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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 御上常陸介寛浩


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3/10

第3話 放課後、一緒に帰ろうなんて反則だ

 次の日の朝、私はいつもより十分早く家を出た。


 逃げるためである。


 誰から、と聞かれたら困る。

 いや、困るまでもなく答えは明白だ。

 一条恒星からだ。


 正確には、彼本人から逃げたいというより、彼に話しかけられたときの自分の情けない反応から逃げたい。昨日みたいに変な言い方をして、勝手に傷ついて、勝手に落ち込んで、しかもそのあと桐生くんから「へこんでた」とまで聞かされるくらいなら、最初から接触しなければいい。


 そう思った。


 思ったから、いつもより早い電車に乗った。

 いつもなら駅前のパン屋から漂ってくる甘い匂いに少しだけ惹かれつつ通り過ぎるところを、今日は脇目も振らず改札を抜けた。

 ホームに吹く春の風は少しだけ冷たくて、昨夜あまりよく眠れなかった頭にはちょうどよかった。


 電車の窓に映る自分を見る。


 黒縁眼鏡、結んだ髪、目立たない顔。

 大丈夫。いつも通りだ。


 いつも通りでいれば、きっと何も起こらない。

 そういう日常に戻せるはずだ。


 ――と、思っていたのに。


「おはよう」


 学校最寄り駅の改札を出たところで、その声が背後から落ちてきたとき、私は本気で足を止めた。


 止めるつもりなんてなかった。

 でも止まってしまった。

 びっくりしすぎると人間って本当に固まるんだな、と、どうでもいいことを考える程度には頭が真っ白になった。


 振り向く。


 そこにいたのは、予想を裏切らないというか、予想を最悪の方向で超えてくるというか。

 やっぱり、一条恒星だった。


 朝の光の中でも目立つ人っているんだ、と思う。

 まだ登校の生徒がそこそこいる駅前で、彼はやっぱり浮いていた。いい意味で。顔がいいとか姿勢がいいとかそういう単純な話だけじゃなくて、空気のまとい方がきれいなのだ。きちんと育った人の所作というのは、たぶんこういうものなんだろう。


 私は反射で一歩下がりかけて、ぎりぎりで止めた。

 ここであからさまに逃げたら人として終わる。


「……お、おはようございます」

「敬語なんだ」

「え」

「いや、別に嫌じゃないけど」


 彼は少しだけ笑った。

 柔らかい。昨日までの気まずさが嘘みたいに、普通に笑う。


 その普通さが、逆に私を混乱させた。


 昨日の朝、私があんな言い方をしたのに。

 昨日の放課後、桐生くんが“へこんでた”と言っていたのに。

 どうして何事もなかったみたいな顔で、こんなふうに話しかけられるんだろう。


 それとも、こういうところが“育ちがいい”ってことなんだろうか。

 相手が失礼でも、自分は失礼にしない、みたいな。


「朝、早いんだね」

 恒星が私の歩調に合わせて歩き出した。

 え、待って。歩くの?

 一緒に?

 ここから学校まで?


 私は一瞬で心拍数が上がった。


「い、いつもより少しだけ」

「そっか」

「……一条くんも」

「俺はいつもこのくらい」

「そうなんですね」


 会話が、続いている。

 なんで。


 駅から学校までの道には、同じ制服の生徒が何人もいる。

 その中には当然、この学校の生徒もいる。

 つまり、見られている。

 確実に。


 私は視線を前に固定しながら歩いた。横を見たら最後、余計に挙動不審になる気がする。


「昨日」

 恒星が唐突に切り出した。


 私は息を詰める。


「ごめん」

「……え」

「朝、困らせたよね」


 彼は本当に、それを言うためだけにこの話題を持ち出したみたいだった。

 言い訳もしない。責めもしない。ただ静かに謝る。


 私はそのことに、少しだけ腹が立った。


 腹が立ったというか、困った。

 そんなふうに先に低く出られると、私だけが嫌な子みたいじゃないか。


「……謝らないでください」

「でも」

「私の方が、感じ悪かったので」

「そんなことない」

「ありました」

「朝比奈さん」


 名字で呼ばれたことに、なぜか少しだけほっとする。

 昨日の“栞”は、やっぱり間違いだったのだと思えるから。

 そのくせ、胸の奥のどこかがほんの少しだけ物足りないと思ってしまっている自分には、目を向けないことにした。


「俺、少し急ぎすぎてるのかもしれない」

「……」

「君にとっては、いきなりすぎるよね」


 いきなりすぎる。

 それは本当にその通りだった。


 知り合いでもなかったはずの相手が、ある日を境に急に名前を知っていて、話しかけてきて、図書委員の当番まで知っていて、昨日みたいな顔をする。


 意味が分からない。

 分からないから、怖い。


 でも、そこで「はい、いきなりです」と答えるのも違う気がして、私は曖昧に口ごもるしかなかった。


「……私は」

「うん」

「どうしたらいいか、分からなくて」


 情けない答えだった。

 でも、嘘じゃない。


 恒星は少しだけ目を細めた。

 安心したようにも、困ったようにも見える顔だった。


「それならよかった」

「え?」

「嫌われたわけじゃないなら」


 その一言に、私は足をもつれさせそうになった。


 嫌われたわけじゃない。

 そんなことを、この人は気にするんだろうか。


 私は思わず横目で彼を見た。


 彼は前を見たまま歩いている。

 整った横顔はいつも通りきれいなのに、その口元だけが少しだけ硬い。


 もしかして本当に、気にしていたんだろうか。

 昨日、私にあんなふうに言われたことを。


 そう思うと、胸のあたりがまた落ち着かなくなる。


「……嫌っては、いません」

 小さく言うと、恒星はほんの少しだけ肩の力を抜いたみたいだった。


「よかった」

「でも」

「うん」

「その……やっぱり目立つので」


 言った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。

 またそれか。

 それしか言えないのか、私は。


 恒星も一瞬だけ言葉に詰まったようだったけれど、すぐに苦笑した。


「そっか。俺が目立つのは、否定できない」

「……」

「どうにかできたらいいんだけど」

「どうにもならないと思います」

「だよね」


 少しだけ空気がやわらいだ。

 私が思ったことをそのまま言ったせいだろうか。

 彼はくすっと笑っていた。


「朝比奈さん、案外はっきり言うよね」

「……そうですか」

「うん。もっと全部飲み込むタイプかと思ってた」

「そんなことないです」

「じゃあ、よかった」


 また、よかった。


 この人はどうして、私のちょっとした反応にいちいちそんな顔をするんだろう。

 まるで、何かを確認しているみたいに。


 学校の門が見えてきたところで、私はようやく少しだけ落ち着いてきた。

 このまま自然に別れればいい。

 校舎に入れば人も増えるし、きっとそれぞれ別の方向へ行く。


 そう思っていたのに。


「じゃあ、ここからは少し離れて歩こうか」


 恒星があっさり言った。


「え」

「目立つの、嫌なんでしょ」

「……あ」

「校内まで一緒だと、たぶんもっと見られる」


 その言い方があまりにも当然で、私は言葉を失った。


 彼は私の気持ちを汲んだのだ。

 昨日のことも、さっきの言葉も踏まえて、私が少しでも楽なように。


 そう理解した瞬間、ありがたさより先に、情けなさが込み上げた。


 また気を遣わせてしまった。

 しかも、自分からちゃんと言えたわけでもなく、向こうに察してもらって。


「……すみません」

「だから、謝らなくていいって」

「でも」

「朝比奈さん」


 恒星はここで初めて、少しだけ困った顔をした。

 完璧な王子様みたいな笑顔じゃなくて、本当にただ困っている高校生みたいな顔だった。


「俺、君に謝らせたいわけじゃないんだ」

「……」

「気を遣わせたいわけでもない」

「……はい」

「ただ、話したかっただけ」


 その最後の一言だけが、妙にまっすぐ胸に刺さる。


 話したかっただけ。

 それ以上でもそれ以下でもない、みたいに言うけれど。

 私にはその“だけ”が一番難しい。


「じゃあ、またあとで」


 恒星は少しだけ離れて歩き出した。

 本当に、私に合わせて距離を取る。

 それなのに、完全に切り離すわけでもなく、歩幅はゆるく同じままだ。


 近すぎず、遠すぎず。

 絶妙に気を遣われたその距離が、逆に胸にくる。


 私は前を向いたまま、ぎゅっと鞄の肩紐を握った。


 どうしてこんなに優しいんだろう。

 どうしてこんなに、私の反応ばかり見ているんだろう。


 分からない。

 分からないから、やっぱり怖い。


   ◇ ◇ ◇


 教室に入ると、ひまりが開口一番で言った。


「ねえ、今、一緒に登校してなかった?」

「してない」

「したでしょ」

「……途中まで」

「途中までしてるじゃん!」


 彼女の声が少し大きくて、私は慌てて「静かに」と制した。

 ひまりは口を押さえつつも、目はきらきらしている。


「で?」

「で、って」

「何話したの」

「普通のこと」

「普通って何」

「おはようとか」

「おはようで駅から学校まで来たの?」

「……」

「はい、却下。絶対ほかにも何かある」


 私は席に座って、教科書を出すふりをした。

 ひまりの追及をまともに受けたら朝から疲れる。


 でも彼女は逃がしてくれない。


「栞」

「何」

「顔、ちょっと赤い」

「気のせい」

「気のせいじゃない」

「歩いてきたから」

「春の朝に?」

「……」

「一条くん、何か言った?」

「別に」

「その“別に”は、別にじゃない」

「ひまり」

「はいはい、分かりました。言いたくないことは無理に聞きません」


 そう言いながらも、彼女は完全に納得していない顔だった。

 でもそれ以上は踏み込まず、自分の席へ戻っていく。


 助かった。

 ……いや、助かってない。

 私の頭の中は、さっきの会話でいっぱいだ。


『嫌われたわけじゃないなら』

『俺、君に謝らせたいわけじゃないんだ』

『ただ、話したかっただけ』


 言葉の一つ一つが、妙に残る。

 軽く言っているように見えて、どれもきちんと私の反応を見た上で選ばれていた。


 そういうところがずるい。

 嫌いじゃない。たぶんむしろ逆だ。

 でも、だから困る。


 午前中の授業はほとんど頭に入らなかった。

 ノートは取っているのに、内容が右から左へ抜けていく。

 先生に指名されなかったのが救いだ。


 昼休みになると、私は少しほっとした。

 朝を乗り切ったのだから、あとは静かに過ごせばいい。

 今日は何もないかもしれない。


 ……そう思いたいだけかもしれないけれど。


 ひまりと一緒にお弁当を広げていると、教室の外が少しざわついた。

 その音を聞いた瞬間、私は思わず箸を止める。


 また、だった。


 一条恒星が教室の前に立っていた。


 昨日みたいに私の席まで来るわけではない。

 でも、明らかにこちらを見ている。


 ひまりがものすごく分かりやすい顔で私を見る。

 私は見ないふりをしたいのに、そんなことができる空気でもなかった。


 やがて恒星が、教室の入り口から少しだけ身を乗り出すようにして言った。


「朝比奈さん」


 教室中の視線が、また私に集まる。


「……はい」

「放課後、図書室のあと予定ある?」


 私は固まった。


 なぜその聞き方。

 なんでそんな、人前で断りにくいことを平然と聞くの。


「えっと」

「急じゃなかったら、一緒に帰れたらと思って」


 一緒に帰れたらと思って。


 その言葉が教室に落ちた瞬間、明らかに何人かが息を呑んだのが分かった。

 ひまりは口を押さえているし、後ろの席の女子なんて「あっ」と声を漏らしていた。


 私の頭の中は真っ白になる。


 一緒に帰る?

 誰と誰が?

 私と一条くんが?


 いや、無理だ。

 無理に決まっている。

 何を考えているんだ、この人は。


 でもその“無理”の中には、本当に嫌だという意味だけじゃなくて、恥ずかしいとか、怖いとか、そんなものがぐちゃぐちゃに混ざっている。


「……どうして」

 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


 恒星は少しだけ目を細める。


「どうしてって?」

「その……わ、私と」

「朝比奈さんと、帰りたいから」


 即答だった。

 迷いがない。

 だから余計に、意味が分からない。


 教室の空気が変に固まっている。

 私は視線の熱に耐えきれなくなって、思わず立ち上がった。


「ちょ、ちょっと外、いいですか」

「うん」

「えっ、何、廊下出るの!?」

 ひまりの小声は無視した。


 私は教室の外に出て、できるだけ人通りの少ない壁際まで移動した。けれど昼休みの校舎で、人目を完全に避けるのは無理だ。


 恒星が静かについてくる。

 距離は近すぎないのに、存在感だけが大きい。


 私は壁を背にして立ち止まった。

 そして声をひそめる。


「……あの」

「うん」

「どうしてそういうこと、人前で言うんですか」

「だめだった?」

「だめです」

「そっか。ごめん」

「……」


 また素直に謝る。

 ほんとうにずるい。


「でも、聞くならちゃんと聞きたかったから」

「ちゃんと、って」

「君が逃げないうちに」


 私はぐっと言葉に詰まった。


 逃げる。

 たしかに私は、隙があれば逃げている。

 昨日も、一昨日も。

 自分の気持ちからも、彼の言葉からも。


 そのことを本人にこんなふうに言い当てられると、ひどく居心地が悪い。


「……逃げますよ」

「知ってる」

「だったら」

「それでも聞きたかった」

「なんで」

「帰りたいから」


 またそれだ。

 単純すぎる答えなのに、全然軽くない。


 私はもう、どうしたらいいのか分からなかった。


「私と帰っても、面白くないです」

「面白さで選んでない」

「話だって、うまくできないし」

「それでもいい」

「女子に見られたら、また変な噂になるかもしれないし」

「それは、少し困るけど」

「困るんですね」

「困るよ。君が嫌な思いするなら」


 その返しに、私は完全に言葉を失った。


 自分の評判じゃない。

 私が嫌な思いをするかどうかを先に言う。


 そんなの、反則だと思う。


 しばらく黙っていると、恒星が少しだけ視線を下げた。

 その仕草が、ほんの一瞬だけ年相応に見える。


「無理なら断って」

「……」

「でも、断る前に少しだけ考えてほしい」

「……何を」

「俺が、君と帰りたいって思ってること」


 私は目を見開いた。


 そんなの、考えない方が楽に決まっている。

 考えてしまったら、もう“たまたま”とか“誰にでも”とかでは済まなくなる。


 けれど、ここまで言われて、何も感じないふりをするのも無理だった。


 鼓動がうるさい。

 喉が乾く。

 でも、嫌ではない。


 嫌ではないどころか。

 この状況の全部に戸惑いながら、どこかで少しだけ、嬉しいと思ってしまっている自分がいる。


 最悪だ。


「……図書室、当番が終わるの、少し遅いです」

「待つよ」

「待たなくていいです」

「待ちたい」

「……」

「だめ?」


 また、そんな顔をする。

 穏やかなのに、どこか必死で。

 完璧そうに見えるくせに、こういうときだけ少し格好悪い。


 その格好悪さに、私は弱いのかもしれない。


「……少しだけなら」

 気づけば、そう言っていた。


 言った瞬間、自分で自分に驚く。

 本当に?

 私、今、何て言った?


 恒星も一瞬だけ目を見開いたあと、すぐに笑った。

 今まで見た中でいちばん、嬉しそうな顔だった。


「ありがとう」

「……まだ帰るって決めたわけじゃ」

「うん。分かってる」

「図書室が終わって、そのとき、やっぱり無理って思ったら」

「そのときは無理しなくていい」

「……」

「でも、少しだけでも嬉しい」


 こんなに素直に喜ばれると、逆に困る。

 私は耐えきれなくなって視線を逸らした。


「もう教室戻ります」

「うん」

「あと、人前であんまり変なこと言わないでください」

「変なこと?」

「……一緒に帰りたいとか」

「変じゃないよ」

「私には変です」

「そっか」

「笑わないでください」

「ごめん」


 また笑う。

 でも今度のそれは、昨日までみたいに意味が分からなくて怖い笑顔ではなくて、少しだけ肩の力が抜けるような笑い方だった。


 私は自分の耳が熱くなっているのを感じながら、足早に教室へ戻った。


   ◇ ◇ ◇


 午後の授業は、午前よりさらにひどかった。


 黒板の文字を写しているはずなのに、ノートには途中から意味のない線が増えていく。

 先生の声は聞こえているのに内容が頭に入らない。

 “図書室のあと”“待つよ”“少しだけでも嬉しい”という言葉だけが、なぜか頭の中を占拠していた。


 ひまりは休み時間のたびに何か聞きたそうな顔をしていたけれど、私の顔を見て察したのか、珍しく深追いしてこなかった。


 放課後が近づくにつれて、胃のあたりが重くなる。


 私は本当に、彼と一緒に帰るんだろうか。

 約束したわけではない。

 少しだけならと言っただけだ。

 でも、“待つ”と言われた。


 待たれていると思うと、図書委員の仕事をさぼることも、だらだら引き延ばすことも、妙にできない気がする。


 こんなの、ほんとうに反則だ。


   ◇ ◇ ◇


 図書室の仕事を終えたころには、校舎の中はすっかり夕方の色になっていた。


 棚の整理を終えて、司書の先生に挨拶をする。


「お疲れさま、朝比奈さん」

「失礼します」

「あら、今日は少しそわそわしてた?」

「……そんなことないです」

「ふふ。そういうことにしておくわ」


 先生は意味ありげに笑ったけれど、私はそこに反応する余裕もなく図書室を出た。


 廊下に出る。

 夕焼けの光が窓から差し込んで、床に長い影を落としている。


 そして、その影の中に。

 壁にもたれるように立っている人がいた。


 一条恒星。


 本当に、待っていた。


 私はその事実に、胸がぎゅっとなるのを感じた。


 彼は私に気づくと、すぐに姿勢を正した。

 その動きがどこか少しだけ緊張して見えて、私は思わず瞬きをする。


 緊張してる?

 この人が?


「お疲れさま」

「……待ってたんですか」

「うん」

「ほんとに」

「ほんとに」


 あまりにも当たり前みたいに言うから、私は返す言葉を失った。


 待たれていた。

 それだけで、どうしてこんなに心が落ち着かなくなるんだろう。


「……帰るんですか」

「朝比奈さんが嫌じゃなければ」

「その言い方、ずるいです」

「ずるい?」

「嫌って言いにくいから」

「じゃあ、聞き方変える?」

「変えてもたぶん同じです」

「そっか」


 少しだけ笑ったあと、彼は階段の方へ視線を向けた。


「行こうか」

「……はい」


 断れなかった。

 いや、断らなかった。


 私は自分の中のその違いに気づきながら、彼の隣を歩き出した。


 校舎を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。

 グラウンドからは部活の掛け声が聞こえる。自転車置き場では何人かの生徒が笑いながら帰り支度をしている。


 この景色の中を、一条くんと一緒に歩くなんて。

 どう考えても場違いだ。


 でも彼は、朝みたいに少し距離を取るのではなく、今度はちゃんと隣に並んだ。

 周囲の視線がないわけじゃない。

 でも下校の流れの中では、朝よりはまだ紛れる。


「……何か、話さなくていいんですか」

 沈黙に耐えかねて、私が先に言った。


 恒星は少しだけ驚いたように私を見る。


「話したいことはあるけど」

「あるんですね」

「うん。でも、無理に話さなくてもいいかなって」

「……」

「一緒に帰るだけでも、今は十分だから」


 その言葉に、私はまた何も言えなくなる。


 一緒に帰るだけで十分。

 そんなふうに言われたことなんて、今まで一度もなかった。


 私は視線を足元に落とした。

 アスファルトの上に、二人分の影が並んで伸びている。

 近い。でも、触れない。

 その距離が妙に意識される。


「……学校では」

「うん」

「いつもあんなふうに人に見られて、平気なんですか」

「平気なわけじゃないよ」

「え」

「慣れてるだけ」


 私は思わず顔を上げた。


 恒星は少しだけ苦笑した。


「見られるの、好きじゃないし」

「そうなんですか」

「うん。勝手に何か決められるのも、あんまり得意じゃない」

「……意外です」

「よく言われる」


 その返事が妙に人間くさくて、私は少しだけ肩の力が抜けた。


 この人は最初から、完璧にできあがった王子様としてそこにいたわけじゃないのかもしれない。

 周りがそう扱うから、そう見せているだけで。


「じゃあ」

 私は小さく言った。

「私と一緒にいると、余計見られるのに」

「うん」

「困りませんか」

「少しは困る」

「困るんですね」

「でも」


 彼はそこで一度言葉を切って、少しだけ視線をやわらげた。


「それでも、君と話したい方が勝つ」


 だめだ。

 そんなふうに言われると、本当にだめだ。


 私はまともに顔を見られなくなって、慌てて前を向いた。

 耳が熱い。絶対赤い。


「……そういうこと、さらっと言わないでください」

「ごめん」

「ごめんで済ませないでください」

「じゃあ、気をつける」

「ほんとに気をつけてください」

「努力する」


 努力、って。

 なんでそんな少しだけ笑える返しをするんだろう。

 ずるい。

 ほんとうにずるい。


 歩きながら、彼がさりげなく車道側へ寄る。

 その動きは自然すぎて、言われなければたぶん見逃していた。


 でも私は、そこだけ妙に目に入った。


 以前にも、こんなふうに隣を歩かれた気がする。

 もっと小さなころ。

 風の匂いも、空の色も違うのに、仕草だけがどこか懐かしい。


「……一条くん」

「なに」

「そういうの、誰にでもするんですか」

「どういうの」

「車道側歩くとか」

「ああ」


 彼は少しだけ考えるように目を伏せた。


「誰にでもではないかな」

「……」

「少なくとも、君には昔からそうしてた気がする」


 その一言に、私は立ち止まりそうになった。


 昔から。


 まただ。

 また、引っかかる言い方をする。


「……どういう意味ですか」

「そのままの意味」

「分かりません」

「今は分からなくていいよ」

「よくないです」

「でも、無理に思い出させたいわけじゃないから」


 思い出す。

 その言葉が胸の奥に落ちる。


 やっぱり。

 この人は、私と何か共有している。


 それが何なのか、私はまだはっきり掴めない。

 でも、彼の方はきっと知っている。


 どうしてそれをちゃんと言わないんだろう。

 言ってくれればいいのに。

 そう思う一方で、言われたら言われたで、たぶん私は逃げる。


 自分でも面倒くさいと思う。

 でも、そうとしか言えない。


 駅が見えてきた。

 この時間が終わることに、少しだけほっとする。

 それと同時に、少しだけ惜しいと思ってしまう自分がいて、私はまた嫌になる。


 改札の前で、恒星が立ち止まった。


「ここまででいい?」

「……はい」

「また明日」

「……」

「朝比奈さん?」


 私は迷った。

 ここで曖昧に笑って逃げるのは簡単だ。

 いつもの私なら、たぶんそうする。


 でも今日は、少しだけ。

 本当に少しだけ、違うことをしてみたくなった。


「……あの」

「うん」

「今日は、その」

「うん」

「……ありがとうございました」


 言うだけで精一杯だった。

 でも、ちゃんと自分から言えた。


 恒星は一瞬だけ目を見開いて、それから本当に嬉しそうに笑った。


「どういたしまして」

「……」

「朝比奈さん」

「はい」

「また、少しずつでいいから」


 少しずつでいいから。


 その続きを、彼は言わなかった。

 でも、なんとなく分かった気がした。

 話そう、とか。

 知ってほしい、とか。

 そういう意味が、その言葉の中に静かに含まれている気がした。


 私はうまく答えられないまま、小さくうなずいて改札へ向かった。


 背中に視線を感じる。

 振り返ったら負けな気がして、そのまま歩いた。


 でも、電車に乗ってドアのガラスに映る自分の顔を見たとき。

 そこにいた私は、困っていて、戸惑っていて、少しだけ頬が赤くて――そして、ほんの少しだけ、うれしそうだった。


 そんな顔をしている自分が信じられなくて、私は慌てて視線を逸らした。


 たった一緒に帰っただけだ。

 それだけなのに。


 どうしてこんなに、今日のことが忘れられないんだろう。

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