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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 御上常陸介寛浩


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第7話 昔のことを覚えているのは、私じゃなかった

翌朝、私は目覚ましより少し早く目が覚めた。


 眠れなかったわけじゃない。

 たぶん寝た。たぶん。

 でも眠りが浅かったのか、夢と現実のあいだみたいな場所で、私は何度も同じ言葉を思い出していた。


『見つけた宝物みたいな顔してたって、さっき桐生に言われた』

『否定できなかった』


 意味が分からない。

 分からないけれど、胸の奥に残る。


 宝物って何。

 何でそんな言い方をするの。

 それに、否定できなかったって、そんなことを本人に言う?


 布団の中で目を閉じたまま、私は小さく息を吐いた。


 最近、一条恒星に関する言葉ばかりが、私の中で居場所を作ってしまっている。

 忘れようとしても忘れられない。

 考えないようにしても、気づけばそこへ戻っている。


 これはよくない。

 すごくよくない。


 だって私はまだ、何も分かっていないのだ。

 どうして彼が私に話しかけるのか。

 どうしてあんなふうに見てくるのか。

 どうして“今は言わない”みたいなことばかり言うのか。


 分からないことだらけなのに、言葉だけが残るなんて、ずるい。


「……ほんとに、ずるい」


 枕に顔を押しつけながらつぶやくと、隣の部屋から母の声が飛んできた。


「栞ー、起きてるなら返事して!」

「起きてる!」

「じゃあ早く降りてきなさい!」


 私はようやく布団から起き上がった。


 洗面所で顔を洗って、タオルで水気を取る。

 鏡の中の自分は、少しだけぼんやりしていた。


 壊れた眼鏡は昨日の夜、父が仕事帰りに修理へ出してくれた。

 今日は予備の、いつもより少しだけ度の弱い眼鏡をかけていくことになる。

 見えないわけじゃない。でも少しだけ視界が頼りない。


 その頼りなさが、今の自分に妙に似合っていて嫌だった。


   ◇ ◇ ◇


 学校へ着くと、いつもより少しだけそわそわした空気が教室にあった。


 理由はすぐに分かった。

 今日は家庭科の実習があるのだ。


 普段ならそこまで大騒ぎすることじゃない。

 でも今回は班ごとに簡単なお菓子を作ることになっていて、女子たちは朝から「誰と同じ班?」「失敗したらどうしよう」なんて話で盛り上がっている。


 私はそういう浮ついた空気が少し苦手だ。

 嫌いではないけれど、自分がその中心に入ることはまずない。


「おはよー」

 ひまりが教室に入ってきて、私を見るなり目を細めた。

「予備眼鏡?」

「うん。ちょっと見えにくい」

「じゃあ今日はいつも以上にぼんやり栞だ」

「いつもぼんやりしてるみたいに言わないで」

「してるじゃん」

「ひどい」

「でも可愛いよ」

「急に雑な褒め方しないで」


 ひまりは笑いながら私の机の前に座った。


「で、今日の家庭科」

「うん」

「班見た?」

「まだ」

「見た方がいいよ。かなり騒がしいことになってる」

「騒がしい?」


 何だろうと思って、私は前の黒板近くに貼り出された班分け表を見た。

 人だかりの隙間から、自分の名前を探す。


 朝比奈栞

 その隣に並んでいた名前を見て、私は一瞬思考が止まった。


 一条恒星。


「……え」


 小さく声が漏れた。


 ひまりがそれを見て、肩を揺らして笑う。

「でしょ」

「でしょ、じゃない」

「いやあ、先生すごいとこ攻めるなあと思って」

「先生が決めたの?」

「出席番号とかいろいろ調整した結果っぽい」

「よりによって……」


 思わず呟くと、ひまりは私の顔を覗き込んだ。


「嫌?」

「……嫌、とかじゃなくて」

「うん」

「すごく落ち着かない」

「それは分かる」

「しかも家庭科って、班で話さないといけないよね」

「そりゃそうでしょ、お菓子作るんだから」

「無理かも」

「無理じゃないよ。ひまり先生が遠くから見守ってるから」

「同じ班じゃないじゃん」

「心で見守るの」

「いらない」


 言いながらも、本気で不安だった。


 一条くんと一緒の班。

 しかも家庭科。

 つまり否応なしに近くで話すことになるし、役割も決めるし、たぶん周りからも見られる。


 なんでこんなことに。


 でも、その“なんで”の中に、ほんの少しだけ別の感情が混じっていることを、私は認めたくなかった。


   ◇ ◇ ◇


 家庭科室に移動すると、案の定、空気は教室以上にざわついていた。


 エプロン姿の女子たちがわいわい集まっている。

 調理台ごとに班が分かれていて、私たちの班には、一条くんのほかに男子ひとりと女子ひとりがいた。どちらも同じクラスだけれど、そこまで深く話したことはない。


「よろしく」

 控えめな女子が先に言ってくれて、私は「よろしく」と返す。


 そのすぐあとで、恒星が自然に私の隣の位置へ来た。


「おはよう」

「……おはよう」

「眼鏡、違うね」

「予備なので」

「見えにくい?」

「少しだけ」

「じゃあ火とか気をつけないと」


 あまりにも自然な会話だった。

 まるで昨日までのいろいろがなかったみたいに。


 でも、そこに私は少しだけ救われた。


 昨日の続きで変に気まずくなるのも嫌だったから。

 こうして普通に話しかけられる方が、まだ呼吸がしやすい。


 ……いや、全然しやすくはないかもしれない。

 少なくとも心臓はうるさい。


 先生が前で説明を始め、今日作るのは簡単なマフィンだと告げた。

 材料を混ぜて、型に流し込んで焼くだけの、初心者向けのものらしい。


 説明を聞きながら、班で役割を分けることになる。


「じゃあ、計量する人と混ぜる人と、型に入れる人で分ける?」

 同じ班の男子が言った。

「どうする?」


 私が言うより先に、恒星がちらりと私を見た。


「朝比奈さん、細かい作業の方が得意そう」

「……え」

「計量とか」

「そうかも」

 班の女子も同意する。

「朝比奈さん、きっちりしてそうだし」


 きっちりしてそう。

 それはたぶん、今の私の見た目から来る印象だろう。

 悪い気はしない。むしろ、こういうふうに無難な役割を振られる方が落ち着く。


「……じゃあ、計量やります」

「俺、混ぜるよ」

 恒星がすぐに言う。

「型に入れるのは二人でやればいいかな」


 役割分担はあっさり決まった。


 よかった。

 これなら必要以上に話さなくて済む。

 私はそう思って、目の前の材料に集中しようとした。


 砂糖、小麦粉、ベーキングパウダー。

 分量を量って、ボウルへ入れていく。

 いつもの私なら、この手の単純な作業は落ち着けるはずだった。


「朝比奈さん」

「……はい」

「それ、薄力粉じゃなくて砂糖」

「え」


 顔を上げると、恒星が少しだけ笑っていた。

 驚いて手元を見る。ほんとうだ。私は計量カップに砂糖を入れたつもりで、薄力粉の袋を持っていた。


「……ごめんなさい」

「謝らなくていいよ」

「いや、普通に危なかったです」

「うん。でもまだ間に合う」


 さりげない言い方。

 からかうわけでもなく、責めるわけでもなく、でもちゃんと気づいている。


 私は顔が熱くなるのを感じた。

 集中できていないのがばれている。


「見えにくい?」

「……たぶん、それも少し」

「じゃあ、袋の位置こっちに寄せるね」

「え」

「その方が取りやすいでしょ」

「あ、はい……ありがとうございます」


 彼はごく自然に材料の位置を整えた。

 こういう小さな気遣いが、いちいち胸にくるから困る。


「一条くんって、家庭科もできるんだ」

 班の男子が感心したように言う。

「家でたまにやるから」

「へえ」

「失敗もするよ」

「一条くんにもあるんだ、失敗」

「あるよ。普通に」


 その“普通に”が、妙に耳に残る。


 彼はよく、“普通”や“普通じゃない”の境目をさらっと越えてくる。

 御曹司とか王子様とか、そういうラベルを自分で気にしていないように見える。

 でも周りは気にするし、私も気にしてしまう。


 その差が、いつも私を戸惑わせるのだ。


   ◇ ◇ ◇


 材料を混ぜながら、恒星が何気ない調子で言った。


「朝比奈さん、甘いお菓子好き?」

「……嫌いではないです」

「マフィンは?」

「普通、です」

「普通なんだ」

「だめですか」

「いや。好きそうだと思ってた」

「どうして」

「なんとなく」


 なんとなく。

 その言い方、最近よく聞く気がする。


 でも、ただのなんとなくではないことも、なんとなく分かってしまう。


 私はボウルに粉を入れながら、小さく聞いた。


「……一条くん、前にもそういうの言いましたよね」

「そういうの?」

「好きそうとか、知ってるみたいな言い方」

「……ああ」


 彼の手が、一瞬だけ止まった。


「気になる?」

「……少し」

「そっか」


 また、その“そっか”だ。

 すぐに答えず、いったん飲み込む癖みたいなものがある。


「朝比奈さん」

「はい」

「君、ラムレーズン苦手だったよね」


 私は完全に動きを止めた。


「……え?」

「違った?」


 違わない。


 私はラムレーズンが苦手だ。

 洋菓子の中に入っていると、風味が強すぎて少し苦手になる。

 でもそれは、学校でわざわざ話したことはないはずだった。

 ひまりと雑談で話したことはあるかもしれない。でも、一条くんがそれを知る機会なんて――


「……どうして知ってるんですか」

 思ったより低い声が出た。


 班の二人は今ちょうど型の準備をしていて、こちらの会話までは気にしていない。

 だからこそ、私は少しだけ本音に近い声を出してしまった。


 恒星はボウルを持ったまま、少しだけ目を伏せた。


「覚えてるから」

「……何を」

「昔のこと」


 心臓が、ひどく跳ねる。


 昔のこと。

 また、その言葉。


 私は彼の顔をまともに見られなくなって、視線をボウルの縁へ落とした。

 でも頭の中では、いくつかの記憶の断片がばらばらに浮かんでくる。


 庭。

 白いテーブル。

 小さな男の子。

 泣きそうな顔。

 私の手。

 お菓子の皿。


「……ラムレーズン」

 口の中で、小さく繰り返す。


 そういえば。

 何かのお菓子を勧められて、ひとくち食べて、顔をしかめたことがあった気がする。

 そのとき、隣にいた男の子が「じゃあ、こっちにする?」と別のクッキーを差し出してくれたような。

 でも、それはあまりにも曖昧で、映像の輪郭もぼやけている。


「……そんなの」

 私は言葉を探した。

「覚えてるんですか」

「うん」

「普通」

 思わず、少しきつい響きになる。

「そんな細かいこと、覚えてます?」


 自分でも変な問いだと思った。

 普通かどうかなんて、人による。

 でも、私はたぶんそこを責めたかったわけじゃない。


 どうして自分だけが忘れているのか。

 そのことが、急に悔しくなったのだ。


 恒星はすぐには答えなかった。

 その代わり、ごく小さく笑った。


「普通じゃないかも」

「……」

「でも、俺にとっては細かいことじゃなかった」


 その返事に、私は何も言えなくなった。


 俺にとっては。

 その言い方が、胸の奥をじんわり熱くする。


 重いわけじゃない。

 押しつけがましいわけでもない。

 ただ、静かにそこにある感じがして、余計に困る。


 私は視線を逸らしたまま、小さく息を吐いた。


「……全然、覚えてないです」

「うん」

「男の子と遊んだ記憶は、少しだけあるんですけど」

「うん」

「顔も、名前も、ちゃんと分からない」

「知ってる」

「知ってるって……」

「君、まだ気づいてないから」


 まだ気づいてない。


 その言い方に、私ははっとして顔を上げた。


 彼は笑っていなかった。

 からかっているわけでもない。

 ただ、少しだけ寂しそうで、でも責める気配はまったくない、そんな表情だった。


「……怒らないんですか」

 気づけば、そんなことを聞いていた。


 恒星が目を瞬く。

「何に?」

「私が覚えてないこと」

「怒らないよ」

「でも、ずっと覚えてるのは一条くんだけで」

「うん」

「私だけが何も分かってないのに」


 言っていて、急に居心地が悪くなる。

 こんなふうに言うのは、何だか自分が被害者みたいで嫌だった。


 でも恒星は、やっぱり怒らなかった。

 むしろ、少しだけ困ったように眉を下げる。


「覚えていてほしかった気持ちはある」

「……」

「でも、それで君を責めたいわけじゃない」

「……」

「思い出したら嬉しい。思い出さなくても、今の君がここにいるなら、それだけでも嬉しい」


 私は思わず手元を見た。

 見ないと、この顔を保てない気がしたから。


 今の君がここにいるなら。


 そんなの、ずるい。

 昔の記憶があるから優しいんじゃなくて、今の私にもちゃんと意味を持たせるようなことを言うなんて。


 優しすぎて、ほんとうに困る。


   ◇ ◇ ◇


「ねえ、一条くん、その生地ちょっと混ぜすぎじゃない?」

 同じ班の女子の声で、私は現実に引き戻された。


 見ると、恒星がボウルを持ったまま、珍しく少しだけ手を止めていた。

 いや、止めていたというより、考え込んでいたのかもしれない。


「あ」

 彼が我に返る。

「ごめん」

「珍しい」

 男子が笑った。

「さっきからちょっとぼーっとしてない?」

「そうかも」

「何考えてたの?」

「内緒」


 そう言って笑う横顔は、さっきまでの会話を隠すみたいだった。


 私は胸の中がざわつくのを抑えながら、型に生地を流し込む作業を手伝った。

 予備眼鏡のせいで少し見えにくいけれど、手元に集中していれば何とかなる。


 でも頭の方は、全然何とかなっていなかった。


 彼だけが覚えている。

 私はほとんど覚えていない。

 それなのに彼は怒らなくて、責めなくて、今の私を見ていると言う。


 それが嬉しいのか、苦しいのか、自分でも整理できない。


 マフィンをオーブンに入れて焼き上がりを待つあいだ、班で少し雑談になった。


「朝比奈さんって、家で料理する?」

 班の女子に聞かれて、私は首を横に振る。

「少しだけです」

「でもなんか、丁寧そう」

「そうかな」

「分かる。包丁とかまっすぐ使えそう」

 男子も笑う。

「見た目の印象でしかないけど」

「失礼じゃない?」

「褒めてるつもりなんだけど」

「まあ、でも朝比奈さん、きっちりしてるよね」

 恒星が何気なく言った。


 私は少しだけ肩が跳ねる。

 彼がこういう何気ない会話の中に入ってくると、妙にそのひと言だけが残る。


「……きっちりしてるというか」

 私は小さく言った。

「そう見えるようにしてるだけかもしれません」

「どういうこと?」

 班の女子が首を傾げた。


 しまった、と思った。

 別に深い意味を話したかったわけじゃないのに、つい本音が滑った。


「いや、その」

「そう見えるように?」

「朝比奈さん、案外ミステリアス?」

 男子が面白がるみたいに言う。


 私は返事に困ってしまう。


 そのとき、恒星がさらっと割って入った。

「朝比奈さん、真面目だけどたまに抜けるよ」

「え」

「さっきも砂糖と薄力粉、逆だった」

「ちょっと」

「事実でしょ」

「そうですけど」

「でも、そのくらいの方が安心する」

「何でですか」

「完璧じゃないって分かるから」

「一条くん、人のこと言えないじゃん」

 班の女子が笑う。

「さっき生地混ぜすぎてたし」

「それは確かに」

 男子も乗る。


 空気がふっとゆるむ。

 私はその流れに救われた。


 たぶん彼は、さっき私が変なことを言いかけたのを感じ取って、わざと話を軽くしたのだ。

 そういうところが、ほんとうに。


「……ずるい」

 ぼそっと漏れると、隣にいた恒星だけが聞き取ったらしい。

「何が?」

「……別に」

「また別にって言った」

「一条くん」

「ごめん」


 謝っているのに、少しだけ楽しそうだ。

 そのことが、少しだけ悔しくて、でも前ほど嫌ではなかった。


   ◇ ◇ ◇


 焼き上がったマフィンは、思ったよりきれいに膨らんだ。


 班のみんなでひとつずつ味見することになり、私は紙カップからそっと外して、ひとくち食べる。


 甘い。

 普通においしい。


「成功じゃない?」

「うん、ちゃんとできてる」

「一条くん混ぜ方危なかったけどね」

「言わないで」

「言うよ」


 班の雰囲気が思ったより和やかで、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 ずっと張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ緩む。


 そのとき、恒星が私の手元を見て言った。


「やっぱり、甘いもの食べてるときの方が少し柔らかい」

「……何の観察ですか」

「観察っていうか」

「何ですか」

「見てるだけ」


 またそういうことを言う。


 私は言い返そうとして、結局うまく言葉が出なかった。

 だって、その通りだから。


 この人はたぶん、私のことを見ている。

 びっくりするくらい、細かいところまで。


 ラムレーズンが苦手なことまで覚えているくらいに。


 でも私は、まだ、彼のことをそこまで知らない。

 知っていると思っていたのは、学校中の憧れの的で、財閥の御曹司で、誰にでも優しくて、でも少し距離のある“学校の王子様”としての顔だけだ。


 それ以外の部分――不器用さとか、余裕がないときの顔とか、昔を大事に持っているところとか――そういうものを、私は少しずつ知り始めている。


 そのことが、怖くて、でも少し嬉しい。


   ◇ ◇ ◇


 授業が終わって家庭科室を出るころには、私は朝よりずっと疲れていた。


 肉体的というより、心が。


 教室へ戻る廊下で、恒星が自然と私の隣を歩く。

 もう前ほど、そこで極端に距離を取ることはしなくなっていた。

 もちろん緊張はする。

 でも、その緊張の種類が少しずつ変わっている気がする。


「今日は」

 恒星が小さく言った。

「少しだけ話せたね」

「……家庭科だから」

「それでも」

「……」

「嬉しかった」


 またそれだ。

 嬉しかった、よかった、そういう言葉を、どうしてそんなに素直に言えるんだろう。


 私は視線を前に向けたまま、小さく息をついた。


「……私、全然覚えてないのに」

「うん」

「一条くんばっかり、覚えてて」

「うん」

「ずるくないですか」

「そうかも」

「否定しないんですね」

「でも、俺だって」

 恒星は少しだけ考えるように言葉を選んだ。

「今の君のこと、まだ全部は知らないよ」

「……」

「だから、少しずつ知れたらいいなと思ってる」


 私は何も言えなかった。


 それはきっと、昔の記憶だけに頼っているわけじゃない、という意味なのだろう。

 思い出があるから近づくけれど、今の私もちゃんと見たいと、そう言われている気がした。


 そんなの、もう。


 どこまで優しいんだろう。


 教室の前で別れるとき、私は迷って、迷って、それでも小さく言った。


「……マフィン、おいしかったです」

「うん」

「一条くんが混ぜたのも、たぶん大丈夫でした」

「たぶん?」

「ちょっとだけ混ぜすぎでしたけど」

「そこは厳しいんだ」

「事実なので」

「そっか」


 彼は笑った。

 その笑い方が、少しだけ嬉しそうで、少しだけ安堵したみたいで。


 私はまた、胸の奥がやわらかくなるのを感じてしまう。


 昔のことを覚えているのは、私じゃなかった。

 それは悔しいし、申し訳ないし、少しだけずるい。


 でも、その記憶を握っている彼が、私を責めないこと。

 今の私まで見ようとしてくれること。


 そのことが、今日の私には思っていた以上に沁みていた。


 だからたぶん。

 家庭科室を出てからずっと、私は同じことを考えていたのだ。


 ――もし、少しずつでも思い出せたら。

 もし、彼だけが持っている過去の中に、私もちゃんと戻れたら。


 そのとき私は、今よりもう少し、彼の隣にいてもいいと思えるんだろうか。


 そんなことを考えてしまった自分に、私は誰にも聞こえないくらい小さなため息をついた。

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