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婚約破棄されて雨の馬車に追い出された私を、氷刃公爵が木苺のタルトと一緒に迎えに来ました

作者: 浅葱きしろ
掲載日:2026/06/20

選んでいただきありがとうございます。

ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。

 叩きつけるような雨音が、馬車の屋根を激しく叩いていた。

 車内は暗く、湿り気を帯びた冷気が足元から這い上がってくる。

 エリーは長椅子の隅に深く背を預け、ただ濁った吐息をこぼした。


(ああ、やっと終わった……)


 怒りや悲しみは沸いてこない。

 ただ、泥のような疲労感が頭の芯を痺れさせていた。


 きらびやかな大夜会の壇上。

 大勢の貴族たちが見守る前で、元婚約者であるジュリアンは、怯えるように身を寄せる男爵令嬢の肩を抱き、エリーに婚約破棄を突きつけた。

 エリーの実家であるノイマン家は数年前の天災による凶作で領地経営が芳しくなく、その支援を受ける代償として、彼女は半ば人質のような形で早々にジュリアンが跡を継ぐグレイザー伯爵家に入っていた。エリーの実家への支援も無償の援助ではなく、将来の収益や領地権益を担保にした貸付契約であり、エリーはその労働力として、グレイザー家の放蕩の後始末をすべて押し付けられ、都合よく働かされる日々を送ってきたのだ。


 反論する気力も失せ、ただ無言で頭を下げて会場を辞した。張り詰めていた心はすでに擦り切れ、限界を迎えていた。


 おまけに、胃の腑が情けない音を立てて収縮する。

 昼過ぎから、ジュリアンが浮気相手への贈り物のために使い込んだ夜会の経費不足を補填するため、商人たちとの調整や支払い延期の交渉に走り回っていたせいで、昼食すら抜いていたのだ。

 商人と必死に交渉して、一部の支払い期限を延長してもらい、最低限の支払いだけは済ませたものの、未払いの残金は多く残っており、翌日以降も継続的な交渉が必要な状態だった。


「……お腹、空いたな」


 ぽつりとこぼした独り言は、雨音にかき消された。

 その時、不意に馬車が止まった。


 御者が扉を開けるにしては乱暴な音が響き、革張りの扉が勢いよく開け放たれる。

 外の冷たい風と雨の匂いが一気に流れ込んできた。


 エリーが息を呑む間もなく、長身の影が滑り込むように車内へと入ってきた。

 濡れた外套をさっと脱ぎ捨てたその男の顔を見て、エリーは固まった。


「レオナルト、様……?」


 社交界において「氷刃公爵」と恐れられる、若き魔術公爵レオナルト。

 自分のような身の上の令嬢とは、挨拶を交わす程度の接点しかなかったはずの男だ。


 雨に濡れた黒髪が額に張り付き、その切れ長の両眸がエリーの姿を射抜くように捉える。

 濡れた彼の前髪から滴った水滴が、彫刻のように端正な鼻梁を滑り、濡れた薄い唇から鋭い顎先へと伝い落ちていく。

 暗い車内だというのに、その冷涼な美貌は発光しているかのように艶めかしく、圧倒的な美しさにエリーの思考は一時停止した。

 まさに水も滴るいい男、という言葉を具現化したような色気が、狭い密室に充満する。


「冷えたな、エリー」


 低く、耳の奥を震わせる声。

 レオナルトはエリーの横に腰掛けると、手元に用意していた上質な羊毛のひざ掛けを広げ、彼女の膝からつま先までをふわりと包み込んだ。

 エリーの体に直接触れないよう、細心の注意を払いながらも、その手つきは極めて迅速で迷いがない。


 驚くほど暖かなぬくもりが、凍えていたエリーの足を包み込む。


「あ、の……なぜ公爵様が私の馬車に……?」

「君を迎えに来た」

「はい?」


 エリーが目を丸くしていると、レオナルトは背後に置いていた小さな包みを取り出した。

 包みが開かれた瞬間、バターの芳醇な風味と、甘酸っぱい果実の香りが車内に広がった。


「……っ」


 エリーの鼻孔をくすぐったのは、紛れもなく焼き立ての「木苺のタルト」の匂いだった。

 レオナルトが魔術による保温を施した包みで運んできたため、まだ温かい。

 見れば、最初からエリーが食べやすいよう、極めて上品な一口大に切り分けられたタルトが、小さな木製の皿とフォークと共に差し出される。

レオナルトはエリーの手に触れないよう気遣いながら、それを彼女へと手渡した。


「昼から何も食べていないだろう。君が走り回っているのを遠くから見ていた。過去の茶会で、君が木苺の菓子を好んで選んでいたのを覚えていたからな。少しでも食べてくれ。胃に何か入れないと動けない」

「え……ええと」


 あまりの展開に頭が追いつかない。

なぜ彼が自分の空腹を知っているのか。なぜ好物まで把握しているのか。

エリーはあまりに魅力的な香りに、少しだけ頬を染めながらも、誘惑に抗いきれずタルトをフォークで口に運んだ。


 甘酸っぱい果汁と香ばしく焼き上げられたタルト生地の味わいが口いっぱいに広がり、温かい熱が胃へと流れ落ちていく。

あまりの美味しさと人心地ついた安心感に、じわりと涙が滲みそうになった。


「美味しい……」

「そうか。良かった」


レオナルトの冷徹なはずの瞳が、ふっと柔らかく細められる。

その過保護な眼差しは、まるで傷ついた小動物を労わるかのようで、エリーの胸の奥にしがみついていた頑なな冷えが、少しだけ溶けていくのが分かった。

だが、安易にすべてを信じられるほど、エリーの心は軽くはなかった。

今夜だけは安全な場所で休みたい、という切実な疲労だけが、彼女を支配している。


「公爵様、このような夜に、私のような立場になった者の馬車に乗っては、周囲の噂になりますわ……」

「気にする必要はない。君の実家も、あの愚か者の家も、私から君を奪い返す力などない。これは正当な手続きを経た身柄保護だ」


レオナルトは懐から、見事な封蝋が押された一枚の書状を取り出した。


「ジュリアンが理不尽な婚約破棄を突きつけるのは予測できていた。だから、あらかじめ陛下より特許状を得ておいた。婚約破棄後の君の一時保護と、グレイザー家による君の強制的な連れ戻しの禁止、そして君やノイマン家に対する報復目的の担保執行や財産差押えの一時停止、王室による契約内容の調査を定めたものだ」


「え……?」


エリーは目を瞬かせた。

ジュリアンが断罪劇を起こすことを見越して、すでに王室への根回しと法的な準備を完璧に終わらせていたというのか。

しかし、なぜそこまでしてくれるのだろう。


「レオナルト様……どうして、私のような者にそこまでしてくださるのですか?

私たちは、ほとんどお話ししたこともなかったはずなのに」


問いかけると、レオナルトは少しだけ照れくさそうに視線を彷徨わせた後、エリーをじっと見つめ返した。


「覚えているだろうか。一年前の冬の庭園でのことだ」

「冬の庭園……?」

「魔力の逆流で体調を崩し、誰にも見つからないよう庭の片隅で蹲っていた私に、君は温かいハーブティーを差し出してくれた。私が誰かも知らずに、ただ寒そうだからと、その優しい手で」


エリーは記憶の糸を手繰り寄せ、あっと小さく声を漏らした。確かに、震えるような寒さの中で一人で座り込んでいた若い男性に、まだ口を付けていないお茶を渡した記憶がある。


「あの時、私の凍りついた心がどれほど救われたか、君は知らないだろう。それからずっと、君の力になりたいと思っていた。だが、正式な婚約が継続しており、君自身の救援の意思も示されていない状態では、他家の者が強引に介入することはできなかった。君の意思を無視して連れ出すことはできなかったからな。だから、君が助けを求めた時、すぐ動ける準備だけはしていたんだ。証拠の収集や、法的な備えをな」


冷徹と噂される魔術公爵の、あまりにも一途な告白。

エリーの心に湧いたのは恐怖ではなく、深い安堵だった。


「……では、グレイザー家の人々はこれから、私が処理していた取引先との調整や面倒な事務処理を、自分たちでこなさなければならないのですね」

「ああ。君が引き受けていた仕事の穴埋めが、あの者たちにできるはずもない。これからは、彼らがどれほど泣きつこうと、私は君をあの家には一歩も近づけないよ」


レオナルトは優しく微笑んだ。


「今は、何も心配しなくていい。今夜は私の城で、エリーを保護させてはもらえないだろうか。温かいスープと、ふかふかのベッドを用意してある。無理に答えなくていいから、まずはゆっくりと休んでくれ」


将来に関する判断を下すには、エリーの体も心も疲弊しきっていた。

ただ、この男性が敵意を持っていないこと、自分を助けようとしてくれていることだけは理解できた。


「……ありがとうございます。お言葉に甘えて、休ませていただきます」


エリーが小さな声で承諾すると、レオナルトの顔に嬉しそうな笑みが浮かんだ。

レオナルトが窓から御者へと声をかけ、馬車の行き先を告げる。

馬車は雨の中、実家へと向かう道を外れ、アインハルト公爵家へと方向を変えて静かに走り出した。


 馬車が到着したのは、静まり返った深い森の奥に聳え立つ、アインハルト公爵家の本城だった。

 雨に濡れる石造りの外観は厳かだが、一歩足を踏み入れると、石造りの回廊には見事な赤絨毯が敷き詰められ、魔導具による暖かな光と温風がエリーの冷えた体を包み込んだ。


 出迎えた執事長と侍女長の態度は、人質扱いされていたあの家とは比べものにならないほど丁寧で、敬意に満ちていた。彼らは国王の命によって保護された重要な客人として、エリーを丁重に歓迎し、広々とした天蓋付きの客室へと案内した。


「エリー、まずは温かい風呂に入って体を温めておいで。スープを用意させよう」


 レオナルトはエリーを客室の長椅子へと案内すると、それ以上の接触は避けるように一歩退いた。

 湯気の立ち上る大理石の浴槽で、エリーは侍女たちの手厚い世話を受けながらしっかりと体を温めた。柔らかい絹の寝着に着替えさせてもらい、寝室へ戻る頃には、長年の緊張がほぐれて心地よい疲労感が巡り始めていた。


 部屋のテーブルには、黄金色に澄んだ鶏とハーブの温かいスープと、ふんわりと焼き上げられた白パンが用意されていた。


「エリー、無事な姿を確認できて安心した。今夜はこれ以上邪魔をしない。私はこれで失礼するよ。何かあれば近くの侍女に伝えてくれ」


「あ……ありがとうございます、レオナルト様」


 レオナルトが礼儀正しく一礼して退出したあと、エリーは侍女に見守られながらスープを口にした。じっくりと煮込まれたスープは体に染み渡るように美味しく、空っぽの胃を優しく満たしてくれた。

 食後、エリーはふかふかのベッドへ案内され、温かい布団に包まれて深い眠りに落ちていった。


 翌朝、目覚めたエリーの部屋をレオナルトが訪ねてきた。

執務室に招かれる前のエリーに、レオナルトはドレスの仕立て屋を呼び、新しい服を何着も新調してはどうかと提案した。

だが、エリーは少し伏し目がちに首を横に振った。


「お心遣いは嬉しいのですが、まだそこまでしていただく心の準備ができていません。しばらくは、今お借りしている簡素な服で過ごさせてください」


長年の搾取によって「他人の好意」を素直に受け取るのが怖くなっているエリーの様子を見て、レオナルトは不満の顔ひとつ見せず、優しく微笑み返した。


「分かった。急がせるつもりはなかったんだ。君が自分で決められるようになるまで、何日でも待つよ。ドレスのことも、他のことも、すべて君の好きなときに言ってくれればいい」


理由を問い詰めることもなく、ただ彼女の拒絶をそのまま受け入れたレオナルトの対応に、エリーの胸の奥の強張りが少しだけ解けていく。

この人は、本当に自分の意思を尊重してくれるのだと、エリーは確かに実感した。


 数日後、エリーはレオナルトの執務室に招かれた。

テーブルの上には、丁寧に整えられた何枚かの公式な書類が置かれている。


「ノイマン家の借金についてだが、アインハルト家がグレイザー家に代位弁済を行った。これにより、君の実家が負っていた債務は完済されている。今後、君や実家がアインハルト家に返済が必要になるとしても、それは無理のない長期の再構成契約として再作成した。もちろん、君の労働力や立場を担保にするような条項は一切ない。この書面を君の目でも確認してほしい」


エリーが自分の手で書類を確認し、かつて人質のように縛り付けられていた契約が完全に消滅したこと、領地が担保から解放されたことを確かめると、長年の肩の荷が完全に下りた。

実家の安全が保証され、レオナルトの誠実な態度に日々触れていく中で、エリーは数週間をかけて、彼への信頼を確かなものにしていった。


 一方、エリーを失ったグレイザー伯爵家は、急激な混乱に直面していた。

商人に約束した支払い期限の再延長交渉がないことを不審に思い、契約条項に基づき、支払いの遅延を理由に即座に納品の停止を通告した。

これまで取引が継続していたのは、ひとえにエリー個人の高い信用があったからこそだった。エリー不在のグレイザー家が帳簿の確認を迫られた結果、ジュリアンによる使い込みと、伯爵家が実質的な債務超過に陥っている事実が白日の下に晒される。


「エリーはどこだ!

なぜ商人たちが一斉に取引を止めるのだ!

支払いの交渉はどうなっている!」


グレイザー伯爵は山積みの取引停止通告書を前に、息子のジュリアンを怒鳴りつけた。


「あの女なら、夜会の後で馬車に乗せたはずですが……。実家に戻っているはずです」

「馬鹿者が!

エリーはノイマン家には戻っていない!

それどころか、アインハルト公爵家から、エリーへの労働搾取の証拠と我が家の支払い遅延の記録を添付した告発状が届いている!

国王陛下の特許状により、ノイマン家に対する報復的な担保執行も一時停止されているのだぞ!」


伯爵の顔は恐怖で引き攣っていた。

商会からの納品停止によって領地経営は麻痺し、債務の返済期日は迫る。

ジュリアンは、エリーが裏でどれほどの負担を背負い、家を支えていてくれたかを初めて思い知り、己の愚行を悔いたが、すべては手遅れだった。


 一年後。

十分に体力を回復し、自分の将来を自分で選択できるようになったエリーは、レオナルトからの真摯な求婚を、自らの意思で承諾した。

正式な婚礼を終え、穏やかに晴れ渡ったアインハルト公爵家の庭園で、エリーは夫となったレオナルトの隣に座っていた。


テーブルには、二人で分け合える大きさの木苺のタルトが置かれている。

レオナルトは自らナイフを握り、タルトを丁寧に切り分けると、小さなフォークを添えてエリーに皿を手渡した。


「エリー、味はどうだろうか」

「とても美味しいです、旦那様」


エリーは木苺の甘酸っぱい味わいを噛み締めながら、隣で微笑む夫を見つめた。

レオナルトは彼女の指先にそっと手を重ね、優しく微笑み返した。


「良かった。これからは、君の望むだけのタルトと、温かな日々をここで一緒に過ごそう」

「ええ。とても嬉しいですわ」


風に揺れる花々の香りと、穏やかな日差しの中で、二人はタルトを分け合い、静かに微笑みを交わした。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたなら嬉しいです。


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ここまで読んでくださったことに、改めて感謝を。


※感想ありがとうございます!

すべて読ませていただいています。


返信は基本的に「ありがとうございます」で統一しています。

また、返信漏れやお時間をいただく場合もありますが、創作との両立のためご理解いただけますと幸いです。


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