう言ったのは散歩と言う名の巡見、郷刷が受け持つ大事な仕事の一つ。
言い方次第な話ではあるが、気晴らしも含めてあるので間違ってはいなかった。
そうして親衛隊が五人、郷刷の護衛に付いて廊下を進んで内城を出た。
内城の城門を潜れば広がるのは大通り、視界に入るだけでも百を超える人の波。
右を向けば街並みと人の波、左を向いても街並みと人の波。
玄 郷刷と言う男の能力を、物で表現した結果がこの街並みだろう。
その規模は大陸随一、ここ南皮の戸口は最も多い。
戸数は六桁、人口は七桁に届いている。
無論そのような人口の膨張に対する対策、主に家屋と食料の問題。
犯罪を起こそうとする者以外は拒まない姿勢ではあるが、限度を超えれば間違いなく破綻する。
南皮に来てもそこに住めるわけではない、庶人の分類を決めてから送り出す。
農民なら人手を必要としている農村などに送り、経験などを生かせるよう配慮する。
そういう意味では南皮の人口の割合から、農夫の数は他の街よりもかなり少ない。
逆に治水を行い天災の被害に遭いにくい土地だと、広大な土地を開拓して田畑を耕している為にかなり多い。
糧食を自給できるよう力を入れている結果だが、そんな事を知らない天災などで土地を失った農夫たちには天の助けにも等しいだろう。
つまり南皮に多く見られるのは街に住む庶人と小商工業者、それに他の街より流れてくる商人の割合を占める。
また浮浪者や失業者にも対策を施す、例えば仕事の仲介所など出来るだけ人が腐らないよう流動させる体系を構築。
と言っても人手は常に必要とされているため、路地に働けない者が溜まっていると言う状況も殆ど起こらない。
それに街は南皮だけではない、袁紹の領地には大小さまざまな規模の街がある。
意欲が有るならどこかで仕事にありつける、最後の手段として農作業に励むと言う事も出来るのが袁紹の領地である。
「今日も今日で賑わっていますね」
軍を維持する為に必要な金と糧食を生み出す為にした事であるから、賑わってもらわなければ非常に困ると言うのが郷刷の本音。
その人が賑わう光景を目にしながら、郷刷たち一行は大通りから逸れ路地へと入っていく。
正直あの人込みに入っていくのは気が引ける、武装している親衛隊も居る事から警邏でもないのに歩き回れば邪魔になるだけ。
そういう意味を含み路地を歩く、路地と言っても大通りほどではないがそれなりに広い。
大通りで出店出来なかった小商いの者たちが多く見受けられ、それを目当てにする者も多く見られる。
そんな路地の中を歩けば良い香りも当然してくる、売っているのは食べ物なども含まれている。
今の時間は昼頃を過ぎた辺り、郷刷は昼食をまだ取ってはおらずに腹が空いている。
「……ふむ、皆さんは昼食を取りましたか?」
「いえ」
郷刷の問いに親衛隊の一人が言葉を返し、他の者も頷く。
「何か食べていきますか、腹が減っては何とやらと言いますし」
奢りますよ、そう一言告げれば親衛隊の面々は。
「ご相伴に預からせていただきます」
強く頷き、郷刷の誘いに喜ぶ。
「それは良かった、どうにも小腹が空いて力が出なかったところですので」
そうして郷刷でも親衛隊の面々でもない、第三者の女性の声が相槌を打って来た。
声がしてきた方向、郷刷が向かおうとしていた進行方向の曲がり角から姿を現したのは趙雲。
「子龍殿……、今は警邏の時間でしょう?」
「安景殿は食事を取らずに働けと申しますか、なんとも冷たい事を仰る」
趙雲の後ろ、楽進と周泰も姿を見せ、さらにその後ろから何人かの兵が見える。
「なに、心配なされるな。 この地区の警邏は既に終了しております故、これから昼食をと思っていたところですので」
「それなら良いのですが」
とりあえず郷刷は懐から袋、財布を取り出して中からいくつか金を取り出す。
「ご苦労様です、これで昼食を取ってきてください」
郷刷は親衛隊へと振り返って先頭の男に金を手渡す、額は五人が割高な食事を取ってもお釣が来る金額。
趙雲たちが連れていた兵にも同様に金を渡し、労いの言葉を掛けて昼食を勧める。
「ありがとうございます!」
「好物を食べるのはいいですが、そればかりだと体調を崩しますので肉と野菜、食事の調和をしっかり取ってください」
郷刷の護衛は趙雲が引き継ぐ事となり、親衛隊と兵はつるんで郷刷が来た方向へと歩いていった。
「さて、何かご所望のものはありますかな?」
振り返って趙雲、楽進、周泰の三人に向かって言う。
別にケチるほど金が無いわけではない、よほど高価な物でなければ簡単に腹を膨らませる事が出来ると郷刷。
「ほほう、中々剛毅な。 凪、明命、好きな物を頼んでいいそうだぞ」
「……よろしいのですか?」
「ええ、お好きなものをどうぞ」
「えっと……こ、高級飯店でも……?」
「構いませんよ、名の通った高級飯店となると大通りに出なければなりませんね」
どうせなら飛びっきりに美味い料理を食べよう、郷刷は大体食べる時間が掛からない質素な食事を好む傾向がある。
机一杯に広げられた沢山の料理を一つずつ摘むくらいなら、二品三品の質素な料理を選ぶ。
しかしながらたまには手間が掛かるが頬が落ちるような美味い料理食べるのも悪くは無いだろうと、ここ数年思うだけの機会が巡ってきた。
「では行きましょうか」
「……本気だったとは」
歩き出した郷刷の後ろから、趙雲の呟きが漏れた。
冷やかしの意味合いを含んでいたとは言え、こうもあっさり高級飯店行きが決定するなど思わなかった趙雲。
確かめる意味でどこでも良いのかと言う問いを掛けた周泰も、まさか本当に高級飯店に行くとは思わず驚いていた。
楽進も似たようなもの、周泰と同じく庶人の出であるため、郷刷の向かう先が本当に高級飯店ではないのかと緊張し始めていた。
「いやはや、たまにはこんな日も悪くは無いですね」
今この時だけは仕事の事を忘れようか、これからの事を前に英気を養っておこうと郷刷は内心に決めた。
自分へのご褒美的な、流石に麗羽さまとゆっくりお茶を飲んでる方が安らいだりする郷刷さんですが