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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 御上常陸介寛浩


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第1話 高嶺の王子は、なぜか私の名前を知っている

春という季節は、どうしてこうも人を落ち着かなくさせるのだろう。


 新しいクラス。新しい座席表。新しい教科書。窓の外では桜が、もう少しで役目を終えるとでも言いたげに、風にあおられて頼りなく散っている。


 みんなはそれを見て「きれい」と言うけれど、私――朝比奈栞にとって春は、昔から少し苦手な季節だった。


 きれいなものは、見られる。

 目立つものは、覚えられる。

 覚えられたら、何かを期待される。


 私はそういうのが苦手だ。


 だから高校二年生になった今年も、去年と同じように、いや去年以上に、私は教室の空気の中にうまく溶け込んで、できるだけ“何でもない人”として過ごそうと決めていた。


 そのための装備は万全だ。


 重たく見える黒縁眼鏡。きっちり結んだ髪。必要以上に話しかけにくい、でも感じが悪いわけではない、ちょうどいい地味さを目指した表情。制服の着方だって、リボンを少しだけ整えすぎないくらいで止めている。


 完璧だと思う。


 少なくとも、朝のホームルーム前の教室でわいわい盛り上がっている女子たちの視線は、一度も私のところへ向かない。隣の席の子が「おはよう」と言ってくれて、私が「おはよう」と返す。それで充分だ。


 静かで、平穏で、目立たない。


 そういう日常を、私は愛している。


「栞、おはよー」


 背中を軽く叩かれて、私は肩をびくっと揺らした。


 振り向くと、明るい栗色の髪を揺らした瀬名ひまりが、にこにこと立っていた。うちのクラスで、たぶん一番朝から元気な人間である。


「そんなびっくりしなくてもいいじゃん。わたしだよ、わたし」

「……おはよう、ひまり」

「うん、おはよ。あーもう、今年も同じクラスでよかった。栞がいないと、わたし、静かに授業受けるとか絶対無理だもん」

「それ、私がいると静かにできるみたいな言い方だけど」

「できるよ? 栞の前ではちょっとだけ猫かぶるもん」

「ちょっとだけなんだ」

「うん、ちょっとだけ」


 ひまりはけらけら笑って、私の前の席に勝手に座った。


 こういうふうに、遠慮なく人の距離に入ってこられる性格を、私は少しだけ羨ましいと思う。私にはたぶん一生できない。


 ひまりは一度教室を見回してから、声を潜めた。


「で、見た?」

「何を?」

「え、うそ。まだ?」

「だから何を」

「一条くん」


 その名前が出た瞬間、教室の空気が少しだけ変わった気がした。

 いや、たぶん気のせいじゃない。


 ひまりが口にしたのは、この学校の有名人の名前だった。


 一条恒星。


 入学したときから、いや入学前から、この学校では有名だった男子生徒だ。国内でも名の知れた一条グループの御曹司で、成績優秀、礼儀正しく、顔もいい。いわゆる“住む世界が違う人”である。


 同じ制服を着て同じ校舎にいるのに、どうしてああいう人だけ舞台照明でも当たっているみたいに見えるんだろう、と、去年の私は思った。


 思ったけれど、それだけだ。

 だって関わることなんてないのだから。


「今日もすごいよ。朝から女子が廊下にいっぱい」

「……そうなんだ」

「そうなんだ、で終わるあたりが栞だよねえ。普通ちょっとは気にならない?」

「気にならないわけじゃないけど……私には関係ないし」


 そう言うと、ひまりはにやにやしながら肘をついた。


「その“私には関係ないし”って顔、いつか痛い目みるよ」

「どういう意味?」

「人生何があるか分かんないって意味」

「そんなドラマみたいなこと」

「いや、意外とあるからね? 少女漫画読まないの?」

「読むけど、あれは本の中の話でしょ」

「夢がないなあ」


 ひまりがわざとらしくため息をついたところで、チャイムが鳴った。

 そのまま彼女は席に戻っていく。


 私は少しだけほっとして、机の上の文庫本を鞄にしまった。


 今日の放課後は図書委員の当番がある。

 返却本の整理と、新しく入った本のラベル貼り。地味で静かで、私にぴったりの仕事だ。


 そういう予定を頭の中で確認していると、教室の外がまた一段とうるさくなった。


 きゃっとか、うそっとか、そんな声が廊下から漏れてくる。


 ああ、たぶん。

 一条くんが来たんだろうな。


 私はわざわざ確認しなかった。

 確認する必要もない。


 だって、関係がないから。


 ――そう思っていた、その日の朝までは。


   ◇ ◇ ◇


 四時間目が終わって、昼休みになった。


 私は購買に行く人の流れが落ち着いてから動くつもりで、席で小さく息をつく。お弁当は朝、お母さんが持たせてくれたものがあるし、急ぐ必要はない。


 窓の外では、運動部の子たちが元気に笑っている。教室の中では、グループができあがっていて、みんなそれぞれに楽しそうだ。


 私はそのどれにも属していないわけじゃない。ひまりはいるし、話せる子もいる。でも、自分から輪の真ん中に行くことはない。


 静かな場所の方が落ち着く。


「栞、一緒に食べよ」


 ひまりが自分のお弁当箱を持ってやってきたので、私はうなずいた。


「いいよ」

「やった。今日はね、玉子焼きがいい感じなの」

「毎回同じこと言ってない?」

「言ってる。でも今日はほんとにいい感じ」


 そんな他愛のないやりとりをしていた、そのときだった。


 教室の入口近くが、ふっと静かになった。


 それは本当に一瞬のことだったのに、空気が変わったのが分かった。

 人のざわめきが、波みたいに引いていく。


 私は何となく顔を上げて、そして固まった。


 教室の入口に立っていたのは、ひまりが朝から散々名前を出していたその人だった。


 一条恒星。


 窓から差し込む春の光を受けて、白いシャツも、濃紺のブレザーも、きれいすぎるくらい整って見える。背が高くて、姿勢がよくて、歩き方に無駄がない。顔立ちは整っているのに冷たすぎなくて、誰かに笑いかければ、それだけで絵になるような人。


 やっぱり、住む世界が違う。


 私とは関係のない、遠いところの人だ。


 ……のはずなのに。


 その人が、まっすぐこちらを見ていた。


 いや、こちらじゃない。

 私を見ていた。


 さすがにそれは勘違いだと思いたかった。けれど、恒星は迷わずこちらへ歩いてくる。


 クラス中の視線が、その軌道を追っていた。

 その軌道の終点が、私の机だと気づいて、心臓が変な音を立てる。


「え」

 思わず、声が漏れた。


 ひまりは口を半開きにしている。

 近くの女子たちは露骨に息を呑んでいた。


 そして恒星は、私の机の前で立ち止まった。


「朝比奈さん」


 柔らかい声だった。

 耳に届くのに、妙に近い。


 私は瞬きを忘れたまま、その顔を見上げる。


「……はい」

「少しだけ、いいかな」

「えっと……な、何でしょう」


 声が裏返りそうになるのを、どうにかこらえた。


 どうして名前を知っているの。

 どうして話しかけてくるの。

 なんでよりにもよって、こんな注目されるところで。


 頭の中に疑問がいくつも浮かぶのに、口から出てくるのは情けない短い返事ばかりだ。


 恒星はその様子を見て、少しだけ苦笑した。

 笑われた、という感じではない。困らせてしまったことを申し訳なく思っているような笑い方だった。


「そんなに緊張しなくて大丈夫。取って食べたりしないから」

「……は、はあ」

「それ、図書室に返しに行く本?」


 視線が私の机の上へ落ちる。

 そこには昼休みに返却しようと思っていた本が一冊置いてあった。


「あ、はい」

「やっぱり。朝も持ってたよね」

「……朝?」


 私が聞き返すと、恒星は一瞬だけ目を細めた。


「ああ、ごめん。廊下で見かけたから」

「見かけた……」

「うん。朝比奈さん、いつも本を大事そうに持ってるから、印象に残る」


 その言い方が、あまりにも自然で、私はかえって混乱した。


 印象に残る?

 私が?

 どうして?


 返事に詰まっていると、後ろからひまりが、遠慮という概念を捨てた声で割り込んできた。


「え、あの、一条くん。うちの栞に何の用?」

「瀬名さん、だよね。いつも朝比奈さんと一緒にいる」

「え、わたしのことも知ってるの!?」

「有名だよ、明るくてよく笑うって」

「それ褒めてる?」

「もちろん」


 ひまりは「やだ感じいい……」と小さくつぶやいている。

 いや、そっちに感心してる場合じゃない。


 私は意を決して口を開いた。


「……あの、私に何か」

「うん。図書委員、今日当番だったよね」

「え」

「先生に頼まれて、図書準備室の鍵を届けに来たんだ。朝比奈さんに渡せばいいって」


 そう言って、恒星はポケットから小さな鍵を取り出した。

 銀色のキーホルダーが光を弾く。


 私はそれを見て、ほんの少しだけ安堵した。

 な、なんだ。用事があっただけなんだ。


 そうだよね。

 そうじゃなかったら困る。


「ありがとうございます」


 できるだけ平静を装って受け取ろうとした、その瞬間だった。


 恒星の指先が、私の指にわずかに触れた。


 たったそれだけで、心臓が跳ねる。

 情けないくらい、分かりやすく。


 私は慌てて手を引っ込めてしまった。


「あ……」

 自分でやっておいて、自分で青ざめる。


 感じ悪かった。

 絶対、感じ悪かった。


 でも恒星は眉ひとつ動かさず、むしろ少しだけ目元を和らげた。


「ごめん、驚かせた」

「い、いえ、違います、そうじゃなくて」

「うん」

「……」

「……」

「…………」


 終わった。

 会話が終わった。


 沈黙が気まずすぎて、私は穴があったら入りたかった。たぶん今、教室中が見ている。ひまりですら助け船を出せずにいる気配がある。


 すると恒星が、少しだけ身をかがめた。

 人に圧をかけないようにする動きが、あまりにも自然だった。


「放課後、図書室に行くよね」

「え」

「その鍵、返す場所分かる?」

「た、多分……職員室、ですか」

「ううん。今日は先生が会議でいないから、図書準備室の机の上に置いておけばいいって」

「そ、そうなんですね」

「もし分からなかったら、俺、あとでいるから」


 俺、あとでいるから。


 どういう意味なんだろう、その言葉は。


 でも聞き返す前に、恒星はふっと微笑んで、少しだけ距離を取った。


「じゃあ、またあとで」

「……え?」


 またあとで。


 まるで、私たちの間に“続き”があるみたいな言い方だった。


 恒星はそれだけ言って、教室を出ていった。

 廊下の向こうで再びざわめきが起きる。


 私の耳には、もう周りの声がうまく入ってこなかった。


「えっ、何!?」

 最初に我に返ったのはひまりだった。

「何あれ何あれ何あれ! ねえ栞、どういうこと!?」

「し、知らない……」

「いや知らないじゃないでしょ、今の見た!? クラス全員見てたよ!?」

「だから私だって知らないの」

「鍵渡しに来ただけであんな感じになる!?」

「ならないと思う」

「でしょ!?」


 ひまりが机をばんっと叩いた。


 近くの子たちも遠慮なくこちらを見ている。

 聞こえるか聞こえないかの声で、「なんで朝比奈さん?」「前から知り合いだったのかな」と話しているのが分かった。


 やめてほしい。

 見ないでほしい。

 私はこういうの、本当に無理なのに。


 けれど一番混乱しているのは、たぶん私自身だった。


 だって、意味が分からない。


 一条恒星みたいな人が、どうして私の名前を知っているのか。

 どうして図書委員の当番まで知っているのか。

 どうしてあんな、前から話しかけるのが当たり前みたいな顔をしていたのか。


 何より――。


 さっき彼が少しだけ目を細めて笑ったとき。

 ほんの一瞬だけ、胸の奥で何かが引っかかった。


 懐かしい、ような。

 でもそんなはずはない、ような。


 知らない人のはずなのに。

 遠い世界の人のはずなのに。


 どうしてか、その笑い方だけが、妙に心に残った。


   ◇ ◇ ◇


 放課後、私はいつもより少し遅れて教室を出た。


 騒ぎが収まるのを待ちたかったのもあるし、何より、一人で考えたかった。


 ひまりは部活の見学があるらしく、途中まで一緒に来てくれたあと、「絶対あとで報告して」と念押しして去っていった。


 廊下は西日でオレンジ色に染まり始めている。

 昼間の賑やかさが薄れて、校舎が少しだけ静かになるこの時間は好きだ。


 図書室へ向かいながら、私は何度も鍵の感触を確かめるみたいに、スカートのポケットの上から指先を押し当てた。


 ひんやりしている。


 現実だ。


 昼休みの出来事が夢じゃなかった証拠みたいで、妙に落ち着かない。


「……意味分かんない」


 誰もいない廊下で、小さくつぶやく。


 本当に意味が分からない。

 たまたま先生に頼まれた。それだけ。それだけのはずだ。


 そう思い込もうとしている自分に、もう一人の自分が突っ込む。

 それだけで、あんなふうに名前を呼ぶ?

 それだけで、“またあとで”なんて言う?


 私は首を振った。

 考えても仕方がない。

 こういうのは、勘違いした方が負けだ。


 女子が勝手に意味を見出して、あとで恥ずかしくなる。

 そういうの、見てきた。


 私はそうなりたくない。


 図書室の前に着いて、引き戸を開ける。

 中は静かで、紙の匂いがして、ようやく少しだけ呼吸がしやすくなった。


「失礼します」


 今日は利用者も少ないらしく、カウンターの向こうで司書の先生が「あら、朝比奈さん。よろしくね」と穏やかに笑った。


 それだけで、肩の力が抜ける。


 私はやっぱり、こういう場所が好きだ。

 余計な視線が少なくて、誰かの期待に応えなくてもよくて、静かに役割を果たせる場所。


 返却本を棚へ戻し、新しい本のラベルを貼り、貸し出しカードの整理をする。

 単純な作業に集中していると、さっきまでぐるぐるしていた頭の中が少しずつ整っていく。


 そう。

 昼のことは、たまたまだ。

 明日にはきっと何もない。


 きっと私はまた、教室の隅で静かに過ごして、ひまりと少し話して、放課後は図書室に来る。

 そういう毎日に戻る。


 そのはずだった。


「あれ、やっぱりいた」


 低くて柔らかい声が、図書室の入口から聞こえた。


 私は本を持ったまま、動きを止めた。


 振り返らなくても分かる。

 分かってしまう自分が嫌だった。


 ゆっくりと振り向くと、夕方の光を背にして、一条恒星が立っていた。


 昼休みと同じ整った姿なのに、図書室の静けさの中だと、なぜか朝や昼よりずっと現実味がない。


 司書の先生が「あら、一条くん。鍵、届けてくれたのよね。助かったわ」と笑う。


「いえ、こちらこそ」

 恒星は先生に軽く会釈してから、まっすぐ私を見た。

「朝比奈さん、ちゃんと来てくれてよかった」


 ちゃんと来てくれてよかった。


 それは別に変な言葉じゃない。

 なのに、なぜか胸に残る。


「……当番なので」

「うん、知ってる」

「……そう、ですね」


 まただ。

 “知ってる”の言い方が、いちいち引っかかる。


 私が返事に困っていると、司書の先生が空気も読まずに、にこにこと言った。


「一条くん、ちょうどよかったわ。朝比奈さん、準備室の机に鍵を戻しておいてくれる? あなた、場所分かるでしょう」

「はい」

「じゃあ案内してあげて。先生、貸し出し対応があるから」

「分かりました」

「え」


 思わず声が出た。

 案内って。二人で?

 そんな必要ある?


 でも司書の先生はまるで疑問を持っていない。

 恒星も当然のように「こっち」と言う。


 私は断る理由を探した。でも、見つからなかった。


 図書準備室は図書室の奥、普段生徒があまり入らない小部屋にある。距離はほんの数歩なのに、その数歩がやけに長く感じた。


 扉の前で、恒星が先に開けてくれる。

 そういう仕草がいちいち自然すぎて困る。


「どうぞ」

「……ありがとうございます」


 中は小さな机と棚が並ぶ、こぢんまりした部屋だった。

 私は言われた通り、鍵を机の上に置く。


 よし、終わり。

 これで戻ればいい。


 そう思って振り返ると、扉のところに立っていた恒星と目が合った。


 距離が近いわけじゃない。

 でも逃げ場がないような気がして、私はつい目を逸らした。


「あの」

 先に口を開いたのは私だった。

「昼も、今も……ありがとうございました」

「こちらこそ」

「……え」

「ちゃんと話せて嬉しかったから」


 さらっと言われて、息が止まる。


 そんなこと、どう返せばいいの。

 私みたいな地味な女子に、学校一の有名人が、そんな顔で言うことじゃない。


「……私、たぶん、何か勘違いしてるんだと思います」

「勘違い?」

「その……一条くん、誰にでも優しいから」


 言いながら、自分で自分が嫌になる。

 何を言っているんだろう。

 責めたいわけじゃない。期待したいわけでもない。

 ただ、これ以上訳が分からなくなる前に、線を引きたかった。


 恒星は少しだけ黙った。

 それから、静かに問い返す。


「俺が誰にでもこうしてるように見える?」

「……見えます」

「そっか」


 その返事は、少しだけ苦かった。


 怒ったわけでも、否定したわけでもない。

 ただ、何かを飲み込んだみたいな声だった。


 私は胸の奥がちくっと痛んだ。

 でも、どうして痛むのか分からない。


 恒星はそのまま、やわらかく笑った。

 昼休みのときの、あの笑い方だった。


「じゃあ、今はそれでいいよ」

「……今は?」

「うん。朝比奈さんが困るようなことはしたくないから」


 困るようなことはしたくない。

 それなのに、もう充分困っている。


 ……とは言えなかった。


 代わりに、私はうまく笑えもしないまま、曖昧に頭を下げた。


「失礼します」


 準備室を出ようとした、そのとき。


「栞」


 呼ばれたのは、名字じゃなかった。


 私はその場で立ち止まった。

 心臓が、今度こそ本当に跳ねた。


 ゆっくり振り向くと、恒星自身も一瞬だけ驚いたような顔をしていた。

 たぶん、無意識に出たのだ。


「あ……ごめん」

 彼は珍しく言葉に詰まった。

「その……朝比奈さん」


 私は何も言えなかった。


 今のは、聞き間違いじゃない。

 たしかに彼は、私を名前で呼んだ。


 どうして。

 どうしてそんな呼び方を。


 私が混乱のあまり立ち尽くしていると、恒星は小さく息をついて、困ったように笑った。


「今日はもう帰ろう。また……」

 そこで少しだけ間を置いて、

「また、明日」


 今度は“あとで”じゃなくて、“明日”だった。


 私はうなずくことしかできないまま、図書室を出た。


 廊下の窓は夕焼けで赤く染まっている。

 誰もいないはずのそこを、私は少し早足で歩いた。


 足音が響く。

 胸がうるさい。


 名前を呼ばれただけだ。

 それだけなのに。


 ただ、その響きが妙にしっくりきてしまったことが、いちばん怖かった。


 まるで前にも、どこかで。

 ずっと昔に、同じように呼ばれたことがあるみたいに。


   ◇ ◇ ◇


 帰宅すると、台所からだしの匂いがした。


「ただいま」

「おかえり、栞。手、洗ってきなさい」

「うん」


 お母さんの声に返事をして、洗面所で手を洗う。

 鏡に映る自分の顔は、少しだけ赤かった。


 変だ。

 こんなの、本当に変だ。


 リビングへ行くと、ソファで新聞を読んでいた父が顔を上げた。


「おう、おかえり」

「ただいま」

「新しいクラスどうだ」

「普通」

「その“普通”は信用ならんな」

「どういう意味」

「栞の普通は、大抵、何か隠してるときの普通だ」


 ぎくりとした。

 やめてほしい。父はときどき変なところで勘がいい。


「別に何もないよ」

「そうか?」


 父は新聞を畳んで、ふと思い出したように言った。


「そういや、一条さんのところの坊ちゃん、おまえと同じ学校だったな」

「……え?」


 私は思わず顔を上げた。


「一条、さん?」

「ほら、父さんの学生時代の友達。前に何度か家族で会っただろ。おまえ、小さい頃に向こうの子と遊んでたじゃないか」

「……遊んでた?」


 頭の奥で、何かが微かにきしむ。


 小さい頃。

 誰かの家の広い庭。

 白いテーブル。

 泣きそうな男の子。

 私の後ろをついてきた、小さな足音。


 でも、顔は浮かばない。

 名前も、はっきりしない。


「覚えてないのか?」

「……男の子と遊んだような記憶、ちょっとだけあるけど」

「そうかあ。まあ小さい頃だもんな。向こうの坊ちゃん、立派になったらしいぞ」

「……へえ」


 私はそれだけ返して、食卓へ向かった。


 立派になった。

 そんな言い方をされる人と、今日の昼に話した。

 今日の放課後、名前を呼ばれた。


 まさか。

 そんな偶然、あるんだろうか。


 でも、もし本当にそうだとしても。


 どうして彼は、私なんかのことを覚えているのだろう。


 私は曖昧な記憶しかないのに。

 向こうは、私の名前を知っていて、図書委員の当番まで知っていて、名前を呼ぶ声があんなに自然だった。


 意味が分からない。


 分からないのに、胸の奥だけが落ち着かない。


 その夜、布団に入ってからも、昼休みの教室と、夕方の図書準備室の空気が何度も頭に蘇った。


 まっすぐに私を見る目。

 少しだけ苦そうに笑った顔。

 そして――


『栞』


 たった一度呼ばれただけの名前が、どうしてこんなに残るんだろう。


 私は布団を頭まで引き上げて、ぎゅっと目を閉じた。


 明日にはきっと、何でもなくなる。

 あれはただの偶然だ。

 先生に頼まれただけ。

 それ以上の意味なんて、あるはずがない。


 そう自分に言い聞かせながら。


 胸のどこかで、ほんの少しだけ。

 明日を待っている自分がいることには、まだ気づかないふりをした。

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