選択に憂う人
宮廷、漢王朝第十三代皇帝劉協が座する御所。
袁紹軍と既に大将が居ない何進軍など、洛陽を守護する軍勢十数万の兵が三列に整列し、帝を出迎える用意をして待つ。
洛陽の外の最前列から宮廷の入り口までの最後尾、正当なる主を受け入れる準備は既に整っていた。
文醜と顔良を残して袁紹と郷刷は董卓一行に会いに行き、張讓と段珪を引き取りに行った。
袁紹軍から選抜した兵を伴い、馬に乗って進む先頭の玄胞隊、洛陽を発って一刻ほど経った辺りで立てられた旗が立っていると報告を受けた。
「……深紅の呂旗、間違い無さそうですね」
進んだ先には風になびく血で染め上げたような深紅の下地に、黒字で呂の文字。
それを支えるのは一人の少女、旗の持ち手であり軍師でもある陳 公台。
その立て支えられた旗が示す一人の将、無造作に得物を持つ一人の女。
少々気だるそうな表情で、真っ直ぐと郷刷隊を見つめていた。
さしずめ、宦官の息が掛かった部隊ではないかとの勘繰りだろうと郷刷。
「この道を陛下が御通りになられます、隊列を組み決して粗相の無いよう護衛を勤めます。 それまでこの場で待機、命令するまで決して動かないで下さい」
「はっ」
そう言った郷刷に従い、玄胞隊の兵が素早く整列する。
郷刷は一人進み出て、旗の手前六間(約11メートル)ほどで馬を降りる。
そのまま五間ほど歩き、大きな得物、方天画戟を持つ少女の手前で膝を着いて頭を垂れる。
「呂 奉先様、陳 公台殿、お久しぶりでございます。 袁紹が配下、玄 郷刷でございます、此度は陛下と董卓様の護衛、ならびに捕らえた宦官を受け渡しに参りました」
「………」
「おお! 良く来ましたぞ、玄胞殿。 董卓様の軍勢だけでは心許無かったのです、これで陛下は安心して洛陽へと戻れる。 と呂布殿は仰せなのです! 」
「ご冗談を、張遼殿や華雄殿が居られるではないですか。 それに天下の飛将軍、呂布様も居られる陣容で戦を仕掛ける者は馬鹿だけでございましょう」
「それでもですぞ、万全をなしてこそ陛下に忠じる事なのですぞ!」
「それは確かに。 先の失言、平らにご容赦を」
「許す、と仰せなのです!」
「寛大な御心、真に感謝の極み」
「それでは参りましょうぞ! いつまでも陛下をお待たせする訳にはいかないのです!」
「はっ」
合図を出してそれを見た玄胞隊が進み、その中から一人後方に居る袁紹へと陛下を発見したと知らせをやる。
「すぐに袁紹様が参ります、陛下と董卓様はこの先に居られるのですか?」
「そうなのです、洛陽へと向かっておれば大きな軍勢が道の先に現れたと聞いて、慌てて呂布殿と陳宮が参ったのですぞ!」
深紅の呂旗を揺らして言う陳宮。
董卓の軍師である賈駆が斥候から知らせを受け、それほど規模は大きくは無い董卓軍は守りによさそうな箇所に陣を敷いたとの事。
その後呂布と陳宮は斥候が確認した旗、玄の文字に覚えがあったが万が一を警戒して呂布と陳宮を送り込んだ。
一騎当千万夫不当の飛将軍こと呂布に、もしもの警告と排除を兼ねて命じた訳であった。
「警戒させてしまって真に申し訳なく、袁紹様と合流したらすぐにでも陛下の御前へと参りますとお伝えくださいますよう」
「確かに、では一足先に陛下の元へ戻っておりますぞ」
そう言った陳宮が踵を返す呂布と共に元来たであろう道へと帰っていく。
郷刷はそれを見送り、その場に隊とともに留まる。
そうして数分と立たず、袁の文字がたなびく旗と共に袁紹の部隊が玄胞隊に追いついた。
「安景さん! 陛下はご無事なんですの!?」
華麗な馬術で郷刷の前に止まり、声を上げる袁紹。
「はっ、怪我一つ無く御健勝であらせられるとの事。 この道の先で簡易的な陣を敷いて本初様をお待ちになられております」
「でしたらすぐに向かいますわよ!」
「御意に」
馬で走り出す袁紹に、郷刷は全体に号令を出して後を追いかけた。
そうして進み、董の旗や先ほど見た呂の旗など、それらが立てられた陣が見え始めた。
そこで袁紹は速度を緩め、先ほどまでの大急ぎな姿を一変させる。
漢王朝の皇帝、それが幼帝だとは言え無様な姿など見せる事は出来ないのだ。
馬を下りた袁紹は腰に挿していた剣を外し、郷刷へと手渡す。
受け取る郷刷も身に着けている刀剣類の一切を外して、兵に手渡して下がらせる。
朝廷と同じ作法、袁紹の位人臣では天子である皇帝の前で帯剣は許されず、また早足で歩き董卓軍の陣へと進む。
無論止められ危険な物を持っていないか確認された後、袁紹は声を上げて名乗る。
「南皮の司隷校尉たる袁 本初が陛下への謁見を願い出ますわ!」
その後願い出が通り、袁紹が董卓軍陣地の幼帝が居る奥へと進んでいく。
その途中で郷刷は諫言を袁紹に掛けた。
「本初様、決して自身の望みは口に出さぬよう」
「何をおっしゃっていますの、宦官を廃し陛下をお救いできたのはこのわたくしの力有っての事。 褒美を賜ればこそ非難される謂れはありませんわよ!」
「だからこそなのです、欲望には蓋をし、ただ陛下の無事だけを喜べば、陛下は本初様のお心を察してくださいます。 なのにここで今後の陛下の身の振り方に対して意見を申し上げるような事をすれば、先ほど捕らえた宦官のように陛下を傀儡にしようと考えていると思われても不思議ではありませんぞ」
そう言い切って郷刷は続ける。
「本初様の人の子であるのですから、欲望は多々ありましょう。 ですがここではそれを押さえ、此度の働き振りに関して褒美を強請らず、ただ御身が無事である事を喧伝すれば本初様の権威もますます高まります」
まかり間違っても今後の事は話すな、ただ無事だった事を喜び、自身は陛下の臣であるから些細な事でも呼び立ててくれと言え。
そうすれば聡明な陛下は本初様の事を買い、何かあった際頼りになる者として接してくれると、郷刷は説明する。
「……なぁーるほど、宦官と似たような真似をしようと思われるのは我慢なりませんわね」
「袁家は陛下が有ってこそ、そのような事を思われれば袁家の先達様たちに顔向けが出来ませんぞ」
「しかたありませんわね、安景さんの言う通りにしておきましょうか」
そうして袁紹は郷刷の諫言を受け入れる。
その後郷刷は途中まで付いていくが、一際大きな天幕が見え始めて三十間(約55メートル)ほど手前で止まって袁紹を見送った。
謁見できるのは袁紹だけであり、何の位人臣を持たない郷刷は袁紹の一私兵にしか過ぎない。
宮廷を歩けたのは、司隷校尉の位人臣を持つ袁紹の付き添いと言う立場であったからだった。
幾ら能力があり仕事が出来ようと何の位人臣を持たない郷刷は、そこらに居る庶人と全く変わらない。
そうして郷刷が天幕から少し離れた所で待つこと十分ほど、天幕に垂れ下がる出入り口の布がバサッと開いて袁紹が出てきた。
その歩調は早く、郷刷が顔を見れば頬がピクピクと僅かに震えていた。
怒りを我慢しているな……、そう一目で看破した郷刷。
「……本初様、一体何があったのですか?」
「安景さん! 董卓軍の周囲を護衛しつつ洛陽へと戻りますわよ!!」
ここで言う気は無いらしいと、郷刷は了承の意を示して袁紹の後に続いた。
そうして董卓軍陣営が出立の準備に入り、その周囲を袁紹軍が護衛して出発する。
怒りを我慢し続けていた袁紹は、動き出した軍勢を見てから口を開いた。
「何故、何故わたくしではなくあのようなどことも知れない小娘を!」
馬に乗りつつギリギリと歯軋りしそうな袁紹に、郷刷はその言葉の意味を考える。
謁見を願い出、その後天幕内で帝と会って話をしたのだろう。
そうして今後の事、諫言通りにしたのであろう。
「……予想以上に聡明であらせられたのですね」
そうして帝は袁紹より董卓を選んだ、それに対してなるほど、聡明だ、しかしまだ幼かったかと郷刷は考えた。
帝からすればここは袁紹を選ぶべきだった、袁紹と董卓、その人柄を見抜いたかもしれないが、今の世の中の背景から見れば失態であると言わざるを得ない。
「陛下があのような地方の豪族程度を選んだ理由が分かりませんわ! この天子を支える三公を輩出した袁家であるこの! わたくしを! 何故選びませんの!?」
キィー! と非常に悔しそうに袁紹が言う。
名も知られぬ地方豪族の董卓と、位人臣の極みである三公を何度も輩出してきた袁家の袁紹。
それは一転しての栄達、それは間違い無く他の諸侯から嫉妬を買う事になる。
董卓の軍師たる賈駆からすれば、今回の事は絶望に似た感情を感じただろう。
賈駆の望みは幼馴染で親友たる董卓が安全に笑って過ごせる世界が欲しいと願っていた、頭が回るからこそ今後の事を理解し悩むだろうと郷刷は考える。
「間違いなく今回の事は董卓様にとって不幸な事でしょう」
「安景さん! あのような小娘とは言え陛下に召し出され栄達した事が不幸だなんて、間違っても言って良い事ではありませんわよ!」
「いいえ、董卓様にとって間違いなく不幸でしょう。 今の本初様を見れば間違いなくそう思います」
そうして郷刷は自分の考えを袁紹に話す。
「本初様は今何故陛下が董卓様を選んだか分かってはおりませんね?」
「当たり前でしょう! 宦官を廃し陛下を傀儡とする奸臣を討ったわたくしが! 偶然救いそのお零れに預かっただけの小娘を何故選ばれるのか分かりませんわ!」
「陛下は幼いながらも良く周りの事を見ておられるのでしょう、周りに居た宦官と言う奸臣を見てきたはずです。 だからこそ私欲の薄い董卓様を選んだと言う事です」
郷刷が董卓と話をした時、多くを望まない人物だと言うのが手に取るように分かった。
陛下も恐らくそれを感じ取り、ただ傀儡になる事を嫌って董卓を選んだ。
勿論本初様が陛下を傀儡にしようとした訳ではないのは分かっているだろう、ただ帝は欲が少ない方を選んだだけだと諭すように言う郷刷。
「だがそんな事を知らない諸侯は、今の本初様が考えているようなものと同じ事を考えるでしょう。 陛下に何かしたのでは? 救った恩義に付け込んだのでは? と、良からぬ方向へと考えるでしょう」
謎の栄達に諸侯は董卓に不信を抱き、帝の背後と言う眩い地位に羨望と嫉妬を呼び、恐らくは事が良からぬ方向へと転がるはずだと郷刷。
「……良からぬ事? それはなんですの?」
郷刷の言葉を理解し始めた袁紹は、それがなんなのかと尋ねる。
「簡単です、何れ嫉妬に狂った誰かが董卓は陛下を傀儡として専権専横を振るっていると、そのような風評を流し帝をお救いする為董卓討つべしと言う気風を作ると言うものです」
「そ、それじゃあわたくしもそんな目にあったかもしれないと言うことですの!?」
一転した栄達は地獄への落とし穴、そういう表現で言った郷刷に袁紹は恐々と聞いた。
「いえ、本初様でしたらそこまでにはならないでしょう。 本初様の母上であらせられる袁成様のご姉妹、司空の袁逢様、司徒の袁隗様が居られるのでそれほど反発は多くは無いはずです」
実績が有るか無いか、それが命運を分けることになると郷刷。
「様子を見てみるしか事は無いでしょう」
謁見の場に自分が居れば、もしかしたら助言が出来たかもしれなかったがと、終わった事に対して思いが募る。
聡明であるが故の不幸か、予想する出来事に見舞われるかもしれない董卓に非常に残念な気持ちを感じた郷刷だった。
遅く帰ってきた次の日は休日
今回は若さゆえの過ちと言う感じで、誰かが悪いと言う事ではないのを表したかったが・・・