体を悶えさせる人
「ではお二人とも、こちらへ」
郷刷を先頭に趙雲、楽進と周泰が歩む。
「安景殿、文官の方は行かなくてもよろしいので?」
「今回は前回のお三方のような方々はいらっしゃらないと報告を受けました、早々あのような方々が現れるなら困りものですが」
「確かに」
くくくと趙雲が笑い、郷刷も笑みをこぼす。
「子龍殿はもう仕事は終わったのですか?」
「無論、早々に終わらせて居りますゆえ」
軽く酒瓶を揺らして頷く、扱いは武官であり書類仕事もさほど多くは無い。
客将故に仕事はしっかりとこなしておく、やるべき仕事をほっぽりだして酒を飲むのも少々気が引けると趙雲。
「お陰で、中々珍しい物も見れましたので」
楽進の氣弾、非常に優れた英傑たちでも行えるのはごく僅かの氣の放出。
希少性で言えばかなり物の、日常的に氣を扱う事になる五斗米道の者らも含めても少ない。
氣弾では無く迸る気炎を見たいと言うのであれば、街にある五斗米道南皮診療所に行き、放浪していない五斗米道の医者がたまたま居れば運良く見られるが。
「それにしてもそのお酒、かなり良い物ではありませんか?」
「流石にわかりますか、実は少々泡銭を得てしまいましてな」
香り立つ良い酒、それを一杯引っ掛けている趙雲。
買えば値が張るだろう一品、それを予想外で得た金銭で買ったと言う。
「物にして残しておくのも良くは有りますまい、ですから私の享楽で消えてもらう事に」
飲んでこその酒、消えてこその酒と趙雲。
不当に得た金など感心出来る事ではないが、残す気は無いならと何も言わない郷刷。
「安景殿も一杯如何かな? 仕事も有りますまい、それとも部屋に──」
そう趙雲が意味を含んだ笑みを浮かべて、郷刷に何かを聞こうとしたところで。
「アァァァァニキィィィイイ!!」
ドドドドド、と舗装されているはずの廊下を土煙を上げて走って来たのは文醜。
「ゥゥゥゥゥアァァァァァァニィィキィィィイイイ!!!!」
「……文し──」
一気に走り寄って着た文醜は急制動を掛け、郷刷の前でピタリと止まると同時に襟を掴む。
「嘘だろ!? 嘘だと言ってくれぇー!!」
と叫びながら目の下に僅かに隈を作った文醜がガクガクと郷刷の上半身を揺らす。
「───」
喋ろうとするも凄まじい勢いで揺らされ、上手く口を動かせずにただ成すがまま。
「絶対アニキはそっちだと思ってたのにぃ!! 返せ! あたいの掛け金返せ!!」
「───」
さらに激しくなるそれに、郷刷の意識が遠のき始めた。
「猪々子、それくらいにしておかねば落ちるぞ」
趙雲にそう言われて、ぱっと手を離した文醜。
揺られた勢いのままの慣性で派手に転ばされた郷刷は、受身も取れずに転がって廊下の天井を支える柱にぶつかった。
「………」
「………」
楽進と周泰はその光景に何も言えず、ただ見ているだけしか出来なかった。
「全く、悔しいのは分かるが安景殿に当たるのは筋違いだろう?」
「そりゃそうだけどさ! 女っ気の無いアニキが部屋に連れ込むなんて、何で今なんだぁー!!」
うおーんと文醜が本気で泣きそうな顔をして文句を垂れた。
文醜としては郷刷が言っていた女が男になる怪しい食べ物が見つかったら。
『第七十六回、玄胞 郷刷は男が好きか女が好きか、それとも○○(不適切により伏字)なのか!? 賭博』の掛け金を払い戻してでも買い集めようとしていたのに。
いや、七十五回も賭けが成立しなかったから、今回も終わんないだろうなーと、日和見だった文醜は給金から少しずつ上乗せしていた掛け金が一瞬で吹き飛んだ事に憤慨する。
これが当たっていたら良かった、上乗せしていった掛け金だとかなりの金額になって戻ってくるはずだったのにと文醜。
「っ! い、息をしてません!」
安否が気になり廊下に転がる郷刷の呼吸を確かめた周泰が声を上げる。
「拙い! はあああああっ!」
それを聞いた楽進が気を纏わせた拳を郷刷の腹へと打ち込む。
ドスンと鈍い音と共に郷刷の体が揺れる。
「──ぶふ、づあ!」
拳を打たれ体を曲げつつ変な声をあげつつも息を吹き返した郷刷、激しく咳き込みをしながらなんとか呼吸を整えていく。
「だ、大丈夫ですか……?」
周泰に声を掛けられるも、点滅する視界に呼吸するだけで精一杯。
なんとか手を向けて大丈夫だと意を示す、咳を何度か繰り返して頭を振る。
なぜこんな事をしたのかと文醜に問おうと立ち上がろうとするも、楽進の一撃が効いていた為まるで生まれたての小鹿のように足にきていた郷刷は立ち上がれない。
「まあ理不尽と言えば理不尽ではあるが、一因こそあれそれを負うのは安景殿でないことは確かですな」
歩み寄りひょいっと郷刷の腕を取って引っ張り立たせる趙雲。
「……助かります」
「礼を言われるほどの事では有りますまい」
「……文醜殿、後で話を聞かせていただきましょうか」
「それは必要ないでしょう。 要は安景殿で賭け事をしており、それが外れてしまった為に猪々子はこの様な事をしたのです」
隣の趙雲から話を聞いて、郷刷は文醜へと視線を向けるも凄く落ち込んでいじけている。
斗詩との甘い一時がぁー、と廊下の端でしゃがみこみ本気でへこんでいた文醜に、郷刷は一つ溜息を吐いた。
どれほど金を掛けていたのかと、文醜の給金は決して安くは無いのでまさしくそれなりの大金だったのだろう。
「……子龍殿も参加していたわけですね?」
「ええ、適当に賭けてみたのですが大当たり」
趙雲が言っていた泡銭とはこの事、どれ位掛けていたかはわからないが上等な酒を買える位には戻ってきたのだろう。
しかしそんな賭け事が行われているとは露知らず、相当隠蔽に力を入れていたはず。
どれだけの人数が関わったのか、逆にそれほど多くないのか、それだと文醜が浪費せず入れ込むほど掛ける訳も無い。
やはり多く関わっているのだろう、何に対してなのか自分で賭け事とはまあなんともやってくれると笑う郷刷。
「文醜殿、後でお話がありますので」
まだまともに歩けないので、趙雲に連れ添われて落ち込む文醜の肩に手を置いて言う。
「行きましょうか」
肩から手を離し、いじける文醜を放っておいて不恰好な歩き方で郷刷の部屋へと向かった。
「先ほどはどうも、無様な姿を見せてしまい申し訳ありません」
「い、いえ……」
「……見ていない事にした方が良いんでしょうか?」
机の上に両手を置いて頭を下げる郷刷に、楽進と周泰はそれぞれに困惑を表す。
二人が聞いている郷刷の情報からすれば遥か上の立場にあり、楽進であれば曹操、周泰では孫策の立場に一歩下に在る存在。
一つの国として見れば相国に値する位置の存在、内の痴態を見られたからと言って軽々しく頭を下げるような立場でない。
だと言うのに至極あっさりと、そんな事は関係ないと頭を下げる郷刷。
「普段であればあんな事はしないのですが、……いえ、こちらの事は置いておきましょう。 周泰殿」
「は、はい!」
「楽進殿に敗れたとは言え、仕官するお気持ちはまだありますか?」
「はい、あります!」
何か別の方法で入り込もうかと悩んでいた周泰にとっては渡りの綱、与えられた任務からすればこれが罠であっても飛び込むつもりで頷く周泰。
これが郷刷にとって罠かどうか、と言うのであれば罠ではない、勿論楽進と周泰の動向次第で即座に絡めとり動けなくする為の罠に早変わりするのだが。
「それは良かった、見た所かなりの才能をお持ちのようですし、こちらとしては是非とも迎えたいのです」
笑顔で言う郷刷に、同じく笑みを浮かべて了承を返す周泰。
「楽進殿もお気持ちは変わりませんか?」
「はい」
「でしたら、説明させていただきます。 当袁家は一角の方々を登用する際に当たり、まずは客将として過ごしていただきます」
一定期間客将として過ごしていただき、お気持ちが変わらないか確かめていただいた後に正式に仕官と言う形になります、と継ぎ足して言う郷刷。
「登用期間と言ったところでしょうか、お二方の人となりに合わなければ苦しくなるでしょうから」
「こちらの事を考えていただけるのですか?」
「当然です、誰であろうと接し方を考えます。 意味合いとしては仕えて頂くと言う具合ですので、無論それに対して強くに出る方はお断りしますが」
相手がへりくだっているからと言って、意味も無く高飛車な態度を取るような協調性の無い相手に合わせる気は無いと郷刷。
「確かに、そんな方は相手にしたくないですね」
「私も同じくです」
「今の世の中、他者に掛ける優しさを持つのは難しい事ですからね。 それでは楽進殿、周泰殿、一先ずは客将と言う立場で宜しいでしょうか?」
「はい」
「大丈夫です」
頷く二人、郷刷もそれを見て頷く。
「ありがとうございます、それでは仕事に関してご説明いたしましょう。 お二方は武官と言う事でやってもらう事は兵の調練や街の警邏などになります、最初は右も左も分からないでしょうから同じ客将の趙雲殿と動きを共にしてもらいます」
「む? 何だか仕事を押し付けられたような気がしますが?」
「何時も通りで変わりませんよ。 ただ最初は趙雲殿の後ろにお二人が付いていただくだけですので、慣れていただければ個別にやってもらうだけですから」
「ふむ、でしたら良いのですが」
「お願いします、お二方もそれで宜しいでしょうか?」
「はい」
簡単な説明、別に難しい事ではないと二人は頷く。
「他の仕事は追々に、一先ずお二人に気を付けてもらいたい事が一つ」
笑みを浮かべたままの郷刷、その様子に楽進と周泰は表情を変えず聞き耳を立てる。
「あまり自由に動き回らないでいただきたい。 最近細作の数が増えておりますので、一人でこそこそと動き回られると間諜などの疑いを掛け捕らえなければならなくなりますから」
その一言に、机の傍に立っていた趙雲がほんの少し表情を変えて小さく「なるほど」と呟く。
楽進は表情を変えたが、周泰は全く変えずに佇む。
「はい、肝に銘じておきます」
楽進は問題無いと頷き、周泰も同じように頷いた。
「最悪首を落とさなければなりません、私としてもお二人に対してそのような真似をしたくありませんのでご自重を。 それではお二人に部屋を充てがいましょう、案内させますのでお付き下さい」
郷刷が立ち上がり、戸の前に移動して開ける。
そのまま人を呼び、楽進と周泰を客将用の部屋へ案内するように告げる。
「それでは、後ほど袁家頭領である袁紹様にも御目通り願いますが、それまでは部屋でお過ごし下さい」
そうして二人は案内の者に付いて行き、廊下の奥へと消えていく。
「あの二人は間諜ですかな?」
「ええ、あの二人は曹操様と孫策殿の配下ですよ」
「分かってて入れるとは、何か考えが有るようで」
「お二人とも素直そうですね、周泰殿は恐らく訓練を積んでいるでしょう。 先ほどの警告に対して、どちらが間諜の態度として相応しいかは悩みますが」
人の心理からして悪い事をしているんじゃないかと疑われれば、あまりいい顔をしない。
楽進が表情を変えたように、良い気分にはならなかったはず。
そんな楽進とは違い、全く表情を変えない周泰が間諜として相応しい態度だったかは難しいところ。
その理由としては恥じる事が無いために堂々としていたと取れるため、逆に注意を向けさせ非が無いところを見せる為にあえて、と言うのも考えられた。
「まあどちらにしろ警戒されていると見て良いでしょう」
「では私もそう見られているのですかな?」
「さあ、どうでしょうか?」
趙雲の問いに郷刷ははぐらかして笑う。
「……いやはや関係ない事でしたな、私が劉備殿の間諜であってもやることは変わりませんので」
「期待させていただきますよ」
さて、あの二人はこれからどう動くのかと考える。
動くもよし、動かぬもよし、敵になり得る相手の駒を減らしておくのも調略の一つ。
黄巾党の事も完全に終わっていない為に、休みであってもあまり休んでいる気にならない郷刷であった。