第3話「白昼のカーチェイス」
肺が、焼けるみたいだった。
喉の奥は熱く、吸い込む空気は針みたいに痛い。
脚はとっくに悲鳴を上げている。
なのに止まれない。
止まったら、本当に終わる。
そんな確信にも似た何かが、背筋に張りついていた。
人気のない裏路地を、俺は半ば転ぶように駆け抜ける。
アスファルトを蹴るたびに足裏が痺れる。
乱れた呼吸はもう整う気配すらない。
耳に押し当てたスマホだけが、今の俺を辛うじて前へ進ませていた。
「そのまま直進。次の角を左」
スマホ越しに聞こえる澪の声は、信じられないくらい冷静だった。
「っ……はぁ、はぁ……っ!」
「止まらないで!」
「もう、結構限界なんだけど!?」
半ば悲鳴みたいに叫ぶ。
すると間髪入れず、澪の声が飛んできた。
「もう少し、頑張って!」
「頑張ってでどうにかなる状況なら苦労してねぇよ……!」
無茶苦茶だ。
ほんの数十分前まで、俺は少なくとも“普通”だったはずなのに。
それがどうだ。
訳のわからない連中に追われ、澪に指示されるまま、街を全力疾走。
意味がわからない。
本当に意味がわからない。
けど――背後から迫ってくる“何か”だけは、嫌でも理解できた。
『だらしがねぇ、俺が変わってやろうか?』
頭の奥で、戦闘狂の乱暴な声が響く。
こんな状況だってのに、どこか楽しそうですらある声音。
「却下だ!」
「えっ!?ちょ、何!?」
スマホ越しに澪の困惑した声が返ってくる。
「いや、こっちの話!」
自分でも何やってんだ俺、と思う。
でも説明してる暇なんてない。
角を曲がると視界が一気に開けた。
古びた雑居ビルに、閉まりきったシャッター。
俺は荒い呼吸を繰り返しながら、その場へ飛び込んだ。
「ここで……いいんだよな……?」
キィィィィィィッ!!
鼓膜を裂くようなタイヤ音。
「うおっ!?」
黒い車が、ほとんどドリフトみたいな勢いで俺の目の前へ滑り込んできた。
あと数歩遅れてたら普通に轢かれてた。
心臓が止まるかと思った。
助手席のドアが、内側から勢いよく開く。
「乗って!」
「澪!?」
運転席にいたのは、間違いなく澪だった。
けど、いつもの家での彼女とはまるで別人だった。
長い髪を揺らしながらハンドルを握る横顔は真剣そのもの。
鋭く前を見据える瞳。一切の迷いがない。
「早く!」
「どこでこんな車……」
『後方に注意してください』
頭の奥で、賢者の冷静な声が差し込む。
その声音だけで、嫌な予感が背筋を駆け上がった。
「なっ……!?」
反射的に振り返ると、路地の奥から、黒塗りのセダンが猛スピードでこちらへ突っ込んできていた。
一台じゃない。その後ろにも、もう一台。
まるで最初から逃走経路を読んでいたみたいに、一直線にこちらへ迫っていた。
黒いスーツにサングラス。
フロントガラス越しでもわかるほど、無機質な顔だった。
「うそだろ……!?」
「いいから乗って!」
「うおっ!? ちょ、待っ――」
腕を引かれ、半ば投げ込まれるように助手席へ転がり込んだ瞬間、ドアが閉まった。
「舌噛まないようにね!」
「は――」
勢いよく身体がシートへ叩きつけられた。
「うわぁぁぁぁっ!?」
速いなんてもんじゃない。
内臓が置いていかれる。
澪の車は、咆哮みたいなエンジン音と共に一気に路地を飛び出した。
タイヤが悲鳴を上げる。
身体が左右に振り回される。
なのに澪は、迷わない。
まるでこの状況すら想定内みたいに、正確にハンドルを切り続ける。
バックミラー越しに後方を覗くと、黒塗りのセダンがぴたりと追ってくる。
撒けない。
それどころか、じわじわ距離を詰めてきている。
「澪、あいつらいったい何なんだよ!」
「捕まったら終わりなの。だから今は黙って!」
「終わりって何が!?お前、何知ってるんだよ!」
「翔、今は生きるのよ!」
その一言が、喉を塞いだ。
澪は本気だ。
本気で、“捕まったら終わり”だと思ってる。
その事実が、何より怖かった。
ドンッ!!
「きゃっ……!?」
強烈な衝撃。
後方のセダンが、車体ごとこちらへぶつけてきた。
「っ、この……!」
車体が大きく揺れ、窓ガラスが震える。
シートベルトが胸に食い込む。
横を見るとセダンが並走している。
中にいる黒服の男達が、無表情のままこちらを見ていた。
「翔、伏せて!」
澪の鋭い叫びが車内に走る。
だけどその瞬間だった。
恐怖が、焦りが、混乱が、まるで潮が引くみたいに、すうっと消えていく。
代わりに満ちるのは――
冷たく、静かで、場違いなくらい、優雅な感覚だった。
自分の中の“誰か”が、前に出てくる時の感覚。
意識が消えるわけじゃない。
乗っ取られる、ってほど単純でもない。
俺は俺のまま、ちゃんと見えている。
ただ身体の主導権が、滑るように切り替わっていく。
『……まったく。無粋ですこと』
頭の奥で、お嬢の気品に満ちた声が静かに響く。
すると視界の端で、鮮やかな紅がふわりと揺れた。
長く波打つ縦ロール。
ひらりと翻る、紅いフリル。
ズボンとシャツの感覚は消え、代わりに身体を包むのは見慣れた豪奢なドレス。
完全に、見慣れた“お嬢仕様”。
……うん。
相変わらず場違いだな、おい。
けど今さらそこを突っ込んでる暇はない。
『さぁ――お戯れの時間ですわよ』
その声は、完全に“俺”じゃない。
柔らかく、上品で、それでいて、妙な威圧感がある。
バックミラー越しに、澪の表情が変わった。
「貴女は……!姿が……変わった?」
澪は目を見開いたまま、信じられないものを見るみたいに呟いた。
その声には、明確な驚きがあった。
動揺する澪をよそに、お嬢はふふっと優雅に笑う。
『ごきげんよう、澪さん』
完全に旧知の相手へ向けるような、気品に満ちた挨拶。
口元に、ふっと不敵な笑みが浮かぶ。
『優雅なお話は――』
揺れる車内だというのに、その声音はどこまでも滑らかだった。
まるでこれから始まるのが退屈な茶会の前座にでも過ぎないみたいに。
『お邪魔虫を排除してからにしましょ』
カチッ。
助手席側の窓が、静かに開く。
(……は?いや待て!開けるの!?今この状況で!?)
風が一気に車内へ流れ込む。
エンジン音。
タイヤの摩擦音。
空気を切り裂く速度の圧。
紅い縦ロールが激しくなびき、ドレスのフリルが荒々しく揺れる。
普通なら、その時点で姿勢を保つだけでも難しい。
なのに、お嬢はまるで違った。
片手で窓枠に触れ、もう片方の手でドレスの裾を軽く押さえながら、
まるで舞台のステップでも踏むみたいな自然さで身を乗り出す。
(いやいやいや!?落ちる!!普通に危ない!!)
だが、その動作には妙なまでに無駄がなかった。
風に煽られながらも、姿勢がまったく崩れない。
そして、紅い手袋に包まれた右手が、何もない空間へすっと差し出される。
まるで、誰かにエスコートを求める淑女のように。
――ギィン。
空間そのものが軋んだような、不自然で重厚な金属音が弾ける。
何もなかったはずのそこに、“現れる”。
木製グリップ、鈍く光る金属、長い銃身。
そして、象徴みたいな円盤型弾倉のトンプソン短機関銃だ。
(もっと今風の銃にしとけよ!なんでよりにもよってそれなんだよ!)
思わず意識の中で全力ツッコミが飛び出す。
すると返ってきたのは、心底呆れたような、それでいてどこか誇らしげな声音だった。
『いけませんわね、翔様。ロマンって、大事でしてよ?』
お嬢の声が、やれやれと言わんばかりに響く。
(そこは実用性を重視しろよ!?この状況、命懸けなんだぞ!?)
だが、お嬢はまるで聞く耳を持たない。
ふふん、とでも言いたげな気配すらある。
『様式美なくして勝利など半分以下ですわ』
(なんだその謎理論!?いや、毎度のことながら本当にブレないなこの人格!!)
けれど、その“ロマン”は伊達じゃなかった。
片手で構えられたトンプソンは、古風な見た目に反して異様なほど馴染んでいる。
その手に握られた時だけは、不思議なくらい“完成された一枚絵”になっていた。
むしろ似合ってるのが腹立つ。
黒塗りのセダン、その窓越し。
無機質だった黒服たちの表情が、初めて明確に揺らぐ。
そりゃそうだ。
追っていた標的の助手席から、紅い縦ロールのお嬢様がトンプソン片手に身を乗り出してきたんだから。
意味がわからないにも程がある。
……俺だって、いまだに意味わかってない。
だが、お嬢はそんな困惑すら気品に変えるみたいに、口元へ優雅な笑みを浮かべた。
トンプソンの銃口が、静かに黒塗りのセダンへ向けられる。
『――さて』
その声音は、まるで舞台の幕開けでも告げるように華やかで。
なのに次の言葉は、完全に物騒だった。
『蜂の巣におなりなさい!』
――ダダダダダダダダダッ!!
トンプソンが火を噴いた。
鼓膜を震わせる連射音。風へ散る硝煙。火花を散らす弾丸。
容赦なく叩き込まれる銃弾が、セダンのフロントガラスやボンネットへ次々に突き刺さる。
金属を穿つ音と共にひび割れるガラス。
助手席側の男が咄嗟に身を伏せ、運転手がハンドルを乱す。
車体が蛇みたいによろめく。
キキィィッ!!
セダンが反射的に後方へ下がった。
(おおっ!?)
あの無感情集団が、“撃たれたくない”って感じで明確に距離を取った。
だが、それを見たお嬢はさらに上機嫌だった。
『あははははっ!無様に踊りなさい!』
お嬢の高らかで上品な笑い声。
……いや、笑い方は優雅なのにやってること完全に物騒なんだが!?
――ダダダダダッ!!
派手だ。めちゃくちゃ派手だ。
でも――
(おい!タイヤ狙えタイヤ!そこだろ普通!機動力奪えよ!)
でも、お嬢は呆れたようだった。
『野暮ですわねぇ』
(どこがだよ!?)
『華やかさも大切でしてよ?』
(カーチェイスに演出求めんな!!)
俺の叫びも意に介さず、お嬢はふふんと笑う。
『……ですが、ご意見には一理ありましてよ』
(最初からそうしろ!)
トンプソンの銃口が、すっと下がる。
狙いが変わり、黒塗りのセダンのその前輪に向けられる。
――ダダダダダッ!!ギャリィィィィッ!!
タイヤの弾ける音が鳴り響き、車体が大きく傾く。
制御を失ったセダンが蛇行し、そのままガードレールへ激突。
金属が潰れる嫌な音が、道路へ響き渡った。
(うおぉ……)
思わず変な声が漏れる。
……やる時はやる。
いや、だから最初からやれ。
お嬢は硝煙の向こうで優雅に微笑むだけだった。
『ほら、ロマンも実用性も、両立できますでしょう?』
(最初のロマン乱射、本当に必要だったか!?)
俺の叫びに返ってきたのは――ただ、楽しげな笑い声だけだった。
激しい銃声の余韻が、ようやく薄れていく。
さっきまで執拗に食らいついてきていた黒塗りのセダン。
一台は完全に沈黙。
ガードレールへ突っ込み、白昼の道路脇で無残に停止している。
もう一台も、あの派手すぎる“ロマンと実用性の両立”を見せつけられたせいか、明らかに距離を取っていた。
少なくとも、さっきまでみたいな強引さはない。
その一瞬の隙を、澪は逃さず鋭くハンドルを切る。
一切迷わずルートを選び続けた澪の横顔は真剣そのものだ。
額にはうっすら汗。
けれど、その瞳はぶれない。
車はさらにいくつもの角を曲がり、ビル街を抜け、ようやく追跡の気配が完全に途切れる。
黒塗りの影はどこにも見えなかった。
そこでようやく、澪が小さく、けれど深く息を吐いた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
助手席の窓枠から身を乗り出していたお嬢は、
まるで少し騒がしい外出を終えただけみたいな顔で、自然な動作のまま車内へ戻ってきた。
その一連の所作が、いちいち優雅なのが妙に腹立つ。
まずドレスの裾を整える。
そして紅いフリルを軽く払い、何事もなかったみたいに助手席へ座り直す。
優先順位そこなんだ。
脚を揃え、背筋を伸ばし、気品すら感じる姿勢。
……数秒前までトンプソン乱射してたやつと同一人物とは思えない。
そんな俺の困惑をよそに、お嬢は静かに澪へ視線を向けた。
『これで静かになりましたわ』
上品で、穏やかで、少し騒がしい来客を追い返した程度のテンション。
「助かったわ……」
対して澪は、ハンドルを握ったまま少しだけ肩の力を抜き、安堵の混じった声を漏らした。
その言葉は短いが、そこには確かな本音があった。
澪もギリギリだった。
あの冷静さの裏で、ちゃんと危険を理解していて、その上で走り切った。
だからこそ、その一言に妙な重みがある。
だが、お嬢はそんな空気すらさらりと受け流す。
『礼には及びませんわ。この後、お茶会でもしましょ』
ふわりと紅い縦ロールを揺らしながら、優雅に微笑む。
(……は?この状況の直後に!?頭どうなってんだよ!!)
思わず思考が止まった。
黒服に追われて、昼間の道路で銃撃戦して、そのテンションのままお茶会だって?
だが、澪は澪で、その突拍子もなさにほんの少しだけ口元を緩めた。
「それはまた今度、ね」
軽く流しながらも、どこか慣れてる感じの自然な会話。
なんなんだその距離感。
俺の知らないところで何がどうなってる。
だが、そんな混乱もよそに、お嬢は少しだけ肩をすくめた。
『残念ですこと』
その声音には、どこか本気じゃない余裕がある。
そしてすうっ、と。
身体の奥で、感覚が切り替わっていく。
紅いドレスの存在感。縦ロールの重み。
あの妙に優雅で鮮烈な感覚。
それらが、少しずつ内側へ引いていく。
『では、後はよろしくて?』
頭の奥で、お嬢の声が届く。
どこか満足げで、舞台を降りる役者みたいだった。
(いや、ほんと毎回自由だなお前……)
そう返す頃には、紅い装いも静かに薄れ、身体の主導権が俺へ戻ってくる。
残るのは、いつもの俺とどっと押し寄せる疲労感。
「……はぁっ……はぁ……」
全身が重い。
けど、生きてる。
その実感だけは、妙に鮮明だった。
だが同時に、理解もしてしまう。
もう無理だ。
こんなものを経験して、“普通”に戻れるわけがない。
助手席で息を整えながら、俺は澪の横顔に目を向ける。
相変わらず真剣で、まだ完全には気を抜いていない。
けれど、さっきまでより少しだけ――安心しているようにも見えた。
だからこそ、今度こそ聞かなきゃいけない。
荒い呼吸を整えながら、俺は低く絞り出した。
「……澪。説明、してもらうぞ」
今度こそ、本当に。
翔「第三話『白昼のカーチェイス』でした」
お嬢『優雅さと火力を兼ね備えた、実に華麗な戦いでしたわね』
翔「いや普通に銃乱射してただけだからな!?」
戦闘狂『ハッ!結局オレの出番なかったじゃねぇか!』
悪『でもお嬢の“ロマン乱射”は結構好きだったよ?』
賢者『非効率ではありましたが、敵への心理的圧迫には成功していました』
翔「賢者まで分析するな!」
お嬢『ふふん。様式美は大切でしてよ?』
澪「次回、“日常の終着点”。――もう戻れないわよ」
翔「その言い方やめろ!?怖ぇんだよ!!」




