かなたで香る
冷たいガラス瓶を手に取ると、淵にたまっていた液体が親指を濡らした。左の手首に近づけてワンプッシュ。顔をうずめるようにして鼻から息を吸いこむと、甘い春の香りがして、脳の奥がくらりとした。なんとなく始めたそれは、気付けば朝の儀式になっていた。
スマホのアラームがけたたましく鳴り響いた。
カーテンを閉めて、電気を消して、玄関でパンプスを履く。ドアを押し開ける。下へ行ってしまったエレベーターを待つ。1階へ。ヒールを鳴らしながら、ロビーをまっすぐに突き進んでいく。
午前7時40分。まだ淡い色をした、いつもの朝だ。
「葉子ちゃん、まだあの部屋借りたままなの?」
昼休憩、コンビニで買ったパスタサラダの蓋を開けながら、先輩が言った。
「2LDKでしょ。1人で住むには高すぎるわよ」
「いやあ、引っ越しの手続きをするのが面倒で、ずるずると」
「面倒ってだけで月12万円もよく払えるわ」
先輩が呆れたように笑うから、私もへらりと眉を下げた。海苔巻きのパッケージを見ながら、一生懸命フィルムを剥がしていく。いつもはおにぎりを買うけれど、たまには海鮮巻きもおいしそうだなあ、なんて挑戦してみたら、意外と組み立てるのが難しい。テーブルには海苔の破片がまき散らされていた。
「でも広くていいですよ。気分で、寝る部屋も変えられますし」
「子どもじゃないんだから」
ごもっとも、と私は心の中だけで返事をした。フィルムをまとった米の塊を前にして困惑していると、先輩が手を伸ばしてきた。ちょんちょん、と指で指し示す。どうやら海苔のうえに転がせばいいらしい。
「ルームシェアやめて、もう2か月は経ったんじゃないの?」
「ありゃ、もうそんなに。時の流れは早いと言いますか」
「葉子ちゃんは真面目なのかだらしないのか、よく分からなくなるわ」
仕事はあんなにできるくせに、と先輩は割り箸を引っ張った。パキッといい音が鳴って、ちょうど半分、綺麗に割れる。「おおー」と声をあげれば、先輩は「早く引っ越しちゃいなさいよ」と片手を振った。
「未練があるってわけでもあるまいし」
1人きりって気楽でいいわよ、と先輩が目を細めた。
「散らかしても怒られない、下着でうろついても怒られない、深夜までお酒飲んでも怒られない。それって自由で、最高じゃない?」
宙で手を動かしてみせたのが、ビール缶を傾ける真似だと分かったのは、元同居人がそうするのを毎日のように見ていたからだ。
そうですねえ、と答えた私は、すっかり海苔の破けた海鮮巻きにかぶりつく。けれどそれをしていたのは私じゃなくて、春佳ちゃんの方だ。そして春佳ちゃんは自由で最高な人になってしまった。
薄情にも、私のことなんて忘れて。
春佳ちゃんは小学生のころからの友だちだ。大学生になって離れてしまったけれど、お互い帰省するたびに会っていて、実家にも入り浸っていた。就職先はどちらも東京で、ルームシェアを持ちかけてきたのは春佳ちゃんからだった。
「ね、あたしたち、一緒に住むとかどう?」
あたしが料理するから、葉子が片付けやってよ。それで夜ご飯は、テレビを見ながら一緒に食べようよ。彼女がいたずらっぽく笑うのが好きだったから、私はその場で二つ返事をした。
一緒に暮らした3年間で、喧嘩なんて一度もしたことがなかった。私は他人とぶつかるのが苦手だったし、春佳ちゃんはなんでも許しちゃうような、器の大きい人だったから。私たちはきっと一緒に暮らすのにとても向いていた。
「葉子、ソース取って。冷蔵庫の中」
「これ?」
「オイスターソースなわけがないじゃん。ウスターだよ」
冷蔵庫のドアを閉めながら差し出すと、春佳ちゃんはフライパンから目を逸らさないまま受けとった。蓋をひねって、そのまま傾ける。見事なまでの目分量だ。
「うーん、いい感じ。ハイボールに合うね」
肉の切れ端を口に放りこんだ彼女は、すぐにお酒を流しこんだ。右手で肉と野菜を炒めているのに、左手ではハイボールを飲んでいる。なんとも器用だ。私はシンクに置かれたまな板をスポンジでこすり洗う。
「エプロンくらいすればいいのに」
「暑いからやだ。クーラーもないのに。こっちは風呂あがりよ」
濡れたままのロングヘアからは、まだ水滴がしたたり落ちていて、服にしみを作っている。タンクトップ一枚に布のショートパンツという、とても外には出られないような格好で料理をするのが、春佳ちゃんの流儀で、夏の風物詩だった。
食べ終わったあとの洗い物も私の担当だ。タレがこびりついている皿を集めて、シンクへ持っていく。先に食べ終わっていた春佳ちゃんは、3杯目のハイボールを飲みながら雑誌を読んでいた。私の会社で配られた女性誌のバックナンバーだったけれど、私より春佳ちゃんの方が楽しんでいる。
「ねえ、そのコップも洗っていい?」
キッチンカウンター越しに声をかける。片肘をついている春佳ちゃんは顔をあげない。少し大きい声を出しても視線は落ちたままだ。開かれたままの雑誌をじっと見つめている。私はゴム手袋をつけた手をタオルで拭って、ダイニングテーブルのそばまで近づいていった。
「春佳ちゃん、コップ」
「あ、うん」
彼女はコップを差し出してきた。とってに指をかけて持ち上げながら、雑誌を見やる。カラー印刷された青い山脈と、どこまでも続く草原と、赤い列車。
「……スイス?」
「正解」
春佳ちゃんは口角を上げた。
「よく分かったね」
「パッケージツアー? 春佳ちゃん、そういうの興味あったんだ」
意外、と呟きながらシンクへ戻る。春佳ちゃんはお風呂のないゲストハウスでも躊躇なく泊るような人だから、パッケージツアーなんて縁がないと思っていた。彼女はけらけらと笑って、両腕を引っ張るみたいに伸びをした。
「いやあ、高いなって」
「そりゃあそうだよ。だってスイスだもん。物価だって高いんじゃないかな」
水でゆすいで、スポンジの泡を行き渡らせる。春佳ちゃんは「まあね」と呟いてから、また俯いた。換気扇が回る音に、シンクに水が跳ねる音がまじりあう。雑誌のページは一向にめくられないままだった。
思えば、そのときから小さな違和感はあったのだ。
春佳ちゃんが「ワーホリに行く。すぐにでも日本を出る。いつ帰ってくるかは決めていない」と言ったのは、それから2カ月後のことだった。そして「ごめん」と言ったのは、その直後だ。たぶん私が泣いたから。何を言っているか分からない、と思ったのと同時に、そんな予感はしていたなあ、と今になって自覚した。
春佳ちゃんは申し訳なさそうな顔こそしていたけれど、寂しいとも悲しいとも思っていない、どこか希望に満ちあふれた雰囲気をまとっていた。
人の気配が薄くなった部屋で、クッションを抱えながらメッセージを送る。最初はすぐに返信が来た。たまに写真と、中継も。けれど日が経つにつれて返信は遅れ始めて、ときには数日空くことも増えて、ついには既読さえつかなくなってしまった。
さぞ楽しいんでしょうね、と私は冷たくなった足先に触れる。
日本もすっかり冬だ。
スイスみたいな雪景色には程遠い、ビル風が吹き抜けるだけの冬だった。
寒々しくなるくらい広い2LDKには彼女の面影がない。残されたのは、使いかけの香水瓶1本だけ。飛行機には持ちこめないけれど、捨ててしまうにはもったいないから、と押し付けられたそれには、液体が半分以上残っていた。
いつの日からか、毎朝、ワンプッシュつけるようになった。左手首に吹き付けて、右手首にあてて香りを移し、首筋にこすりつける。首を傾けて長い髪をかきわけるように。ああ、でも私はいつも髪をあげているんだった——だから彼女よりも簡単だ。
オーダーメイドで調合してもらったという香水は、もう二度と同じものが手に入らないから、使い切ってしまったらそれで終わり。使うたびに惜しくなるのに、早くなくなってしまえばいいのにな、と思うのだから矛盾している。
濃厚な甘い花の香り。なのにどこかさっぱりとした、緑の葉のような青臭さ。これは春佳ちゃんのための香水だ。私のものじゃない。
私のものじゃないと思ってしまうから——たぶんこれが潮時だった。
先輩にお願いして紹介してもらった不動産屋は、駅の裏側にあるらしい。ほとんど歩いたことのない道を進んでいく。ガラス張りの小さな店には、売り出されている物件のビラが所せましと貼られていた。個人でやっていると聞いていたが、ビラの画質が妙に悪いから、少し笑ってしまった。
「引っ越したいんです」
座面の硬い椅子に腰かける。
「1人暮らしにちょうどいい、駅チカの家に。コンビニと、遅くまで空いているスーパーが近くにあると嬉しいです」
「だったらここと、ここと——あ、でもその部屋はコンロ1口しかないよ」
「いいんです。料理、苦手なので」
レンジが置ければ、それで。だったらもっと安くて綺麗な部屋があるよ、と出されたビラに目を通した。特急も止まる駅から徒歩3分。リノベーションされていて、日当たりもいい。私はその日のうちに契約書にサインしていた。
勢いだけのヤケクソだ、なんて言われてしまうかもしれないけれど、たぶん違っていた。ようやく納得しただけだ。私も自由で、最高な人になるべきだっていうことに。1人きりだとしても。1人きりだからこそ。
そういえば香水をつけ忘れていたな、と気が付いたのは帰り道のことだった。
土曜日だからか、昔ながらの住宅街にはうっすらと子どもの声が響いていた。リビングを走り回る足音、甲高い叫び声、ボールを壁にぶつける音。ご老人も多いらしく、この寒い中、ホースを引っ張って洗車しているおじいちゃんがいた。おばあちゃんは庭の茂みに水をやっている。
ほとんど来たことのない場所だから、行きは大通りを歩いてきたけれど、細道を抜けた方が近道だということは、マップを見たときから知っていた。どうせあとは帰るだけで、急いでいるわけでもない。ブロック塀に挟まれた、一方通行の標識が立てられた道へ入りこむ。
自転車を立ちこぎをしている男の子2人が、私を追い越していった。風を浴びて、思わず目をつむる。一人はチャックが開いたままリュックを背負っていて、もう1人は塗装の剥がれた水筒を肩からさげていた。小学生だろうか。子どもは元気でいいなあ、と遠ざかっていく背中を見送った。私は自転車なんてもう10年はこいでいなかった。
昔は自転車1つあれば、どこまでも行けるような気がしていた。
広い公園にも、品ぞろえのいい駄菓子屋にも、ショッピングモールにも。好きなときに好きな場所へ行けた。
だというのに一体いつからだろう、電車に乗って、県さえまたいで遊びに行けるようになったのは。ICカードの残金なんて気にしないようになったのは。どこまでだっていけるはずなのに、そのありがたみすらどうでもよくなってしまったのは——。
ふと、足を止めていた。
どこからか漂っている香りには、覚えがあった。
「甘い——」
華やかな、うっとりするような甘い花の香り。でもどこかスパイシーで、爽やかな青さが残るそれは。
ずっと向こう、たぶん10メートル以上は離れていた。そこだけブロック塀が途切れていて、緑の低木が顔を出していた。点々と小さな白い花が集まっていて、強い香りを振りまいている。最初は金木犀かと思った。けれど時期が違うし、花の色だって全然違う。それにこの香りを私はよく知っていた。冷たいガラス瓶に閉じこめられた、あの子によく似合う香り。
吸い寄せられるみたいに、ふらふらと近づいていく。
スカートの裾をたたむようにしゃがみこむ。
それは小さくて、可愛らしい花をつけた低木だった。
だというのに、風に揺れるほど華やかな香りが立ち上る。枝を歩いていくアブラムシは、この香りに引き付けられたのだろうか。見つめながら、「こんな花だったんだ」とひとり言を呟いた。
「そっか、こんな花だったんだ——」
スマホで名前を調べてみる。沈丁花。春先に咲く、強い香りを漂わせる花。自分の中でぼんやりとしていた影が、確かな輪郭を得ていくのが分かる。同時になぜか拍子抜けしてしまっている自分もいた。神聖なものが俗にそまっていくような、そういうあっけなさ——。
私は膝に両手を置いて、立ち上がった。
やっぱり、私の直感は間違っていなかったのだ。
ここが潮時。
スーパーのビニール袋を揺らしながらマンションの自動ドアをくぐる。最近はすっかり蒸し暑くなってきたから、ロビーに入ると急に涼しく感じた。それにしても、あの首筋にまとわりつくような湿気には参ってしまう。あと数日もすれば関東も梅雨入りらしいから、通勤バッグには折り畳み傘を入れておかなければいけない。
ロビーにある郵便受けのダイアルを回す。
つい数日前に整理したばかりなのに、山ほどビラが詰め込まれていた。
保険、分譲マンション、また保険、宅配ピザ——いつものビラに混じって、ハガキが入っていた。なぜか宛名も差出人も英語だ。端には「AIR MAIL」と書かれていた。どうやら外国からやって来たらしい。私は首を傾げてしばらく見つめる。外国から広告をもらう心当たりはない。
しかも宛名には古い住所が書かれていた。わざわざ転送されてきたようだ。こんなハガキ、一体誰から——差出人を見た私は笑ってしまった。共用ロビーだというのに、声をあげて笑ってしまった。
ひっくり返すと、すっかり雪の解けた山脈と、澄んだ湖が映っていた。
相変わらずタンクトップ一枚の彼女は、けれどその景色によくお似合いだった。
元気そうでなにより、と私はエレベーターのボタンを押す。早くしないと、弁当屋で買ったばかりのからあげ弁当が冷めてしまう。一人の食卓って気楽だ。毎日値引きされた惣菜を買ってきたって、誰にも文句を言われないのだから。




