請う人
「……わ、わかりました」
郷刷の執務室兼自室で、やるべき事の具体的な内容を顔良に話す郷刷。
それをげんなりして頷く顔良、これからやらなくてはいけない仕事の量を聞いただけで疲れていた。
と言ってもいつも顔良がやっている仕事の四倍ほど、他の仕事も複数の文官に割り振っているのでこれ以上は増えないと郷刷。
「……安景さんはいつもこんな仕事の量をやってるんですか?」
「たまにですよ、こんな量を毎日やっていれば間違いなく体を壊します」
「ですよね、なんだか安景さんはいっつもものすごい量の仕事しているような感じがして」
「私も一人の人間です、出来ない事は出来ません」
流石にいつもやっている仕事の二割増しになると、睡眠時間を減らさなくてはいけない。
出来なくはないが、やったとしても長期間となれば体調を崩して倒れるだろう。
しかしながら仕事の割り振り体系も予測としては後数年で整った形になる、そうすれば今の仕事量も大きく減るだろうと考える郷刷。
「まあ、早ければ三週間ほどですから」
「……安景さんの見立てでは?」
「二ヶ月くらいかと」
「……うぅ、頑張りますぅ」
大事な仕事とわかっている為、嫌とは言えずに長い二ヶ月になると顔良。
「顔良殿が普段している仕事は文醜殿にしてもらいましょう、顔良殿の為と言えば嫌とは言わないでしょうし」
「ちゃんとしてくれるかなぁ……」
「してもらわないと困ります」
袁家の進退にかかわる事、ここで面倒臭いと放り出すようなら文醜の進退も決める必要がある。
と言っても、わかりやすく義理堅い性格なのでやって欲しいと頼めば無碍に断りはしないだろうと見ている郷刷。
「こちらから話しておきますので、顔良殿は仕事に集中していただきたい」
「はい」
「今の私に出来る事は応答や給金の奮発くらいしかありませんが、どうかよろしくお願いします」
そう言って旋毛が見えるほど頭を下げる。
「安景さんのせいじゃないんですから、頭を下げないでください。 ……それにしても麗羽様、一体何考えているんだろ?」
顔良は呟く、これから忙しくなるとわかっていた。
袁紹に向かってそうなると口に出したし、郷刷も同じような事を言っていたのを顔良は聞いた。
それなのに郷刷をここで仕事をさせず軟禁する意味は? そこまで考えて頭を上げる郷刷を顔良は見た。
「心配してくださったのかも知れませんね」
そう言って微笑む郷刷の目の下、顔良が始めて会った時から存在している黒ずみが目に入った。
それは隈、隈が無くなった郷刷の顔を一度たりとも見た事がないのを思い出した顔良。
「……麗羽様ったら、素直じゃないんですから」
顔良の予想が当たっていれば、袁紹は郷刷の心配をして休みを取らせたということ。
今の状況から考えるに、袁家と郷刷を天秤に掛けたとも取れるその行動、実際そこまで考えたかどうかは疑問であったが。
「本初様はかなり反射的に動きますからね、今回の事も衝動的だったのでしょう」
微笑んだまま言う郷刷に、顔良は強く頷いた。
基本袁紹の突然の行動に悩まされるのは顔良と文醜と郷刷、本当にいきなりで仕事中でも連れ出される事など良くある。
おかげでどれだけ気苦労が絶えないかと、そう考えつつも結局付き合っている自分が居る事にも気が付いた顔良。
「……なんと言うか、憎めないんですよねぇ……」
「ええ」
憎めない、嫌になって離れようとしない自分。
「顔良殿、本初様の傍に居ていただけるようお願いいたします」
「嫌いならもっと前に出奔していますよ、それじゃあ仕事、してきますね」
顔良は微笑んで立ち上がり、一度頭を下げてから郷刷の部屋から出て行った。
「……安く見ていたか」
危なくなれば放って置いてさっさと逃げ出すのでは、と顔良に対して抱いていた考え。
顔良が薄情ではないかと見ていた、同じ臣下としての付き合いは数年、それだけの時を過ごしてそういう目で見ていた。
随分と視野が狭く曇っている、人を見る目はそれなりあると思っていたが、この程度すら見抜けなかったのは慢心していたかと郷刷。
日々の積もった疲れの所為にはしたくなかった、ただ一人を優先しすぎた結果なのだろうと考えを改める。
そこまで考えて気持ちを切り替えて、机の上に置いていた眼鏡が入った木箱を手に取る。
郷刷が眼鏡を貰った時に掛けられた言葉、今回の急な軟禁とも言える休暇は労いの一つだと考える。
袁紹の好意、本当に好意なのか分かりかねる郷刷であったがそうだと思い、与えられた休みの内に体調を万全にしようと心に決めた。
顔良が仕事に向かい、文醜を呼び出し仕事の催促。
文醜が少しくらいは渋ると思っていた郷刷だったが、あっさりと快諾した文醜は一言。
「本気でやばそうなんだろ? ここで文句言ってもかわんないし、姫はいつもの通り何考えてるかわかんないし、ここはいっちょ斗詩のために良いとこ見せるのが男だろ!」
それを聞いた郷刷は冷静に突っ込む。
「文醜殿は女です」
「……つっこんでくれたのはいいんだけどさ、真顔で言われたらすんげー馬鹿にされてるように感じるんだけど」
ジト目の文醜を前に、郷刷はあっさりと流して話す。
「そう言えば世の中には女を男にする怪しい食べ物があるとか」
「そ、それってほんとか!?」
そしてあっさりと食いついた文醜は叫んだ後、斗詩にあんなことやこんなことを……と意識が飛んでいった。
その飛んでいった意識を引っ張り戻すように郷刷は一言。
「本当かどうかは分かりませんが、仕事の成果によっては探す事も吝かではないですよ」
「よっしゃ! 燃えてきたぜー!」
と、ドドドドドと足音を鳴らして文醜は郷刷の部屋を飛び出していった。
その様子に、よほど顔良を愛しているのかと郷刷は苦笑した。
その後は文官団に仕事の割り振りを決め与え、郷刷は午後の昼下がりを自室で過ごす。
机にはのどを潤す茶に、それなりに甘い菓子が置かれている。
その机の対となる椅子に深く腰掛け、力を抜いて読んでいなかった兵法書に目を通していた。
切り替えた気持ちはすっぱりと仕事の事を頭から追い出す、そうして十数年来のゆったりとした時間が流れていく。
着々と、それでいてゆっくりと流れ続ける時間、その空間に入り込もうとする存在が一人。
「お邪魔でしたかな?」
「いえ、仕事中でも邪魔になりませんよ」
部屋の入り口、戸を開け顔を出したのは趙雲。
筆を走らせる腕を掴み動きを止めるとか、殴られ意識を飛ばされない限り仕事の邪魔にならないと郷刷。
今仕事は一切なく、完全に私用の時間。
やっていることは書物を読んでいるだけ、邪魔になる理由など一切ない。
「しかして、今回は何を仕出かしたので?」
「私が咎められるような事をしたとお思いで?」
「真逆、いつもの如く袁紹殿の突飛な思い付きでしょう?」
笑い茶化すように言う趙雲に、郷刷も笑みを浮かべて頷く。
「それで、何か有ったのですかな?」
脈絡なく核心を突いてくる趙雲。
「いつだってありますよ、何も無い時など存在しませんから」
「確かに」
「まあ、今回の事は言うべきか迷っております」
「その理由は?」
聞きながら趙雲は一つの椅子に腰掛ける。
「その理由も察する事が出来る物ですので迷っております」
趙雲が袁家でしか解消できない事を遂げられなくなる、そんな理由として出せば察しの良い趙雲は恐らくこう考える。
袁家だからこそ、他の諸侯の下では解消できない事。
つまり解消できる袁家が無くなる、あるいは趙雲の身に不慮が降りかかって亡くなるのではないかと。
恐らくは既に何かを勘ぐっているだろう、急な出立の後戻ってくれば郷刷が一切仕事をしていない事に。
何かあったのは間違いなく、その何かを聞こうと趙雲は郷刷の部屋に出向いたのであった。
「ほう、なんとも重要そうな事ですな」
「正直に申しまして、子龍殿」
「その気になりましたかな?」
話してくれるか、そう思った趙雲が僅かばかりに姿勢を正す。
「子龍殿はどこまでこちら側ですか?」
「む」
それほどの事かと、意思がどちらに向いているのか確認してくる郷刷によほどよからぬことかと趙雲。
「少なくとも、今戦が起き多くの諸侯を敵に回したとしても、私は袁家の旗の下で槍を振るうでしょうな」
「劉備殿と争う事になっても?」
「証は出せませぬぞ、形に出来るのは実際事が起きてからになりますゆえ」
きっぱりと言い切る、確かに趙雲は劉備の義勇隊が気になる。
だが正式に劉備の下に付いた訳ではないし、ましてや埋伏の将でもない。
一客将として義理は必ず果たすと言い切る趙雲。
「……わかりました、お話しましょう」
「でしたら、この身を持って信用に答えましょう」
その答えに郷刷は頷き、言い渋った事の真相を口に出す。
急な出立の理由は何進を暗殺した宦官排除の為、出向いた洛陽で宦官を排除していたが十常侍のうち二人を取り逃がし。
しかも幼い帝を連れ去られ、焦っていた所に涼州の董卓が偶然帝を連れて進む十常侍と遭遇。
董卓はその十常侍を捕らえ帝を保護、その道中帝は成人するまでの摂政は袁紹ではなく董卓に任せる事にした。
その後話は捩れて、有事の際には董卓軍の総勢の指揮は郷刷が執ることとなったと話す。
「これはまたなんとも……」
「実際董卓様を排除しようと世が動くかまだわかりませんが、そうなった場合野心ある諸侯と戦う事になると思われますので」
それを聞いた趙雲は水面下で随分と群雄割拠の時代へと進んでいると驚いた。
間違いなくこの事は幕開けと成る、そして趨勢は董卓と袁紹が滅ぶ可能性を多大に含めていると。
「……色々有りまして、私としては子龍殿には残ってもらい部将として兵を率いてもらいたいのです」
「ふむ、でしたら最後まで付き合いましょう。 無論死ぬ気など欠片もありませぬので、余計な気遣いは結構」
「随分と簡単に決めたように見えますが、それほど解決したい事が重要なのですか?」
「重要と言えば重要、どうしても気になるので引きは出来ませぬよ」
死ぬ気は無い、だが命を賭けた戦場で武を競い命を落とすのは本望。
しかして趙雲も世の憂いはしっかりと持っているし、その解決策の一例を郷刷はしっかりと示している。
王として立つ事も出来よう郷刷、そして天の知識を持つか否かの事も気になる。
「董卓軍と共闘すると言う事は、噂に名高い飛将軍とも肩を並べられると言う事でしょう?」
「全ての将兵が私の指揮の下で動きます、間違いなく肩を並べて戦う事になりましょう」
「なるほど、安景殿から見てこの趙 子龍と呂 奉先の武、どちらが上と見ますかな?」
「呂布殿ですな」
あっさりと断言する郷刷に、少しばかりむっとする趙雲。
「呂布殿はそれこそ桁が違います、見立てでは足止めに子龍殿と同格の武将が後四人ほど必要かと。 討ち取ると成ればさらに四人は必要となるでしょう、確実に討ち取りたければ完全に孤立させた上で複数の武将で取り囲んで、波状攻撃で間断無く攻め続ける事が必要かと」
「……それは一体どのような化け物ですかな?」
途轍もない相手、手合わせしてみたい気持ちが膨れ上がるが。
「稀代の傑物です、一人で万の軍勢を討ち取るような存在ですよ。 今述べた討ち取る方法でも半数は呂布殿に討たれる可能性が大きい、武将を使わずとなれば数万の兵で二重三重の罠に掛けても足りないでしょう」
一対一で対峙すれば命が無いような相手、戦場で果てるのは本望とは言え、たった数合で首を刎ねられるのは自尊心が傷付けられるどころか粉々に打ち砕かれるだろうと趙雲。
「尋常に行けばそれ位必要ですが、いとも簡単に討たれるか捕らえられるか、その可能性も無いとは言えませんので」
「必勝は無いとは言え、無情過ぎるのも考え物ですな」
頷く郷刷、極限の武を持っていながら大した活躍も出来ず退場する事も十分有り得ると言う。
「ですから、出来るだけ優秀な部将が手元に欲しいのです」
「そうして白羽の矢が私に、と言う事か」
「事が起きれば少なく見積もって諸侯の半数は向こうでしょう、残り半数は静観かこちらに付くか」
恐らくは二三付けば良い方かと、そう郷刷は呟く。
「ふふ……、安景殿、私は必要ですかな?」
「ええ、切実に。 何卒、子龍殿の力をお貸し下さい」
そう言われてもあまり心は揺れなかった、少なくとも劉備に手を貸してくれと言われた時よりも断然小さい。
だが揺れない訳ではなかった、少なくとも郷刷は未来への明確な展望を形として現している。
郷刷は一角の将を惹き付ける王の風格を持つであろう曹操、孫策、劉備とはまた違った王の資質を持つのではないかと。
卓越した才を持つ者ではなく、多くの凡庸な庶人を惹き付ける才を持っている。
恐らくは袁紹が天下を取ったと成れば、郷刷の摂政の下庶人は安寧の時を過ごす事になるだろう。
つまりは天下泰平の世を整えるのであれば、右に出る者は居るのかと言う疑問。
「わかりました、我が知勇を存分にお使い下され。 どれほど十全に私を使いこなせるか、この目でしかと見届けさせていただきましょう」
だからこそ頷く、一時では有るが槍を捧げる主とも言える人物に趙雲は笑みを向けた。
フラグだと思ったか!?