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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 御上常陸介寛浩


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第6話 眼鏡の奥に隠しているもの

 その日の朝、私はいつもより少しだけ早く鏡の前に立っていた。


 立っていた、というより、動けなくなっていた、の方が近いかもしれない。


 黒縁眼鏡をかける前の自分の顔を、じっと見てしまったのだ。


 洗面所の白い光の下で見る自分の顔は、好きでも嫌いでもない。

 少なくとも、普段はそう思っている。

 目が少し大きいとか、肌がわりと白いとか、髪がちゃんと下ろすと変に目立つとか、そういうのは知っている。知っているけれど、それを“いいこと”として受け取らないようにしてきた。


 小学生のころ、一度だけ、近所のおばさんに「栞ちゃん、ちゃんとしたらかわいいのにねえ」と言われたことがある。


 ちゃんとしたら。

 その言い方が、子どもながらに妙に引っかかった。


 今の私は、ちゃんとしていないのだろうか。

 そのままじゃ足りないのだろうか。


 それ以来というわけでもないけれど、私は“見られること”が少し苦手になった。

 中学に入ってからは、髪をきっちりまとめて、眼鏡をかけて、目立たない服装と目立たない表情を選ぶようになった。

 そうすれば、勝手に何かを期待されることも、勝手に品定めされることも減るから。


 鏡の中の私は、眼鏡をまだかけていない。

 それだけで、なんだか落ち着かない。


「……何してるの」


 自分で自分に言って、私は慌てて眼鏡をかけた。


 黒縁が視界の端に収まる。

 それだけで少しだけ安心する。

 いつもの私に戻った気がする。


「栞ー、遅れるわよ」

 母の声が飛んできて、私は「今行く」と返事をした。


 今日は、何事もなく終わってほしい。

 心からそう思う。


 でも最近の私は、そう願うたびに、その願いが外れる予感までセットで抱くようになっていた。


   ◇ ◇ ◇


 教室に入ると、昨日までの空気がまだ残っていた。


 あからさまに見られるわけではない。

 けれど、私が教室のドアを開けた瞬間に、何人かの視線がこちらへ流れてきて、すぐに離れていく。それだけで充分だった。


 ああ、まだ終わっていない。

 むしろ始まったばかりなのかもしれない。


「おはよ」

 ひまりがやってきて、私の顔を見るなり眉をひそめた。

「どうしたの、その“今日も世界終わってます”みたいな顔」

「そんな顔してる?」

「してる。かなり」

「……ちょっと寝不足」

「また考えてたんだ」

「何を」

「分かりきってることをわざわざ聞かせるのやめてくれる?」


 私がそう言うと、ひまりは「はいはい」と肩をすくめて私の前の席に座った。


「でも今日はちょっとましじゃない?」

「何が」

「教室の空気。昨日みたいに露骨なのは減ってる」

「……そうかな」

「うん。みんな飽きるのも早いし」

「人の人生を流行りものみたいに言わないで」

「ごめんごめん。でもほんとにそういうとこあるから」


 ひまりは明るく言うけれど、私はそこまで楽観的にはなれなかった。

 今はたまたま静かなだけで、何かひとつきっかけがあれば、またすぐざわつく気がする。


 その“きっかけ”が誰なのか、言うまでもない。


 私は無意識に教室の入口へ視線を向けそうになって、慌てて前を向いた。


 もうだめだ。

 こんなふうに、来るかもしれないと思って気にしている時点で、私の平常心はかなり壊れている。


「栞」

 ひまりが急に真面目な声を出した。

「何」

「来るかどうか気にしてる?」

「……してない」

「嘘」

「してないって」

「その否定の速さがもう答えなんだよなあ」

「ひまり」

「分かってる分かってる。からかわない」


 からかわない、と言いつつ、口元はちょっと笑っている。

 でもその笑いには悪意がないから、私は強く言い返せない。


 結局、一時間目が始まるまで、一条くんは教室に来なかった。


 少しだけほっとして。

 少しだけ、拍子抜けしている自分がいた。


 自分でも呆れる。


   ◇ ◇ ◇


 三時間目のあと、保健委員の子に頼まれて、私はプリントを職員室へ届けに行くことになった。


 本来なら別の子の担当だったらしいけれど、「朝比奈さん、ついでにお願いしてもいい?」と言われて断れなかったのだ。

 断れない性格はこういうとき損だと思う。


 でも、教室を出られるのは少しありがたかった。

 最近の私は、教室の中にいるだけでずっと微妙に肩に力が入っている。


 職員室へ向かう廊下は、昼前の光で白っぽく明るかった。

 窓の外では体育の授業らしい声が聞こえる。

 このくらいの人の少なさが、今の私にはちょうどいい。


 職員室で用事を済ませて、教室へ戻る途中だった。


 曲がり角の向こうから、数人の女子の笑い声が聞こえてきた。

 私は足を緩めたわけではなかったけれど、その会話の断片が嫌でも耳に入ってしまった。


「でもさ、眼鏡外したら案外普通にかわいいのかもよ?」

「えー、どうだろ」

「地味な子ってそういうのあるじゃん」

「でも一条くんがわざわざって、何かあるのかなあ」


 足が止まる。


 また、その話。


 眼鏡を外したら。

 地味な子ってそういうのある。


 何の気なしの会話なのかもしれない。

 私のことだと断定できる言葉じゃないのかもしれない。

 でも、分かる。

 分かってしまう。


 私は息を浅くして、その場をやり過ごそうとした。


 そのとき、反対側から来た男子生徒と肩がぶつかった。


「あ、ごめ……」

 反射で謝ろうとした瞬間、衝撃で眼鏡がずれた。


 あ、と思ったときには遅かった。


 黒縁眼鏡が、廊下の床に落ちて、乾いた音を立てた。


 レンズの片方が、外れて転がる。


 心臓が一気に冷える。


「えっ、ご、ごめん!」

 ぶつかった男子生徒が慌ててかがみ込む。

 でも私はその手より早く、床に落ちたフレームを拾おうとした。


 拾う。

 隠す。

 早く。


 その一心だった。


 でも、レンズのない眼鏡を持ち上げたところで、廊下の向こうから聞こえてきた女子たちの声がぴたりと止まったのが分かった。


 見られた。


 今の顔を。

 眼鏡のない顔を。


 私は咄嗟に俯いて、片手で前髪を引き寄せる。

 視界がぼやけていてよく見えない。

 でも、見られていることだけは分かる。


「朝比奈さん?」

 その中のひとりが、驚いたように言った。


 やめて。

 名前を呼ばないで。

 これ以上、私をここに留めないで。


「ちょっと、大丈夫?」

「眼鏡……」

「え、待って、顔――」


 そのとき。


「何してるの」


 低く、でもはっきりした声が廊下に響いた。


 空気が変わる。

 その声は、今の私がいちばん聞きたくなくて、でもいちばん聞けば分かる声だった。


 一条恒星。


 私は固まった。

 最悪だと思った。


 こんな場面を、どうしてよりによってこの人に見られるの。


 女子たちが一斉に振り返る気配がする。

 私は顔を上げられない。

 俯いたまま、壊れた眼鏡のフレームを握りしめる。


「ぶつかっちゃって……」

 さっきの男子生徒が慌てて説明する。

「ごめん、一条。いや、朝比奈さんに……」

「怪我は?」

 恒星の声は、説明より先にそこへ向いた。


 私は小さく首を振る。

「……してません」

「見せて」

「え」

「手」


 言われて初めて気づいた。

 レンズの縁で、指先を少し切っていたらしい。

 小さく血がにじんでいる。


 ほんの少しだ。

 こんなのたいしたことない。


「大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

「でも」

「朝比奈さん」


 その呼び方が少しだけ強くて、私は反論を飲み込んだ。


 次の瞬間、恒星が私の手首にそっと触れた。


 強くない。

 逃げられるくらいにはやわらかい。

 でも、確かに止められた。


 私は息を呑んだ。


「保健室行こう」

「……え」

「眼鏡も今のままじゃ危ない」

「でも授業」

「今から休み時間だし、先生には俺が言う」

「そんな」

「いいから」


 いいから、の言い方が、いつもより少しだけ余裕がなかった。


 そのことに、私は別の意味で動けなくなる。


 この人、焦ってる。

 たぶん私のせいで。


 それが申し訳なくて、でも少しだけ胸が熱くなる。


「……自分で行けます」

 どうにかそう言うと、恒星は一瞬だけ黙った。

 それから、少しだけ力を抜くみたいに息を吐く。


「分かった」

「……」

「じゃあ一緒に行く」

「それ、分かってないです」

「分かってるよ」

「分かってない」

「でも、今の君をひとりで歩かせたくない」


 俯いていた顔を、思わず上げた。


 視界は少しぼやけている。

 でも、恒星の表情は分かった。


 驚くほど真剣だった。

 周りの目も、噂も、今この瞬間だけは全部どうでもいいと言わんばかりに。


 それが、苦しい。


 優しいから。

 あまりにも、まっすぐで。


 私は何も言えなくなって、結局、小さくうなずくしかなかった。


   ◇ ◇ ◇


 保健室までの廊下は、いつもよりずっと長く感じた。


 恒星は私の半歩前を歩くでもなく、完全に横に並ぶでもなく、少しだけ前に出て、でも置いていかない距離を保っている。

 その微妙な位置取りが、やけに自然だった。


「……ほんとに、大丈夫なのに」

 小さく言うと、彼は前を向いたまま返した。


「大丈夫じゃないとき、君はそう言うでしょ」

「そんなこと」

「あるよ」


 即答された。


 私は言い返せなくなる。

 だって、そうかもしれないから。


 自分で何とかできる範囲でも、私は“平気です”と言ってしまう。

 助けを借りるのが下手で、迷惑をかけるくらいなら黙っていた方がいいと思ってしまう。


 でも、この人はそれを見抜く。


「……見ないでください」

 思わずこぼした言葉に、恒星が少しだけ首を傾けた。

「何を?」

「その……今の顔」

「どの顔」

「……眼鏡ない顔」


 言った途端、耳まで熱くなる。

 自意識過剰だと思われるかもしれない。

 でも、今の私は本当にそのことしか考えられなかった。


 眼鏡のない顔は、私にとって“見せない自分”だ。

 見られたくない自分、というより、見られたあとに何か言われるのが嫌な自分。


 恒星は少しだけ黙って、それからごく静かに言った。


「隠さなくていいのに」


 私は足を止めそうになった。


 その言葉は優しい。

 優しいけど、あまりにも簡単に言う。


「……簡単に言わないでください」

 気づけば、少しきつい声になっていた。


 恒星が立ち止まる。

 私もつられて止まった。


「ごめん」

「……」

「簡単じゃないって、分かってるつもりだった」


 その“つもりだった”が、逆につらい。

 分かってくれていないと言いたいわけじゃない。

 でも、分かるはずがないとも思う。


「見られるの、好きじゃないんです」

 私は視線を床に落としたまま言った。

「勝手に何か言われるのも」

「うん」

「別に、それで何か得したことなんてないし」

「……」

「だから、今のままでいいんです」


 最後の言葉は、自分に言い聞かせるみたいになった。


 今のままでいい。

 地味で、目立たなくて、眼鏡をかけて、静かにしていればいい。

 そうしていれば傷つかずに済む。


 少なくとも、そう信じてきた。


 恒星は何も言わなかった。

 すぐに慰めたり、否定したりしない。


 その沈黙が少しだけありがたくて、少しだけ怖い。


 やがて彼は、ほんの少しだけやわらかい声で言った。


「今のままでもいいと思う」

「……」

「でも、隠さなきゃ安心できないのは、嫌だ」


 私は息を止めた。


 どうしてそんなところまで言うんだろう。

 どうしてそんなところまで見ようとするんだろう。


 そこは、私が自分でもあまり触れたくない部分なのに。


「……困ります」

 やっとそれだけ言うと、恒星は少しだけ苦笑した。

「うん。知ってる」


 知っているのに、やめない。

 だからずるい。


 保健室の扉が見えてきて、私はようやく小さく息をついた。


   ◇ ◇ ◇


 幸い、保健室には誰もいなかった。


 先生が傷を消毒してくれて、「浅いからすぐ治るわよ」と笑う。

 それだけのことなのに、私はずっとそわそわしていた。


 恒星が、当然みたいに保健室の外で待っているからだ。


「彼氏?」

 先生が軽い調子で聞いてきて、私は危うく椅子から落ちそうになった。


「ち、違います!」

「あらそう?」

「違います」

「でも心配そうだったわよ」

「それは……」

「優しい子ね」

「……」


 優しい。


 それは否定できない。

 否定できないから、余計に困る。


 処置が終わって、応急の簡易眼鏡みたいなものを貸してもらったけれど、度はほとんど合っていないらしく、視界はぼんやりしたままだった。


 扉を開けると、廊下の壁にもたれていた恒星が顔を上げた。


「終わった?」

「……はい」

「傷は?」

「大したことないです」

「そっか」


 そこで彼は、私の顔を見てほんの少しだけ目を細めた。


 その目が、さっき廊下で女子たちに見られたときのものとは違っていた。

 好奇心でも、驚きでもなく、ただ静かに見ている目。


 私はその視線が耐えられなくて、思わず顔を逸らした。


「……何ですか」

「いや」

 恒星は少しだけ笑う。

「やっぱり、君は君だなって思って」


 私は固まった。


 やっぱり、君は君だ。


 その言い方が、あまりにも引っかかった。


 “やっぱり”。

 まるで、前から知っているみたいな。


「……どういう意味ですか」

 問い返すと、恒星は一瞬だけ黙った。


 ほんの一瞬。

 でも、その沈黙の中に、言ってはいけないことを飲み込んだ気配があった。


「そのままの意味」

「分かりません」

「今は、それでいい」


 また、それだ。


 今は、それでいい。

 今は、言わない。

 まだ、知らなくていい。


 彼はいつも、少しだけ先を知っていて、少しだけ手前で止まる。


 その距離感がもどかしい。

 でも同時に、ほっとしている自分もいる。

 全部を一気に突きつけられたら、たぶん私は逃げるから。


「眼鏡、直るまでどうするの」

 恒星が話題を変えるみたいに聞いた。

「予備が家にあるので……今日はこれで」

「送ろうか」

「いりません」

「即答」

「今日はほんとに無理です」

「分かった」


 そう言って、彼は素直に引いた。

 でも去るわけではなく、少しだけ私の横へ並ぶ。


「じゃあ、教室までは」

「……それくらいなら」

「うん」


 並んで歩く廊下は、行きよりも静かだった。


 視界がぼやけているせいか、余計に隣の存在ばかり意識してしまう。

 足音のリズム。

 制服がこすれる音。

 ふとした沈黙。


 その全部が、落ち着かない。


「……さっきの」

 私が小さく言うと、恒星がこちらを見た。

「何?」

「隠さなくていいっていうの」

「うん」

「そういうの、簡単に言われると困るって、ほんとに思ってます」

「うん」

「でも」

「でも?」


 私は言うか迷った。

 迷ったけれど、さっき保健室の先生にまで変なことを言われたせいで、少しだけ変な勢いがついていたのかもしれない。


「……その」

「うん」

「変に、褒めたりしなかったのは……ありがたかったです」


 言い終わった瞬間、消えたくなった。


 何を言ってるんだろう私は。

 こんなの、ほとんど“さっきは助かった”と認めているみたいなものじゃないか。


 でも恒星は、からかったりしなかった。

 むしろ少しだけ驚いたように目を見開いて、それからやわらかく笑った。


「そっか」

「……」

「それならよかった」


 また、よかった。


 この人はどうして、私の小さな言葉でそんなに嬉しそうな顔をするんだろう。


 教室の前に着くと、恒星はそれ以上ついてこなかった。


「じゃあ、また」

「……はい」


 私はそれだけ言って教室の扉に手をかけた。

 でも、開ける直前に、後ろから小さな声が聞こえた。


「朝比奈さん」


 振り向く。


 恒星は少しだけ迷った顔をしていた。

 そして、ほんの少しだけ苦く笑う。


「見つけた宝物みたいな顔してたって、さっき桐生に言われた」

「……え?」

「否定できなかった」

「……何の話ですか」

「こっちの話」


 そう言って彼は去っていった。


 私はしばらくその場で固まる。


 意味が分からない。

 分からないのに、胸の奥だけがやけに熱い。


 見つけた宝物みたいな顔。


 そんなふうに見られていたのだとしたら。

 そんなふうに、私を見ていたのだとしたら。


 それは困る。

 ほんとうに困る。


 でも、その言葉を完全に嫌だと思えなかった自分のことが、もっと困った。

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