改めて決意を固める人
日が落ちる、大地を照らす光はなりを潜め、代わりに顔を見せるのは夜の帳。
六万もの軍勢が引く広大な陣地には百は下らない篝火で照らされ、刻一刻と出陣の時を待つ。
食事も数刻前に終わり、これから起きる夜襲に備え精気を養う兵士。
郷刷も兵と同じ周期で行動し、いつ動くかと待機していた。
「それで、何を考えているんですかー?」
陣地の中心付近、総大将の証でもある一際大きな袁紹の天幕のすぐ隣。
軍師たる郷刷の天幕にて、程昱がいつの間にか天幕の中に居て声を掛けてきた。
「……そうですね、今後の事ですね」
驚いた郷刷は、懐に収めている短刀から手を離して振り返る。
「漢王朝の統治能力は既に喪失していますし、黄巾の乱が収まれば今度はそれを収めた諸侯たちの争いになりますねー」
天幕の入り口に、ぽつんと立ったまま郷刷を見つめている程昱。
それを招きながら言葉を掛ける。
「天下の統一、狙うはそれで拙い相手がちらほら。 程昱殿からしてどう見ます?」
「ふーむ、それは危険な相手ですか? それとも麗羽さんの事ですか?」
「こちらの事は大方分かっているでしょう?」
「でしたら麗羽さんの事ですね、一言で言えば麗羽さんは曹操さんに負けるでしょう。 お兄さんが頑張ってもひっくり返すのは非常に難しいと言わざるを得ません」
「……分かっていますよ、あれほどの傑物は滅多にお目に掛かれないでしょうから」
天下に覇を唱える資格は十分、郷刷はそう言って頷く。
配下にも英傑が揃うと噂、今はまだ何とかなる状態だが、時が進めば下手をしなくとも打ち負かされる相手。
「お兄さんは素晴らしいと思うのです、人の才を見抜き、内政に才を発揮し、策を練って軍勢を操る……。 ですがそれが間違いだったのかもしれませんよ」
「我が主の為、尽くす事の喜びには代えられません」
「それは良い事だと思います、ですがそれが元凶なのですよ。 お兄さんは袁家を大きくしすぎているのです、それもお兄さん一人では支えきれないぐらいに」
真っ直ぐと見つめてくる程昱に、郷刷は無言。
「お兄さんは袁家の柱です、世の中支柱と言われておりますがそれは間違っていましたね。 お兄さんは袁家の大黒柱です、重みを支え居なくなれば簡単に崩れてしまうほど大事な柱」
「だからこそ一角の方たちを招き入れたいと思っているのです」
「ですけどお兄さんの要求とは見合わない者ばかり、だから風たちを客将として扱うのですよね? 星ちゃんも桂花ちゃんも稟ちゃんも、一角の人たちなのに迎え入れていませんよね」
今の袁家の欠点ともなっている郷刷、程昱の指摘通り居なくなれば容易く崩れ去る構図。
「お兄さんは一人で万の軍を討ち取れるのですか? お兄さんは一人であらゆる存在を謀る事が出来るのですか? 前者にしろ後者にしろ、そう思っているなら甚だしいほどに愚か者です」
「それが出来るならこのような状況に陥っていませんよ」
「そうですね、ですけどそもそもお兄さんが麗羽さんに仕えていなければこんな事にはなっていなかったはずです。 居なければ恐らくそう遠くない時、今より規模の小さい麗羽さんは曹操さんに負けていたはずですよ」
「ええ、このままでは本初様は曹操様を打ち倒せない」
「だからと言ってお兄さんが倒せると言う事ではないのです、勝敗は兵家の常。 質も量も揃った同等の相手と戦っても常勝はないのですよ、如何に優れた兵が居ようと、如何に優れた将が居ようと、如何に神算鬼謀の軍師が居ようと負ける時は負けるのですよ」
居ても負ける、勝つことが出来ないかもしれない。
この世の中、思い通りになるのだったら袁家に素晴らしい将が何人も居て、後顧の憂いなど無いはず。
「お兄さんは仕えるべき主を間違えていると思うのです、その証拠が今の状況なのです。 お兄さんが一人支えて、支える事が出来ないと判断した相手は客将として、この戦いが終わった後の風たちのように放出する」
的確に見て、今の欠点を指摘する程昱。
「麗羽さんには人を惹き付けるモノが無いのです、それでいて自分の欲望を優先させる方。 英傑を集める為に必要な、金や名声より大事なモノが欠けているのですよ、今だって殆どの方が袁家の金か名声、それかお兄さんが目当ての人たちばかり」
そこまで言って程昱は一言、目的の言葉を告げた。
「ですからお兄さん、麗羽さんを見限って風たちと一緒に行きませんか?」
優しげに誘うその姿は真剣味を帯び、嘘偽り無い言葉だった。
だが郷刷は首を横に振る、それは出来ないと。
「確かに程昱殿が言う通り、本初様は尊大なお方です。 ですがその性根はとてもお優しいのですよ、私が諫言を掛けて街の様子を見せたらたった一度で改めて頂けました。 真に自分に忠実な者であれば暴政を遠慮なく振るっていたでしょう」
私の主は知らぬだけなのです、現実を目の前にすれば考えてくれる。
強い自尊心でそれらが垣間見える事が少ないだけなのです、表面の事は確かに大事でしょうが私は内面を選んだだけです。
真に無能だとか馬鹿だとかであれば、私も諦めが付いていたかもしれません。
ですがそうではないと本初様は見せていただいた、それが最も私の心に響き仕えるに値すると決断させた事なのです、と郷刷。
「私の主はたった一人です、私にとってあの方以外に仕えるべき者など居ません。 程昱殿も、その手で支えるべき太陽が二つあるとお思いですか?」
「……だめでしたかー、とても残念なのですよ」
「私も残念です、本初様がその姿を見せていただければ説得も出来たかもしれませんでしたが」
既に客将の四人は袁紹に仕える気は無いと確信した郷刷。
「私は本初様と一蓮托生です、離れる事はありません。 ……程昱殿、我が身を案じてくださり有難うございます」
「……曹操さんは才ある者を集めたがる人と聞きましたので、お兄さんを連れて行けば喜んでくれるんじゃないかと思ったのです」
「でしょうね、小さい頃からその片鱗が見えていましたし」
郷刷が微笑み、程昱は頭の上の宝譿が持っていた棒つきの飴を取って一度舐めた。
話も終わった事です、茶を出しますがどうですか? と郷刷が着席を勧め、程昱はそれを受ける。
そうして程昱が座り、郷刷が茶を入れようと動いた時に、郷刷の天幕に飛び込んでくる兵が一人。
「玄胞様! 孫策軍が動きました!」
「……茶は後ほどですね」
「ですねー」
「では、最後の一仕事、よろしくお願いします」
「はいー、土産として功を置いて行くのですよ」
座ったばかりの椅子から程昱は下り、天幕の入り口へと足を運ぶ。
郷刷もそれに続き、月が顔を見せる夜空の下に姿を晒す。
僅かにあった億劫な気持ちは程昱との話で振り払えた、目の前をちょこちょこ歩く程昱に感謝しながら郷刷は切り替える。
「文醜隊、顔良隊、趙雲隊は即座に出陣準備! 工兵は衝車と撞車を作戦通りに動かせ!」
命令を出しながら歩む郷刷。
「さあ、黄巾党を根絶やしにする時が来た! 我らが袁家の精兵たちよ、愚かな者たちに我らの毅然さを見せつけようぞ!」
一兵一兵が郷刷に応じて声を上げる、その雄叫びは陣地に瞬く間に広がって大気を揺るがし天へと上る熱気となる。
群雄割拠の幕開けは袁家が開く、誰が相手でも負けてやるものかと郷刷は袁紹の為に誓って進んでいった。
戦が始まるかと思ったか!? 次でした
今回の話は田豊の「主君を誤った為の不幸」を習っております、実際不幸になるかどうかはまだ先ですが