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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 御上常陸介寛浩


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第4話 学園中の噂になっても、私は夢だと思いたい

翌朝、目が覚めた瞬間に私は布団の中で顔をしかめた。


 思い出したからだ。


 昨日、一条くんと一緒に帰ったことを。


 いや、正確には“一緒に帰った”という事実そのものより、その間に交わした言葉とか、視線とか、歩く速さとか、そういう細かいもの全部を思い出してしまったからだ。


『一緒に帰るだけでも、今は十分だから』

『それでも、君と話したい方が勝つ』

『また、少しずつでいいから』


 少しずつでいいから、の続きは言われなかったのに、ずっと頭の中に残っている。


 少しずつ何なのか。

 話すことなのか。

 距離を縮めることなのか。

 それとも、私が何かを思い出すことなのか。


 考えたところで分かるはずもないのに、目が覚めて最初にそんなことを考えてしまっている時点で、私はもうだいぶ駄目だと思う。


「……ほんとに最悪」


 布団を頭まで引き上げてつぶやく。


 たった一回、一緒に帰っただけだ。

 それだけで何かが変わるわけじゃない。

 むしろ変わってはいけない。


 そう思うのに、胸のどこかが妙に落ち着かない。

 昨日より今日の方が、学校へ行くのが怖いとすら思ってしまっている。


 理由は分かっている。


 絶対に噂になっている。


 あの昼休みの教室で、「一緒に帰れたらと思って」と言われた時点で、もう終わっていたのだ。

 終わっていたというか、静かな高校生活としての私は、たぶんあの瞬間に一度死んだ。


 できれば生き返ってほしい。


   ◇ ◇ ◇


 案の定、教室に入った瞬間に空気が少し変わった。


 露骨ではない。

 でも分かる。


 人の視線って、不思議なくらい温度がある。

 真正面から見られなくても、視界の端に気配が映るだけで分かってしまう。


 私が教室に入る。

 何人かの女子がちらっとこちらを見る。

 すぐに顔を寄せ合って何か言う。

 私が席に着くころにはもう視線は逸れている。


 でも、たぶんその会話の中心にいるのは私だ。


 息がしづらい。


「おはよ、栞」

 ひまりがいつも通り明るい声で来てくれて、少しだけ肩の力が抜けた。

「……おはよう」

「大丈夫?」

「何が」

「その“何が”って聞けるあたり、もうだいぶ来てるね」

「……そうかも」

「正直でよろしい」


 ひまりはそう言って私の前の席に座った。

 それから教室の空気をちらっと見回して、小さくため息をつく。


「まあ、なるよねえ」

「……やっぱり」

「うん。昨日の昼休みの時点でかなりだったし、しかも放課後、見た人いたみたい」

「……」

「校門のあたりとか、駅までの道とか」

「……」

「ねえ、そんな分かりやすく青くならないでよ」

「無理……」


 私は机に突っ伏したくなるのをこらえながら、鞄から教科書を出した。


 見られていた。

 そりゃそうだ。

 同じ学校の生徒が同じ時間に帰るんだから、誰かしら見るに決まっている。


 でも、だからって。

 だからって、そんな。


「何か言われてる?」

 私はできるだけ平静を装って聞いた。


 ひまりは少し迷う顔をした。

 その時点で、ろくな内容ではないと分かる。


「まあ……言われてる」

「どんなふうに」

「聞く?」

「聞きたくないけど、知らないのも怖い」

「うーん」


 ひまりは言いにくそうに眉を下げた。


「“なんで朝比奈さんなんだろう”とか」

「……うん」

「“前から知り合いだったのかな”とか」

「……うん」

「ちょっと感じ悪いやつだと、“地味なくせに”とか」

「……」


 胸の真ん中に、小さくて冷たいものが落ちる。


 予想していた。

 していたけど、実際に言葉になるとやっぱり痛い。


 地味なくせに。

 その評価自体は、まあ事実だ。私は地味だし、目立たないようにしている。

 でも、その“くせに”の部分が、ひどく嫌だった。


 地味な人間が、目立つ誰かと関わろうとするのは身の程知らずだ、と言われているみたいで。


「栞」

 ひまりの声が少しだけやわらかくなる。

「気にしなくていいよ、って言っても無理だと思うけど」

「……うん」

「でも、そんなの言ってる子たちだって、面白がってるだけのとこあるから」

「分かってる」

「分かってる?」

「分かってるけど、痛いものは痛いよ」


 自分で言って、少しだけ情けなくなる。

 もっと平気な顔をしたかった。

 でも、私はそういうのができるほど強くない。


 ひまりは机の上に肘をついて、私を見た。


「ねえ」

「何」

「一条くんのこと、後悔してる?」

「……何を」

「一緒に帰ったこと」

「……」


 私は答えに詰まった。


 後悔。

 それは、しているような、していないような、変な感覚だった。


 こんなふうに噂されるくらいなら、断ればよかったと思う。

 目立つことも、苦しくなることも、最初から避けられたはずだ。


 でも。

 昨日の帰り道を思い出すと、それを丸ごと“なかったこと”にしたいとは思えなかった。


 並んで歩いたこと。

 さりげなく車道側を歩いていたこと。

 完璧に見えるくせに、少しだけ緊張しているようにも見えたこと。


 それらを全部消してしまいたいかと聞かれたら、たぶん違う。


「……分かんない」

 結局、私はそう答えるしかなかった。


 ひまりはそれを聞いて、小さく笑った。

「うん、まあ、そうだよね」

「笑わないで」

「笑ってないよ。あんたがちゃんと揺れてるんだなって思っただけ」

「揺れてなんか」

「るよ」

「……」

「めちゃくちゃる」


 否定できないのが悔しい。


   ◇ ◇ ◇


 一時間目が始まる少し前、教室の入口がざわついた。


 その気配だけで、私は嫌な予感がした。


 やめて。

 お願いだから今は来ないで。

 私はまだ心の準備ができていない。


 けれどそんな願いが届くはずもなく、一条恒星が教室の前に姿を見せた。


 心臓が縮む。


 彼はすぐには私のところへ来なかった。

 教室の空気を一度見渡して、私の方を見て、それから少しだけ歩みを止める。


 たぶん、気づいたのだ。

 昨日までとは空気が違うことに。


 私はそのことに、勝手に救われたような気持ちになってしまった。

 この人は鈍くない。

 周りが見えていないわけでもない。

 ちゃんと分かった上で、ここにいる。


「おはよう」

 恒星は、いつも通り穏やかに言った。


 教室の中の何人かがそわそわし始める。

 私は喉がからからになりながら、どうにか返した。


「……おはようございます」

「敬語、戻ってる」

「……」

「あ、ごめん。今のは意地悪だった」


 少しだけ笑う。

 でもその笑い方には、昨日までみたいな余裕だけじゃなく、探るような慎重さもあった。


 彼は私の机まで来ることなく、少し離れた位置で立ち止まる。

 それだけで、私への配慮なんだろうと分かってしまった。


 分かってしまうから、胸が痛い。


「今日、図書委員?」

「……はい」

「そっか」

「……」

「無理に話しかけない方がいいかな」


 その一言に、私は顔を上げた。


 彼の表情は穏やかだった。

 でも、その穏やかさの下に、ほんの少しだけ迷いがある。

 たぶん今、彼も私の反応を見ている。


 話しかけてほしいわけじゃない。

 でも、話しかけないでほしいときっぱり言えるほど、昨日のことを何も感じていないわけでもない。


 私はこの人に対して、拒絶も歓迎も、どちらも中途半端だ。

 それが一番たちが悪い。


「……私は」

「うん」

「どうしたらいいのか、まだ分からなくて」

「うん」

「でも……」


 でも、の先が続かない。

 言葉が見つからない。


 恒星は少しだけ待って、それから静かにうなずいた。


「分かった」

「……」

「じゃあ、今日は挨拶だけにする」

「……すみません」

「だから謝らなくていいって」


 それだけ言って、彼は本当にそれ以上何も言わずに去っていった。


 教室がざわつく。


 でも私は、そのざわめきよりも、去り際に一瞬だけ見せた恒星の横顔の方が気になってしまっていた。


 何事もないみたいに見えた。

 けれど、ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけ寂しそうに見えた気がした。


 たぶん気のせいだ。

 そう思いたかった。


   ◇ ◇ ◇


 昼休み、私はひまりに半ば引きずられるようにして中庭のベンチまで連れて行かれた。


「教室、息苦しいでしょ」

「……まあ」

「でしょ。外で食べよ」

「ありがとう」

「どういたしまして」


 春の風はやわらかくて、桜はほとんど散りかけていた。

 花びらがベンチの端にたまっていて、誰かがそれを靴先で払った跡がある。


 お弁当を開いても、私は食欲があまりなかった。

 玉子焼きをひとつ口に入れても味がよく分からない。


「重症」

 ひまりが唐突に言う。

「うるさい」

「だって、栞がお母さんの玉子焼きを無言で食べるの珍しい」

「それで重症判定しないで」

「するよ。あんた、好きなもの食べてるときだけちょっと機嫌よくなるじゃん」

「そんな犬みたいな」

「犬ほど素直じゃないけどね」

「ひどい」


 少しだけ笑うと、ひまりも笑った。

 そういう何気ないやり取りに救われる。


「……ねえ」

「うん?」

「私、ひどいかな」

「どの件で?」

「全部」

「ざっくりしてるなあ」


 ひまりはお弁当箱を膝の上に置いて、空を見上げた。


「ひどいっていうか、臆病なんだと思う」

「……」

「栞はさ、人に嫌われるより前に、自分から身を引いた方が傷が浅いって思ってるとこあるでしょ」

「……あるかも」

「で、相手がちゃんと来てくれると、今度はそれが怖くなる」

「……」

「めんどくさいね」

「自分でもそう思う」

「うん。でもまあ、人間ってだいたいめんどくさいから」


 ひまりのそういうところが好きだ。

 綺麗ごとだけじゃなくて、ちゃんと雑に励ましてくれるところ。


 私は少しだけ息を吐いた。


「一条くん、今日、あんまり話しかけないって」

「へえ」

「たぶん、気を遣ってる」

「そりゃそうでしょ」

「でもそれで、ほっとしたような、寂しいような」

「はい出ました」

「何」

「面倒くさい乙女心」

「乙女心って言わないで」

「でもそうじゃん」

「……否定できない」


 認めた瞬間、自分で顔が熱くなった。

 ひまりはにやにやしている。


「ねえ栞」

「何」

「もう少し自分の気持ちを雑に扱わない方がいいよ」

「雑?」

「“私なんて”って、便利だけど強すぎるから」

「……」

「それ使うと、嬉しいも苦しいも全部潰れちゃう」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 嬉しいも苦しいも全部潰れる。


 たしかに私は、“私なんて”で考えるのをやめる癖がある。

 そう言えば、最初から期待しなくて済む。

 期待しなければ傷つかない。


 でもそのかわり、少しうれしかったことまで、自分でなかったことにしてしまうのかもしれない。


   ◇ ◇ ◇


 午後の授業のあと、廊下で呼び止められた。


「朝比奈さん」

 振り向くと、そこに立っていたのは九条麗華だった。


 別クラスの有名人。

 長い髪も姿勢もきれいで、同じ制服なのに雑誌の中から出てきたみたいな空気をまとっている。成績も家柄もよくて、一条くんと並べて語られることも多い人だ。


 その彼女が、どうして私に。


 嫌な予感しかしない。


「……何でしょう」

「少しだけよろしいかしら」

 断りにくい言い方だった。

 いや、断れないように作られた言い方なのかもしれない。


 私は小さくうなずくしかなかった。


 連れて行かれたのは特別棟と校舎の渡り廊下の途中、人通りはあるけれど、教室の目からは少し離れた場所だった。


 麗華はまっすぐ私を見た。

 その視線には敵意がある。

 でも、ただの見下しだけではないようにも見えた。


「率直に聞くわ」

「……はい」

「あなた、一条くんにどういうつもり?」


 やっぱり、来た。


 私は喉が乾くのを感じた。

 こういう問いを向けられるのが、いちばん苦手だ。


「どういうつもり、というのは……」

「そのままの意味よ」

 麗華はまばたきひとつせずに言った。

「最近のあなたたち、目立ちすぎているもの」

「……」

「知らないとは言わせないわ。校内でかなり噂になっている」


 知っている。

 それくらい、私にだって分かる。


「私は、別に」

 何とか言葉を探す。

「何も、ないです」

「何もない?」

「はい」

「本当に?」


 その問いに、私はすぐ答えられなかった。


 本当に、何もないのか。

 そう聞かれると、もう自分でも分からなくなっている。


 麗華は私の沈黙をどう受け取ったのか、小さく息をついた。


「あなた、無自覚なのね」

「……」

「正直に言えば、最初は腹が立ったわ」

「すみません」

「謝ってほしいわけじゃないの」


 ぴしゃりと言われて、私は口をつぐんだ。


 麗華は窓の外へ一度だけ視線を向け、それからまた私を見る。


「一条くんが誰にでも親切なのは有名よ。でも」

 そこで、彼女の声が少しだけ低くなる。

「本気で誰かを見る目は、全然違う」


 胸がどくんと鳴った。


「……何を」

「あなた、本当に分かっていないの?」

「……」

「彼、あなたの前だと少しだけ余裕がないわ」

「そんなこと」

「あるわよ。見ていれば分かるもの」


 麗華の言葉には、嫌味だけではない切実さがあった。

 たぶん彼女は、ずっと見てきたのだ。

 彼の表情も、態度も、誰に向ける目がどんなものかも。


 だからこそ分かってしまうのかもしれない。


「私は」

 麗華は少しだけ唇を引き結んだ。

「あなたを脅したいわけじゃないの」

「……」

「けれど、あなたが何も知らない顔をしているのが、いちばん残酷に見える」


 その言葉は、静かなのに痛かった。


 残酷。

 私が?


 私はただ、分からなくて、怖くて、逃げているだけなのに。

 でも、その“逃げているだけ”が、相手から見たら残酷になることもあるのだろうか。


 麗華は私の表情を見て、ほんの少しだけ目をやわらげた。


「……あなたが嫌い、というより」

「……」

「羨ましいのかもしれないわね」


 私は息を呑んだ。


 そんな言葉が出てくるとは思わなかった。

 もっときつく責められるものだと思っていたから。


 麗華は苦く笑った。


「でも、勘違いしないで。だからといって譲るつもりはないわ」

「……」

「わたくしは、あの人をずっと見てきたもの」

「……はい」

「だからこそ言うの。中途半端な気持ちなら、これ以上近づかないで」


 言い切られて、私は視線を下げた。


 反論できない。

 だって私自身、自分が中途半端だと分かっているから。


 嬉しいのに怖い。

 近づきたいのか逃げたいのか、自分でも分からない。

 そんな状態で、彼の方だけを振り回しているのだとしたら。


 ――たしかに、残酷なのかもしれない。


「……失礼します」

 それだけ言って、私はその場を離れた。


 足取りは自然じゃなかったと思う。

 でも立ち止まったら泣きそうで、止まれなかった。


   ◇ ◇ ◇


 放課後、図書室へ向かう途中の廊下で、私は何度も麗華の言葉を思い出していた。


『本気で誰かを見る目は、全然違う』

『あなたが何も知らない顔をしているのが、いちばん残酷』

『中途半端な気持ちなら、これ以上近づかないで』


 残酷、なのだろうか。


 私はただ、私なんかにそんなことがあるはずないと思っていただけだ。

 そう思わないと落ち着かないから、そうしていただけだ。


 でも、その結果として誰かを傷つけているなら。

 それはたしかに、ただの臆病じゃ済まないのかもしれない。


 図書室の扉の前で、私は一度立ち止まった。

 深呼吸をする。


 静かな場所に入れば、少しは頭が冷えるだろうか。


 けれどその前に、後ろから聞き慣れた声がした。


「朝比奈さん」


 振り返る。


 一条恒星が立っていた。


 今日も整っていて、今日も変わらずきれいで、でも私には、朝より少しだけ慎重な顔に見えた。


「……一条くん」

「今、少しいい?」

「……はい」


 麗華の言葉が頭の中でまだ熱を持っている。

 だからうまく平静を保てない。


 恒星は少しだけ私の顔を見て、眉を寄せた。


「何かあった?」

「え」

「顔色、あんまりよくない」


 どうしてこういうところだけ、こんなにすぐ気づくんだろう。

 私はとっさに首を振った。


「何でもないです」

「そうは見えない」

「……」

「誰かに何か言われた?」


 その問いがあまりにもまっすぐで、私は一瞬だけ答えそうになった。

 でも、言えない。

 麗華との会話をここでそのまま伝えるのは違う気がした。


「……大丈夫です」

「朝比奈さん」

「ほんとに」


 少し強く言うと、恒星は黙った。

 それから、静かにうなずく。


「分かった」

「……」

「でも、無理してるなら、しなくていい」

「……」

「俺の前では」


 その言葉が、また反則だった。


 無理してるなら、しなくていい。

 しかも、俺の前では。


 そんなふうに言われて、何も感じないわけがない。


 でも私は、いろんなものが一度に押し寄せてきて、どう返していいか分からなかった。

 麗華の言葉。

 教室の視線。

 自分の情けなさ。

 それでも、この人の声を聞くと少しだけ楽になること。


 全部が混ざって、苦しい。


「……どうして」

 気づけば、また聞いていた。

「どうして、そんなに……」


 その先を言えない。

 そんなに優しいのか。

 そんなに気にするのか。

 そんなに私を見るのか。


 恒星は少しだけ黙って、困ったように笑った。

 でもその笑みは、昨日までよりずっと静かだった。


「それを今言うと、たぶん君をもっと困らせる」

「……」

「だから、まだ言わない」


 私は目を見開く。


 まだ言わない。

 つまり、言える理由があるということだ。


 それが何なのか、私は知らない。

 でも彼の方は知っている。


 その非対称さが、もどかしくて、怖くて、それでも少しだけ知りたいと思ってしまう。


「……ずるいです」

 小さくこぼすと、恒星は少しだけ笑った。

「うん。自覚ある」

「自覚あるならやめてください」

「無理かも」

「……」

「君のことになると、あんまり上手にできないから」


 その言葉に、私はもう何も言えなくなった。


 完璧な王子様みたいに見えて、上手にできないと言う。

 しかもそれが、私のことになると、だなんて。


 そんなの、まともに受け止められるわけがない。


 図書室の中から司書の先生に呼ばれて、私は半ば逃げるように「失礼します」と頭を下げた。

 恒星はそれ以上追ってこなかった。


 扉を閉める直前、彼がいつもの穏やかな声で言う。


「また明日」


 私は振り返れないまま、かすかにうなずくことしかできなかった。


   ◇ ◇ ◇


 帰宅すると、父が珍しく早く帰ってきていて、リビングでコーヒーを飲んでいた。


「おかえり」

「ただいま」

「どうした、疲れた顔してるな」

「普通だよ」

「その普通は怪しいって最近覚えたぞ」


 覚えなくていいことばかり覚える。


 私は鞄を置いて、ソファの端に座った。

 父は新聞を畳みながら、何気ない調子で言う。


「そういや、一条のとこの恒星くん」

「……え」

「今日、会社の帰りに父さんのとこ寄ったら、向こうのお父さんが話しててな」

「……」

「いやあ、立派になったって話だけじゃなくて、昔から変わらず律儀らしいぞ」


 律儀。

 その言葉が妙に引っかかった。


「……昔から?」

「そうそう。おまえと遊んでたころも、妙におまえのこと気にしてたなあ」

「……私のこと?」

「ああ。おまえ、転んでも泣かないタイプだったろ」

「……そうだったかも」

「でもあいつ、すぐ泣きそうな顔しておまえの方見てたぞ。『しおりちゃん、いたい?』って」

「……」


 頭の奥で、何かが小さく揺れた。


 幼い声。

 小さな手。

 泣きそうなのに、こっちの方が大事だと言いたげな目。


 それはまだ、はっきりとはつながらない。

 でも、どこかで確かに聞いたことがあるような気がした。


「覚えてないのか?」

 父が不思議そうに言う。

「……ちょっとだけ、何か」

「そうか。まあ小さいころのことだしな」


 私はそれ以上何も言えなかった。


 胸の奥が、また妙にざわざわしている。


 彼は覚えているのだろうか。

 私と遊んだ日のことを。

 泣きそうな顔をしていた、自分のことを。

 そして、私がそれを忘れていることも。


 もしそうなら。

 どうして私は、今まで何も気づかなかったんだろう。


 どうして彼は、あんなふうに少しずつしか言わないんだろう。


 分からないことばかり増えていく。

 でも、その分からなさの中に、ほんの少しだけ、前より温度がある気がした。


 怖いだけだったものが、少しだけ、知りたいに変わり始めているのかもしれない。


 それを認めるのは、まだ怖かったけれど。

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