第8話 お嬢様は、見抜いてしまう
その日の放課後、私は図書室へ向かう前に一度だけ階段の踊り場で立ち止まった。
理由は特にない。
……と言いたいけれど、ある。
考えたかったのだ。
昨日の家庭科のことを。
マフィンの甘い匂い。
班の中の、思っていたより普通だった空気。
ラムレーズンが苦手だと、一条くんが当たり前みたいに知っていたこと。
そして、あの人が「今の君のこと、まだ全部は知らない」と言ったこと。
あれから私は、授業中も、昼休みも、家へ帰ってからも、何度もその言葉を思い出していた。
昔のことを覚えているのは彼だけで、私はほとんど思い出せない。
それは少し悔しいし、申し訳ない。
でもそれ以上に厄介なのは、彼が昔のことだけを見ているわけじゃないと、昨日はっきり分かってしまったことだった。
もし、彼がただ懐かしいだけなら。
昔の延長で、私を見ているだけなら。
私はまだ、“それなら勘違いしないで済む”と思えたかもしれない。
でも、そうじゃない。
今の私のことを見ようとしている。
今の私の反応に、一喜一憂している。
それが分かってしまうと、もう何もかもが面倒になる。
嬉しい。
怖い。
逃げたい。
でも少しだけ知りたい。
そんなもの、どうやって整理すればいいんだろう。
「……帰りたい」
思わずつぶやく。
でも帰れない。図書委員の当番がある。
私は小さく息をついて、また歩き出した。
◇ ◇ ◇
図書室での仕事は、今日は比較的穏やかだった。
返却本を棚に戻して、貸し出しカードを整理して、新しく入った文庫のラベルを貼る。
静かで、紙の匂いがして、規則的な作業がある場所。
本来の私は、こういう場所にいると落ち着くはずなのに。
最近はここでさえ、落ち着かないことがある。
廊下の足音ひとつで、もしかして、と考えてしまうようになったからだ。
もちろん、自分でも分かっている。
それはもうかなり重症だと思う。
「朝比奈さん、この返却分お願いね」
司書の先生に声をかけられて、私は慌てて返事をした。
「はい」
「今日はぼんやり度が少し低いわね」
「……それ、最近の私そんなにひどいですか」
「ふふ、ちょっとだけ」
「ちょっとじゃない気がします」
「自覚あるのね」
「あります……」
先生が楽しそうに笑う。
私は少しだけ肩の力が抜けた。
そのときだった。
図書室の入り口近くが、ふっと静かになった。
騒がしいわけではないのに、空気が変わる。そういう静けさ。
私は反射みたいに顔を上げてしまった。
でも、そこに立っていたのは、一条くんではなかった。
九条麗華。
その姿を認識した瞬間、私は心の中で小さく身構えた。
彼女は今日も、同じ制服なのにどこか別の世界のものみたいに見えた。
長い髪も、背筋も、手に持っている本の角度まで、全部が綺麗だ。
私が彼女に抱く感情は、単純な苦手意識だけではない。
眩しい、に近いのかもしれない。
でもその眩しさは、私にとっては少し痛い種類のものだった。
麗華は司書の先生に軽く会釈してから、まっすぐこちらへ歩いてくる。
逃げたい。
でも逃げたら余計に不自然だ。
私は本を持ったまま固まってしまった。
「朝比奈さん」
「……はい」
「少しだけ、よろしいかしら」
前と同じ言い方だ。
穏やかで、でも断りづらい。
私は司書の先生の方を見た。先生は空気を読んだのか読んでいないのか、にこやかに言う。
「返却本はあとでいいわよ」
「……ありがとうございます」
こうなると、断れる雰囲気ではなかった。
◇ ◇ ◇
図書室を出てすぐの、小さな閲覧スペースの脇。
人目が完全にないわけじゃないけれど、会話の内容までは拾われにくい場所に、麗華は立ち止まった。
私は少し離れて向き合う。
前に彼女と話したときよりも、今日は心臓の音がうるさい。
たぶん、前より彼女の言葉が怖いからだ。
あのときの『いちばん残酷』が、まだ胸に残っている。
麗華は少しのあいだ私を見ていた。
その視線は鋭い。でも、前回ほど刺々しくはないようにも思えた。
「……今日は責めに来たわけではないの」
意外な一言だった。
私は少しだけ瞬きをする。
「そう、ですか」
「ええ」
「じゃあ……」
「確認しに来たのよ」
確認。
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「何を、ですか」
「あなたが、どこまで無自覚なのか」
思わず息が止まった。
麗華はそれを見て、苦いものでも飲み込むみたいに目を伏せる。
「本当に分かっていない顔をするのね」
「……」
「わたくし、正直に言えばまだ腹は立っているの」
「……はい」
「でも、昨日見ていて思ったわ」
「昨日?」
「家庭科室の前を通りかかったの」
その言葉に、私は心臓がどくんと跳ねた。
「全部聞いたわけじゃない。でも、あなたたちの空気は見えた」
空気。
それは、言葉よりもずっとごまかしが利かないものかもしれない。
「あなた」
麗華はゆっくり言う。
「一条くんに大切にされている自覚、ほとんどないでしょう」
「……」
「ないのね」
「……自覚、って」
「言い換えるなら、特別に見られている自覚よ」
私は視線を落とした。
特別。
その言葉は、まだ私にはあまりに重い。
「そんなの」
口を開くと、思ったより声がかすれた。
「あるわけない、って思ってます」
「どうして?」
「どうしてって……」
そんなの、決まっている。
だって私は地味で、目立たなくて、自己主張も苦手で、周りから見れば“そういうタイプに見えない”人間だ。
学校中の憧れの的みたいな人が、わざわざ私を特別に見る理由なんて、普通に考えたらない。
「私なんて、って思うからです」
言ってしまってから、ああ、と思った。
あまりにもそのままだった。
でも麗華は笑わなかった。
少しだけ眉を寄せて、静かに私を見ている。
「便利な言葉ね」
「……」
「“私なんて”って言えば、何も始めなくて済むもの」
「そんな」
「違うかしら」
違う、と即答できなかった。
違わない部分があるからだ。
私は“私なんて”で、いつも少しだけ楽な方へ逃げている。
傷つく前に、最初から線を引いてしまう。
「……あなた、怖いのね」
麗華がふいに言った。
「何が」
「大事にされることが」
私は顔を上げた。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
目立つのが嫌。
噂になるのが嫌。
勘違いしたくない。
それは全部本当だ。
でも、その奥にあるものをひとつにまとめられるなら、たしかに“怖い”なのかもしれない。
「特別にされると」
麗華の声は思ったよりやわらかかった。
「それがなくなったときの痛みも大きいものね」
「……」
「あなた、自分が傷つかないように、最初から何も受け取らないようにしている」
「……そうかもしれません」
「でも、それは相手には分からないわ」
その言葉が、また痛いところへ入ってくる。
私が自分を守るためにしていること。
それは私には必要でも、相手から見ればただ拒絶や無関心に見えるかもしれない。
分かってはいた。
でも、こうして言葉にされると、逃げ道がなくなる。
「一条くん」
麗華は少しだけ視線を遠くへ流した。
「昔から、人に対して丁寧よ。優しいし、ちゃんと気を配る」
「……はい」
「でも、本気の相手にはもっと分かりやすく不器用になるの」
「……」
私は何も言えなかった。
麗華は知っているのだ。
彼の普段と、そうじゃないときの違いを。
それを長く見てきた人の言葉は、軽く受け流せない。
「あなたの前にいるときの彼は、少し余裕がないわ」
麗華は続けた。
「平気そうな顔をしていても、実際はかなり必死」
「……そんなふうには」
「見えなかった?」
「……少しだけ」
答えてから、自分で驚いた。
私はいま、彼のことで“少しだけ分かること”があると認めたのだ。
麗華はその返事を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「そう」
「……」
「なら、まったく無自覚というわけではないのね」
その言い方に、私は少しだけ居心地が悪くなる。
無自覚じゃない。
でも、理解したくて理解しているわけでもない。
気づいてしまうだけだ。
彼が少し寂しそうにするとか、嬉しそうにするとか、そういう小さな変化を。
「……九条さんは」
私は迷って、それでも聞いた。
「どうして私に、こんなことを言うんですか」
麗華はすぐには答えなかった。
窓の外に目をやって、しばらくしてから、小さく息を吐く。
「さあ」
「……」
「自分でも、あまり上品じゃないと思っているわ」
「そんな」
「でも」
彼女はまっすぐ私を見た。
「あなたがずっと分からないふりをしていたら、あの人が報われない気がして」
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
報われない。
その言葉は重い。
「わたくし、彼に想われているとは思っていないわ」
麗華ははっきり言った。
「でも、尊敬しているし、好意もある」
「……」
「だからこそ、彼の目が誰に向いているかくらい、見誤らない」
その言葉のまっすぐさに、私は返す言葉を失った。
彼女は高飛車でも、嫌味なだけでもない。
ちゃんと自分の感情を知っていて、そのうえで言葉にしている。
そういう強さがある。
私にはないものだ。
「羨ましいのよ」
麗華は静かに言った。
「あなたが」
「……私が?」
「ええ。あなたは選ばれているのに、それを知らない顔ができるから」
「……そんな」
「でも、知らないこと自体は責めないわ」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「知らないまま心が追いつかないことだって、あるものね」
その言い方が、前回よりずっと静かだった。
責めるためじゃなく、ほんとうに見抜いたことを口にしているだけみたいで、私はますます戸惑う。
「ただ」
麗華は最後に、少しだけ声を強めた。
「あなたが自分の気持ちを見ないふりしたまま、彼の気持ちまで“勘違いかもしれない”で片づけるのは、やっぱり残酷だわ」
私は息を呑む。
それはきっと、今の私に一番痛い言葉だった。
自分の気持ちを見ないふりすること。
そのせいで、彼の気持ちまで曖昧なものとして扱ってしまうこと。
私はそこまでちゃんと考えていなかった。
考える勇気がなかった。
でも、だからといって、なかったことにしていいわけじゃないのかもしれない。
◇ ◇ ◇
麗華はそれ以上何も言わなかった。
言いたいことは言い終えた、という顔で小さく息をつく。
「引き留めてごめんなさい」
「……いえ」
「あなたが思っているより、わたくしはあなたに敵意だけを向けているわけではないの」
「……」
「でも、簡単に仲良くするつもりもないわ」
「……はい」
「そのくらいは、許してちょうだい」
その言い方が少しだけ可笑しくて、私はほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「……はい」
「素直ね」
「そうでもないです」
「そうかしら」
麗華はかすかに笑った。
最初に会ったときより、ずっと人間らしい笑い方だった。
「それじゃ」
彼女は踵を返す。
でも、二歩ほど歩いたところで立ち止まり、振り向かずに言った。
「彼のことを、ちゃんと見てあげて」
「……」
「昔を思い出せなくても、今の彼は見られるでしょう」
それだけ言って、麗華は去っていった。
私はその場にしばらく立ち尽くした。
ちゃんと見てあげて。
その言葉が、胸の中で何度も反響する。
私は彼を見ているつもりだった。
でも本当は、自分が傷つかないように距離を測ることばかりで、彼の気持ちそのものを見ようとしていなかったのかもしれない。
彼がどんな顔をするのか。
何に少しだけ余裕がなくなるのか。
何を嬉しいと思って、何に傷つくのか。
私は最近になって、ようやく少しずつ知り始めたばかりだ。
それなのに、最初から“どうせ勘違い”で済ませようとしていた。
たしかに、それは残酷なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
図書室へ戻ると、司書の先生が本を整理しながら顔を上げた。
「大丈夫だった?」
「……何がですか」
「難しい顔して出ていったから」
「……そんな顔してました?」
「してたわよ」
「……」
「でも、少しだけ違う顔で戻ってきた」
「違う顔?」
「考え込んでるのは同じだけど、逃げたい顔じゃなくなった感じ」
先生の言葉に、私は少しだけ驚いた。
逃げたい顔。
私はそんなに分かりやすいんだろうか。
「私、そんな顔してたんですね」
「最近ずっとしてるわ」
「やっぱり」
「やっぱりって、自覚あるのね」
先生がくすっと笑う。
私は気まずくて、返却本の山に手を伸ばした。
でも、さっきまでの自分と少し違うのは、たしかだった。
怖いものが消えたわけじゃない。
噂も、視線も、自分の自信のなさも、何ひとつ解決していない。
それでも、ただ逃げたいだけではなくなっている。
麗華の言葉が、胸の奥にまだ熱を持って残っているからだろうか。
今の彼は見られるでしょう。
それは、私にできることの話だった。
昔を思い出せなくても。
いきなり勇気なんて持てなくても。
今、目の前にいる彼を見ることくらいは、私にもできるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
図書室の仕事を終えて、外へ出ると、夕方の光が廊下の端まで伸びていた。
そしてその光の中に、見覚えのある人影が立っているのが見えた。
一条恒星。
私は思わず足を止めた。
彼も私に気づいて、少しだけ驚いたように目を見開く。
たぶん、今日ここで会うとは思っていなかったのだろう。
「……朝比奈さん」
「……お疲れさまです」
「お疲れさま」
少しだけ、沈黙が落ちる。
でも前みたいに、それが即座に苦しいものにはならなかった。
私は彼の顔を見る。
麗華の言う通り、ちゃんと。
穏やかに見える目。
でも、ほんの少しだけ慎重そうな気配。
私がどう出るか、きっと無意識に見ている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……待ってたんですか」
聞くと、恒星は少しだけ困った顔で笑った。
「違うよ」
「……」
「図書室に本を返しに来ただけ」
「……ほんとに?」
「半分くらいは」
「半分は違うんですね」
「うん」
その素直さに、思わず少しだけ笑ってしまった。
自分でも驚くくらい自然に。
恒星はその笑顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
それが嬉しそうに見えたから、私はまた少しだけ視線を逸らす。
「今日」
彼が小さく言う。
「何かあった?」
「……どうしてですか」
「朝より、少し顔が違う」
まただ。
どうしてこの人は、そんなところばかり気づくんだろう。
「……少しだけ、考えごとを」
「そっか」
「はい」
「悪いことじゃないならいい」
その言い方が、妙にやさしかった。
私は迷って、でも、今日は少しだけ逃げたくなかった。
「……一条くん」
「うん」
「前に、私が無自覚だって言われたことがあるんです」
「……」
「たぶん、そうなんだと思います」
「うん」
「でも、無自覚っていうより……」
私は言葉を探した。
「怖いだけ、なのかもしれません」
口に出した瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
たぶん私は、はじめて彼に対して、自分の本音に近いものを渡したのだ。
恒星はすぐには返事をしなかった。
その代わり、少しだけやわらかく目を細めた。
「怖がらせてるなら、ごめん」
「……それは」
「でも」
彼は静かに続ける。
「怖いなら、無理に急がなくていい」
「……」
「俺は、君がちゃんと見てくれるなら、それだけでも嬉しい」
また、嬉しい、だ。
でも今日は、その言葉から逃げたいとは思わなかった。
私は小さく息を吸って、うなずく。
「……見ます」
「え」
「ちゃんと」
自分で言って、少しだけ頬が熱くなる。
「ちゃんと、見ようと思います」
恒星は一瞬だけ息を止めたみたいに見えた。
それから、ひどく静かに、でも確かに嬉しそうに笑った。
「……ありがとう」
「その、だからって、すぐ何か分かるわけじゃないです」
「うん」
「昔のことも、まだ全然」
「うん」
「でも」
私は彼の目を見た。
「今の一条くんなら、たぶん」
その先は、少し恥ずかしくて言えなかった。
でも彼には伝わったのかもしれない。
彼はほんの少しだけ息を吐いて、視線をやわらげた。
「それで十分」
十分。
その言葉に、私はまた胸の奥があたたかくなるのを感じた。
全部じゃなくていい。
いきなり答えを出さなくてもいい。
ただ、ちゃんと見ることからでいい。
そう思えるだけで、少しだけ世界が変わる。
◇ ◇ ◇
帰り道、私はひとりで駅へ向かいながら、何度も今日のことを思い返していた。
九条麗華に言われたこと。
ちゃんと見てあげて、という言葉。
そして、自分の口から出た「見ます」という返事。
私はまだ、自分の気持ちを全部理解できていない。
彼の気持ちをきちんと受け止める勇気もない。
噂も怖いし、自分なんて、と思う癖も簡単には消えない。
でも、それでも。
今日の私は、昨日までの私より少しだけ進んだ気がした。
“私なんて”で全部を閉じるんじゃなくて。
怖いと認めたうえで、目の前のものを見ようとした。
それだけなのに、胸の中の景色が少し違う。
「……ほんと、少しだけだけど」
小さくつぶやくと、夕方の風が頬をなでた。
たぶん恋は、こういうふうに始まるのかもしれない。
いきなり好きになるんじゃなくて。
相手のことを見ようと決めた瞬間から、少しずつ、自分の中の何かが変わっていく。
そんなことを思ってしまった自分に、私はまた少しだけ顔が熱くなった。




