第5話 優しさは、時々ひどく残酷だ
月曜日というものは、だいたい憂鬱だ。
けれどその日の私は、曜日とは別の理由で学校へ行きたくなかった。
制服に袖を通して、髪を結んで、黒縁眼鏡をかける。
いつも通りの自分を鏡の中に作るたびに、これで本当に大丈夫なんだろうかと思う。
地味で、目立たなくて、静かで、波風を立てない朝比奈栞。
本来なら私は、そういう人間のはずだった。
でも昨日までの数日で、その薄い膜みたいな平穏は、もうだいぶ破れてしまっている。
一条恒星に話しかけられたこと。
一緒に帰ったこと。
校内で噂になっていること。
九条麗華に、残酷だと言われたこと。
そのどれもが、朝の空気みたいに私の周りにまとわりついて、息苦しい。
「栞、今日お弁当忘れないでよ」
母の声が台所から飛んできた。
「……持った」
「返事が暗い」
「普通だよ」
リビングから父が即座に突っ込む。
「その普通は信用ならん」
「最近そればっかり」
「だって分かりやすいんだよ、おまえ」
「分かりやすくなんてない」
「分かりやすいって。小さいころなんか、嫌なことあると靴下の色まで地味になってたぞ」
「そんなので判断しないで」
言い返しながら、私は鞄を肩に掛けた。
家の中ではこうして普通に返せるのに、学校へ行って、教室の空気の中に入った途端、どうして私はあんなに不器用になるんだろう。
靴を履いて玄関を出る。
朝の空気はまだ少し冷たくて、息を吸うと胸の奥がきゅっとした。
今日は、できれば何も起こりませんように。
そんな子どもみたいな願いを胸の中でつぶやきながら、私は駅へ向かった。
◇ ◇ ◇
でも、現実はそう甘くなかった。
教室に入って三分で、私はそれを思い知ることになる。
「おはよう」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子三人組だった。
去年から同じ学校ではあったけれど、親しいわけではない。話せば感じは悪くない、でもわざわざ自分から近づくほどでもない、そういう距離の人たち。
そのうちのひとり、ふわふわ巻いた髪の女子が、妙ににこやかな顔で私の机のそばに来た。
「朝比奈さんって、一条くんと仲よかったんだね?」
「……え」
「全然知らなかった」
「ねー、びっくりしたよね」
別の子が、少しだけ笑いを混ぜた声で言う。
「ずっと静かな子って感じだったから、そういうの興味ないのかと思ってた」
そういうの。
その曖昧な言い方の中に何が入っているのか、分からないほど鈍くはない。
私は鞄を机に置いたまま、少しだけ指先を握った。
「仲がいい、というわけでは」
「でもこの前、一緒に帰ってたよね?」
「見た見た」
「図書室でも話してるの見たよ」
逃げ道がない。
別に責め立てられているわけじゃない。
口調は明るいし、笑ってもいる。
だからこそきつい。
悪意がないふりをした好奇心ほど、扱いに困るものはない。
「……たまたま、用事があって」
私がそう言うと、三人は一瞬だけ顔を見合わせた。
その“分かりやすいごまかし”を受け取った顔だった。
「へえ、そうなんだ」
「意外だよねえ」
「でも、朝比奈さんって眼鏡外したらかわいい系だったりするのかな」
最後のひと言に、私ははっとして顔を上げた。
それを言った子は、冗談みたいな笑い方をしている。
でもその目は笑っていなかった。
人の見えないところを勝手に想像して、面白がっている目だった。
「別に、そういうのじゃないよ」
思ったより少し強い声が出た。
三人とも、わずかに目を見開く。
「あ、ごめん」
さっきの子が肩をすくめた。
「そんな怒るつもりじゃなかったんだけど」
「怒ってないです」
「うん、でもなんか……」
別の子が気まずそうに笑う。
「ちょっとぴりっとしたから」
その言い方に、自分が急に教室の中で浮き上がった気がした。
違う。
怒りたかったわけじゃない。
ただ、そこだけはなんとなく踏み込まれたくなかっただけで。
でも、こういう説明のしづらい反応ほど、周囲には“感じ悪い”として残る。
「おはよー栞!」
そこへ、ひまりが明るい声で割り込んできた。
彼女は私の机の横へするっと入り込んで、三人を見回す。
「何の話?」
「別にー」
巻き髪の子がにこっと笑う。
「朝比奈さん、最近有名人だねって話」
「へえ、そうなんだ」
ひまりは同じくらいにこっと笑った。
「でも栞、朝からあんまり人に囲まれるの得意じゃないから、質問大会はまた今度にしてあげて」
「……別に質問大会ってほどじゃ」
「うんうん、分かるよ。ちょっと気になっただけだよね」
ひまりの笑顔は崩れない。
「でも、ちょっとが三人分重なると結構しんどいからさ」
空気が、ほんの少しだけ張った。
三人組は気まずそうに「あはは」と笑って、それ以上は何も言わず、自分たちの席へ戻っていった。
私はようやく息をつく。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ひまりは私の机に片手をついて、少しだけ顔を覗き込んだ。
「朝から災難だったね」
「うん」
「まだ序の口っぽいのが嫌だなあ」
「そんなこと言わないで」
「言いたくもなるでしょ。あれ、完全に“感じよく探る”やつだもん」
「……」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも」
そう正直に言うと、ひまりは少しだけ眉を下げた。
「だよね」
「私、変な言い方した」
「したね」
「……」
「でも、踏み込まれたくないことに踏み込まれたら、人って多少変になるもん」
「ひまり、慰めてるのか刺してるのか分かんない」
「両方」
いつもの調子でそう言われて、少しだけ救われる。
でも、本当につらいのはここからだった。
◇ ◇ ◇
二時間目の休み時間。
廊下へ出たところで、すれ違いざまに聞こえた声があった。
「え、でもあの子って、そういうタイプに見えないよね」
「逆にそういう子の方がやるんじゃない?」
「でも一条くんって、もっと華やかな子が好きそうじゃない?」
私のことだ、とすぐ分かった。
振り向かなくても分かる。
わざと聞こえるように言っているわけじゃない。でも、別に聞こえて困るとも思っていない、そういう声だった。
私はそのまま足を止めずに、トイレの鏡の前まで歩いた。
眼鏡の位置を直す。
意味もなく前髪を整える。
そんなことをしても何も変わらないのに、何かしていないと落ち着かなかった。
そういうタイプに見えない。
それはつまり、私みたいな地味な人間が、誰かの特別になるなんて似合わない、という意味だろう。
私自身がずっとそう思ってきたことを、他人の口から聞かされているだけなのに、どうしてこんなに痛いんだろう。
たぶん、自分で思うのと、人に言われるのとでは、全然違うからだ。
しかも私は、その言葉を完全に否定できない。
華やかな子が好きそう。
その通りだと思う。
一条くんの隣には、九条さんみたいな人の方がずっと似合う。
きれいで、堂々としていて、同じような世界の空気を知っている人。
私じゃない。
「……何やってるんだろ」
思わず小さくつぶやいたとき、個室から出てきた別のクラスの女子と鏡越しに目が合った。
私は慌てて口をつぐみ、何でもない顔をしてその場を離れた。
◇ ◇ ◇
三時間目が終わったあと、机に戻ると、ひまりが私の席の横に立っていた。
「はい」
差し出されたのは、小さな紙パックのミルクティーだった。
「……何これ」
「癒やし」
「雑」
「甘いもの飲むとちょっとは人間に戻れるでしょ」
「私さっきまで何だったの」
「打たれ弱い小動物」
「ひどい」
「可愛いって意味だよ」
ひまりは私の反応を待たず、自分の席へ戻っていく。
私はその背中を見ながら、小さく笑ってしまった。
ほんの少しだけ、胸の苦しさが和らぐ。
でも、昼休みが近づくにつれて、また別の意味で落ち着かなくなった。
一条くんは、今日はどうするんだろう。
昨日は「挨拶だけにする」と言っていた。
今日もそうなのか。
それとも、何か話しかけてくるのか。
来てほしくない。
でも、来なかったらたぶん少し寂しい。
こんなふうに思っている時点で、本当に面倒くさいと思う。
自分で自分に呆れていると、チャイムが鳴って昼休みになった。
私はひまりと一緒にお弁当を広げようとして――教室の入口のざわめきで手を止めた。
来た。
その気配だけで分かるようになってしまった自分が嫌だ。
私はおそるおそる顔を上げる。
一条恒星が、教室の入口に立っていた。
何人かの女子がもう嬉しそうにそわそわしている。
たぶん、彼が誰に話しかけるのかを見たくてたまらないのだ。
そして彼は、まっすぐ私を見た。
心臓が、ひどく跳ねる。
彼はすぐには近づいてこなかった。
周囲を一度見て、それから昨日よりもさらに慎重に距離を測るみたいに歩いてくる。
その様子だけで、彼もまたこの状況を分かっているのだと伝わってきた。
「朝比奈さん」
穏やかな声だった。
「少しだけいいかな」
断った方がいい。
絶対、その方がいい。
そう思うのに、私は昨日までのように即座に逃げる言葉を出せなかった。
「……何でしょう」
「今日の放課後、図書室あるよね」
「はい」
「終わるころ、少し待っててもいい?」
「……え」
教室のあちこちで、息を呑む気配がする。
やめて。
人前でそういうことを言わないで。
昨日も言ったのに。
でも彼は、そのざわめきごと受け止めるみたいな静かな顔をしていた。
「話したいことがあるんだ」
「……ここで、じゃだめですか」
「ここだと君が嫌そうだから」
「……」
「だから、終わるまで待つ」
優しい。
優しいけど、その優しさが今は苦しい。
ここでみんなの前で踏み込まないこと。
私の嫌がりそうなことを先回りすること。
そういう一つ一つが、全部“私だけに向けられている”みたいに見えてしまう。
見えてしまうから、余計に周りの視線が痛い。
「……待たなくていいです」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも冷たくなった。
恒星の目がわずかに揺れる。
「朝比奈さん」
「その……」
何を言えばいいのか、自分でも分からない。
「そうやってされると、余計に変に見えるので」
言った瞬間、ひまりが小さく息を呑むのが分かった。
ああ、まただ。
また私は言い方を間違えた。
恒星は一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬だけ。
でもその沈黙が、教室の中ではひどく長く感じた。
「……そっか」
彼は静かに言った。
「ごめん」
それだけ言って、ほんとうにそれだけで引いた。
責めない。
困った顔もあまり見せない。
ただ、少しだけ笑みの温度が下がったように見えた。
「じゃあ、やめる」
「……」
「昼休みの邪魔してごめん」
そう言って去っていく背中を、私は止められなかった。
止められるわけがない。
自分で断ったのだから。
でも、教室の中に残った空気は最悪だった。
「えっ、今の断ったの?」
「すご……」
「一条くん、あんな顔するんだ」
聞こえる。
全部聞こえる。
ひまりが無言で私の方に身を寄せた。
私はお弁当箱を開けたまま、しばらく動けなかった。
◇ ◇ ◇
「……栞」
ひまりがそっと呼ぶ。
「うん」
「大丈夫じゃないよね」
「うん」
「ごはん食べられる?」
「分かんない」
正直に言うと、ひまりは少しだけ机に肘をついて、こめかみを押さえた。
「もうさあ」
「……」
「なんで好きな子に優しくされると、こんなにしんどいんだろうね」
「好きとかじゃない」
「今そこ否定する元気ある?」
「……ない」
「だよね」
お弁当の中の白いごはんが、今日はやけに遠く見える。
箸を持つ指先に力が入らない。
私はさっきの恒星の顔を思い出していた。
あからさまに傷ついた顔ではなかった。
でも、少しだけ。
本当に少しだけ、気持ちの置き場所をなくしたみたいな、そんな表情に見えた。
私がそう見たいだけかもしれない。
でも、そう見えてしまった。
「……私」
「うん」
「嫌だったわけじゃない」
「うん」
「ほんとは、待ってるって言われて、ちょっと……」
「嬉しかった?」
「……」
「嬉しかったんでしょ」
「……うん」
認めた瞬間、涙が出そうになって慌てて俯いた。
嬉しかった。
それは事実だ。
誰かが自分のために待つと言ってくれること。
しかもあの一条くんが、私と話したいから、と。
そんなことが嬉しくないわけがない。
でも、嬉しいからこそ怖い。
その気持ちを認めたら、自分の中の“私なんて”ではもう整理できなくなる。
「優しくされるほど、苦しくなる」
思わず、ぽつりとこぼした。
ひまりが黙る。
「だって」
私は視線をお弁当に落としたまま言った。
「こんなの、どう考えても私には過ぎるって分かるから」
「……栞」
「もし本気じゃなかったら、私だけ勝手に期待して痛いし」
「うん」
「もし本気だったとしても、もっと困る」
「なんで」
「だって、私、どうしたらいいか分かんないもん」
言っていて、自分が情けなくなる。
高校二年生にもなって、こんなに自分の気持ち一つ扱えないなんて。
でも、ひまりは笑わなかった。
「そっか」
「……」
「それ、しんどいね」
「うん」
「でもさ、栞」
「何」
「それだけ苦しいのに、完全に嫌じゃないんでしょ」
「……うん」
「じゃあもう、相手が悪いよ」
「何それ」
「優しすぎるのが悪い」
「雑すぎない?」
「でも実際そうじゃん。あんなふうにちゃんと気遣われたら、揺れるに決まってるでしょ」
その言葉に、少しだけ笑ってしまう。
ひまりは私が笑ったのを見て、ほっとしたように眉を緩めた。
「泣くならトイレ行く?」
「泣かない」
「ほんと?」
「……ちょっと危なかったけど」
「危なかったんじゃん」
いつもみたいな軽口が、今日はやけにありがたかった。
◇ ◇ ◇
放課後、図書室に向かう足取りは重かった。
恒星は「待たない」と言った。
だからたぶん今日は来ない。
来ないはずだ。
それでいい。
それでいいのに。
廊下を歩きながら、私は何度もさっきのやり取りを思い出してしまう。
『待っててもいい?』
『待たなくていいです』
『そっか』
あの“そっか”が、妙に胸に残る。
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ引き下がった言い方だったからこそ、余計に。
図書室の仕事は、今日はいつもより時間がかかった。
返却本の整理に集中しようとしても、何度も手が止まる。
ラベルを貼る位置を少し間違えて、司書の先生に「あら珍しい」と言われてしまった。
「大丈夫?」
先生が穏やかに聞く。
「すみません、ぼーっとしてて」
「今日はいつも以上に心ここにあらずね」
「……そうかもしれません」
「春だからかしら」
「春のせいだといいんですけど」
「ふふ、何かあったのね」
そう言われて、私は曖昧に笑うしかなかった。
仕事を終えて図書室を出る。
廊下には、夕方の赤い光が静かに落ちていた。
人の気配は少ない。
……いない。
当たり前だけど、そこに恒星の姿はなかった。
ほっとする。
ほっとしたはずなのに、胸の奥に小さな穴が開いたみたいな感じもする。
「……何それ」
自分で自分に呆れる。
待たれたら困る。
でも、待たれていないと、それはそれで寂しい。
こんなに面倒な人間、私が相手でも嫌になる。
そのまま靴箱へ向かっていると、途中の廊下で桐生悠真に会った。
「あれ、朝比奈さん」
「……こんにちは」
「もう帰り?」
「はい」
「そっか」
桐生くんは壁に寄りかかるみたいに立っていて、相変わらずどこか余裕のある顔をしていた。
でも、その目の奥には少しだけ探る色がある。
「一条、今日は来てないよ」
「……そうですか」
「うん。来ようとはしてたけど」
「……」
「やめとけって言ったの、今度は俺じゃなくてあいつ自身」
私は顔を上げた。
「自分で?」
「そ。君に嫌がられるの、結構きついらしいから」
「……」
「でも、話したくないわけじゃないんだってさ」
桐生くんは少し肩をすくめた。
「ほんと、不器用同士で大変だね」
その言葉に、私は何も返せなかった。
不器用同士。
私が不器用なのは分かる。
でも、あの人までそう言われると、少しだけ認識が揺らぐ。
だって一条恒星は、私から見ればなんでも上手にこなせる人だ。
人との距離も、会話も、振る舞いも。
少なくともそう見えている。
けれど桐生くんは、そんなふうには見ていないらしい。
「じゃあね」
彼はそれ以上何も言わず、ひらひらと手を振って去っていった。
私はその背中を見送りながら、しばらくその場を動けなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、空は薄い紫色に変わり始めていた。
私はひとりで駅まで歩く。
昨日まで、こんなふうにひとりで歩くことは当たり前だった。
静かで、気楽で、余計なことを考えなくてよかった。
なのに今日は、その“いつも通り”が少しだけ空虚に感じる。
優しさは、時々ひどく残酷だ。
歩きながら、私はそんなことを思った。
冷たい方が楽なこともある。
はっきり線を引かれた方が、あきらめられることもある。
どうせ自分なんて、と思うなら、その方がよほど整理がつく。
でも、あの人は違う。
ちゃんと見て、気づいて、待とうとして、嫌がれば引いて、それでもまたまっすぐ来る。
そんなふうにされて、何も感じないままでいられるほど、私は鈍くない。
嬉しい。
苦しい。
怖い。
でも、完全には手放したくない。
その全部が混ざって、どうしようもなくなる。
「……ほんと、ずるい」
誰に向けたのかも分からないまま、私は小さくつぶやいた。
春の夕方の風が、頬をなでていく。
少しだけ冷たいのに、その冷たさがちょうどよかった。
明日、学校で会ったらどうしよう。
普通の顔ができるだろうか。
それともまた、勝手に苦しくなって、変なことを言ってしまうだろうか。
分からない。
分からないけれど。
今日の私は、確かに少しだけ気づいてしまった。
ただ優しくされて困っているんじゃない。
その優しさが、私の中の何かを変え始めているから、こんなに苦しいのだと。




