表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

放課後の月と星

作者: 有未

 私の傷みなど何でもないフリをして、私は歩いたり立ち止まったりしていた。高校卒業時に進路が決まっていなかった私を見ないフリをしていた担任の教師は、それに触れることなく私を社会に送り出した。私は社会の中で迷子だった。家から近いというだけで始めたアルバイトは長続きしないで辞めてしまうし、欲しいものも取り立ててなくて、何事にも興味が湧かなかった。時々、頭の中で空想をしていた。「ここに伊藤(いとう)瀬奈(せな)という人間がいますという立て看板を立てたら誰かが読んでくれるのかな」と。私の母は私の立てた「ここは花畑です」という看板を無視して花畑を荒らしては去って行くを繰り返す、野生の獣の如くだったから、早くここから私は逃げなくてはと思っていた。でも、どうしたら良いのかを良く分かっていなかった。


 私は成人を迎えても、お金さえあれば良いのかなというふわふわとした考えでアルバイトをしては辞めるを繰り返して貯金をしながら時間を潰した。やがて五十万円が貯まった頃に私は誰にも行き先を告げずに実家を出た。逃げ出した。お金さえあれば良いのかもしれないというふわりとした考えのまま小さなアパートを探し、プロパンガスはガス代が高いと知らないままにそこに引っ越し、お風呂場も台所も部屋も何もかもが小さい家で一人で暮らし始めた。高校の同窓会のお知らせがその二年後に届き、私は別に理由もなく出席にマルを付けてハガキを返送し、居酒屋さんで開かれた同窓会に出席した。そこで再会した、小西(こにし)良一(りょういち)君とメールアドレスを交換した後、私が一人で帰路に就こうとしたら良一君が追い掛けて来たところから私達二人の追い掛けっこは始まっていたのかもしれない。いや、もしかしたら、もっと前から。


「待って、帰るの?」


「うん」


 それだけの会話で、私達二人はコートを着てマフラーを巻いて、残った同級生達に適当に挨拶をして居酒屋さんを抜け出した。良一君が付いて来ていることを、何で付いて来るのだろうと私はお酒が一滴も入っていない心で思っていた。何で良一君は付いて来るのなんて言ったら失礼かなあと考えていたら、「寒いね」と夜の空を見ながら隣で良一君が言った。だからつられるように私も「寒いね」と言って冬の空を見上げてみた。細い細い三日月と、一粒の星が一直線で結ばれて輝いていた。


「えっと、良一君だよね」


「うん」


「何で私とアドレス交換したの?」


「在学中に教えて貰えなかったから」


「そうだっけ? そうかも」


「瀬奈さんはほとんどの人に教えてなかった気がする」


「そうだね」


「もっと話してみたかったんだ、瀬奈さんと」


「私と?」


「そう」


 そこまで話した後、私が良一君を見上げると目が合った。


「たまにメールして良い?」


「うん、良いよ」


 ――私達は高校三年間、同じ進学クラスだった。良一君は早々に大学への推薦が決まって同じクラスの男子と楽しそうに過ごしていたことを覚えている。一方、私はと言えば進学も就職も決まらずにふらふらと残された高校三年生の時間を過ごしてしまった。良一君とは時々だけど話したことはあった。高校の図書室で一緒になった時や、私が遅刻して来た時や早退した時に良一君が声を掛けてくれた。私はそれが、少しだけ嬉しかった。






 私の携帯電話に「小西良一君」という連絡先メモリが追加されて三日後に、良一君からメールが来た。良かったら休みの日に一緒に出掛けないかという誘いだった。私は良く分からないままにOKし、お互いの休みである土曜日に動物園に行った。その動物園は私が小さい頃に家族で一度だけ来た場所で、特別な思い出ではないものの、懐かしい感じがした。その懐かしさを高校の同級生だった良一君と一緒にいる時間で覚えているのは、どこか不思議な感じがした。


「イルカショー、もうすぐだって。見る?」


「うん、見る」


 私達はイルカショーの始まる午後三時にイルカのいるプール前の席に並んで座った。やがてイルカがすいすいと一頭、泳いで登場し、すぐに続いて飼育員さんが一人、やって来た。イルカのルルちゃんです、ルルちゃん、皆さんにご挨拶出来る? と飼育員さんがルルちゃんを見ながら言うと、キィとルルちゃんは小さく鳴いて、ぺこと首を下げた。私は、それだけで泣きそうになってしまう。


 ルルちゃんは飼育員さんの合図で、高い位置にあるボールにジャンプしてくちばしでタッチしたり、水面に浮かぶフラフープを首に集めたりした。くるくるとプールの中で泳いで、ぺこと首を下げて見せるルルちゃんに私は夢中だった。最後の拍手の時、私の目から知らずに涙が伝った。それに気が付いた良一君がハンカチを差し出してくれた。その時の良一君は、とても優しい目をしていた。私が高校在学中にも見たことがなかったくらいに。でも、もしかしたらずっと前から良一君はこうだったのかもしれない。私が気が付いていなかっただけで。






 良一君からは、ちょくちょくメールが届いた。私の携帯電話の上部にメールの封筒マークが付くと、私はいつしか期待してメールを開くようになっていた。


 私達は色々な所へ一緒に行った。水族館、カラオケ、紅茶専門店、プラネタリウム、ハンバーグ屋さん。どれも楽しくて、私は宝物の思い出がどんどん増えて行った。ああ、私は幸せなのかもしれないと、ある日に思った。かもしれない、というのは自信がなかったからだ。これが幸せだと、私は分からなかった。






 ――高校生の時、バス代もお昼ごはん代も私は多くを母から貰えなかった。父が亡くなって、私の家にはあまりお金がないのかもしれないと思い、私は特に不満に考えたことはなかった。けれども、私の妹が高校生になった時、母はお小遣いを妹に沢山渡していたし、毎日お弁当も作って持たせていた。その自分との違いに私はショックを受けた。


 もともと、仲の良い家族ではなかった。父が亡くなってから、それはより顕著になったように思う。私は引っ越す時に、押し入れの奥に仕舞われていた子供の頃の私の写真が収められているアルバムを三冊、持ち出した。そこには笑う私と、それを見守る母や父や親戚の姿があった。もう、私はそれだけで良かった。愛されていたのなら、もうそれで良いのだと。私は一人、引っ越して新しい家で暮らして行ける。その思いを胸に私は二年をこのアパートで暮らした。そして、小西良一君と再会し、温かい心を教えて貰った。それでも私は自信が持てなかった。幸せにも、自分にも。いつかこの温かさはなくなってしまう。そんな不安ばかりが何度も何度もよぎった。






「もうすぐ瀬奈、誕生日だね。何か今、欲しいものある?」


 暑い八月のお盆休み、私の小さなアパートで私と良一君は過ごしていた。私の作った水出しアイスティーをおいしそうに飲み、良一君は私に言った。


「誕生日、言ったことあったっけ?」


「高校二年生の時に、瀬奈が友達と話していたのが聞こえて来て。覚えてたんだ」


「すごい記憶力」


「そうでもないよ。瀬奈のことだから、覚えていたんだよ」


 そっか、と私が笑うと、そうそう、と良一君も笑った。


「八月二十二日でしょ?」


「うん」


「どこか一緒に行く?」


「うーん、毎年のことだけど、私の誕生日は夏だから暑くてあまり出掛ける気持ちになれないんだよね」


「じゃあ、俺の家に来る? 冷房ヒンヤリさせてさ」


 そういえば私は良一君の家にまだ行ったことがなかったと思い当たる。


「行ったことなかったね」


「そうそう、いつも外デートか、瀬奈の家デートだったから」


「一人暮らし?」


「そう。あまり物がない部屋で、殺風景かもだけど。もう少し温かみのある部屋にしたいんだけど、良く分からないんだよね。瀬奈の部屋は植物が置いてあったり、紅茶があったり、なんか良いなって思う。なんだっけ、あの葉っぱ」


 良一君は窓際に置いてある鉢を見て言った。


「ポトスだよ。ホームセンターで買ったの」


「ポトスか。前に家に来た時より伸びてない?」


「伸びていると思う。どんどんお日様に当たって、お水飲んで伸びて行ってる」


「元気だなあ」


 良一君はアイスティーを飲んで、笑ってそう言った。その横顔が、私はとても好きだった。


「じゃあ、瀬奈の誕生日は俺の家でデートにしよっか」


「うん。ありがとう」


「いえいえ。欲しいもの、何かある? 俺、女の子の好きなものとか良く分からないんだよね。瀬奈の好きなものは覚えたいんだけど」


「欲しいものは、私はずっと貰っているから。良一君から」


「え?」


 きょとんとした良一君に私は両手の指でハートを作って見せた。


「照れる」


 それだけ言って頭に手を遣りながら良一君は笑った。私はこの時間が何よりも大切に思えた。






 ――私には、ずっと不安があった。それは足元から音もなく伸びて来る影のようで、私にずっと付いて来ているものだった。私は生まれて来て良かったのかなという思いが、ずっとずっと私の心の奥底に沈んでいた。その疑問は薄暗い花を私に見せ付けるかのようにして咲いて見せていた。


 引っ越しの時に持ち出したアルバムを、あれから私は開くことはなかった。少なくとも小さな頃の私は愛されていたのだから、もうそれで良い、もうそれで充分だと思った。今更、アルバムを開かずともその事実を私が忘れることはないのだから。


 もうすぐ、私の二十五回目の誕生日が来る。八月二十二日。私は毎年、この日をうまく遣り過ごしていた。まるで、明日の天気は晴れですねとか、今日の夜ごはんは何にしようとか、そういうささやかで何てことない思いを考えるようにして、その日が過ぎるのを待つとはなしに待っていた。友人がお祝いのメールをくれて、それに対してお礼のメールを書いて。それだけに留めていた。ケーキを買うことも、プレゼントを買うこともなかった。そうすることが私の中の真実だと思っていたのかもしれない。明確にではないが、そう思う。


 高校生活のことを、私は未だに時々、思い出す。その思い出の中に良一君がいることを、私は嬉しく思う。図書室で私が宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んでいた時、向かいで良一君も本を読んでいたこと。私が遅刻してお昼休みに教室に入った時、良一君はいつだって「おはよう」と言ってくれた。早退する時は「大丈夫?」と声を掛けてくれた。当時の私は、それらがどれほどに大切な光であったか分かっていなかった。でも、嬉しかった。ただ、ひたすらに嬉しさだけが込み上げていた。それを、つい昨日のことのように思い出す。今も良一君が傍にいてくれているからだと思う。そこに、夢をみてしまう。愛されているかもしれないと、夢をみてしまう。そして、考えてしまう。私は良一君を好きでいる? と。愛している? と。誰でも良かったわけでは決してない。むしろ、私は誰かを好きになることは難しいのではと思っていた。誰かに心を寄せる日が来ることは思いもしなかった。


 ――そうだろうか? 私は私を疑う。本当は、誰かを好きになってみたかった? 本当は、誰かを愛したかったのだろうかと。私は私に疑問を投げ掛ける。好きになる人を本当はずっと探していたのかもしれない。どこか、心の片隅で。再会した良一君は、優しかったから。高校生の時の思い出があるから。もっと、この人のことを知りたいと思ったのは、嘘ではないけれど。


 眠りに落ちて行く束の間、私は脳裏に良一君の笑顔を思い出す。私は私の誕生日に、笑顔で良一君と会えるだろうか。そればかりが私の心の表面を滑って行く。留まることなく、何度も、何度でも。繰り返し。答えが出ないままに。







 八月二十二日。私の誕生日は白い雲が少しだけ青空に浮かんでいる、良く晴れた日になった。私の最寄り駅に良一君は迎えに行くと言っていたけれど、私はそれを断って一人で電車に乗った。ガタガタと音を立てて走って行く電車の窓から流れて行く景色を見ていると、私の心の中に過ぎて行った思い出が浮かんでは消えて行く。父が亡くなったこと。母が妹には優しかったこと。高校での勉強も友人との会話もつらかったこと。でも、良一君が声を掛けてくれたこと。お金を貯めて、一人暮らしを始めて、何とかやって行けていること。高校の同窓会で良一君と再会して、一緒に帰ったこと。そういった点となる思いが次々と浮かんでは遠ざかって行く。こうして目に映る景色も、早く遠くに流れて行く。まるでテープの早送りのように。私など、ここにいないかのように。


 昔、時々、頭の中で空想をしていたことを思い出す。「ここに伊藤瀬奈という人間がいますという立て看板を立てたら誰かが読んでくれるのかな」と考えていた。いつか誰かが私に気付いてくれるかもしれないと、お姫様のように夢をみていたのかもしれない。もうそろそろ、そんな自分には別れを告げよう。私はもう大人で、自分のことを冷静に見つめ直して行けるはずだ。今日が誕生日だからと言って、暗くなる必要性など、どこにもない。どこにもないのだ。私がバッグの持ち手を持ち直すと、電車内に次の駅名を知らせるアナウンスが流れた。良一君の家の最寄り駅だった。私は気持ちを切り替えるように車窓から空を見上げた。少しの白い雲が浮かんだ綺麗な夏の青空が、ただ広がっていた。


 私が駅の改札口を出ると、良一君はもう来てくれていた。私がひらりと手を上げると、良一君も手を上げて合図して見せる。


「待った?」


「いや、五分くらい前に来ただけだから気にしないで」


 良一君は「瀬奈」と、私の名前を改めて呼び、私が良一君を見上げると「誕生日、おめでとう」と笑顔で言ってくれた。


「ありがとう!」


 ――その時の私の感情は、複雑なものだった。ぴょんと跳ねたいくらいに嬉しかった自分と、私がここにいる理由について不意に考え込んでしまった自分。私は後者について「今は考える時ではない」と思い、振り払った。


 行こう、と良一君は歩き出す。私は隣に立ち、少しだけ緊張を覚える。良一君の家に行くのは初めてだし、知らない街を歩くのはドキドキとした。すると、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、いつもの調子で良一君は話し始めた。


「今日も暑いね。部屋、ヒンヤリにしておいたから。十分もしないで着くよ」


「ありがとう。夏って感じだよね」


「ねー。青い空、白い雲、輝く太陽。高校の時、夏期講習あったのつらかったな。参加自由だったけど、ほとんどみんな参加するから義務っぽいところあったし」


「あったね。でも、私はほとんど行かなかったな」


「確かに瀬奈とあまり会わなかったね。でも、一回だけ靴箱の所で一緒になったことあるのを覚えてる」


「私がペットボトルの紅茶、あげたよね」


「そうそう。あれ、冷えていておいしかったー。帰りに学食前の自販機に寄って買うっていう発想が俺にはなかったから。水筒のは、ぬるくなってたし。助かったんだよね」


「紅茶を買うくらいしないと、学校に来た意味がないとか思ってたからね。夏期講習、少しだけ出たけど、それでも疲れててつらかったから」


「そっか。なんかさ、高校生の時の延長上みたいで、瀬奈とこうやって一緒にいるの、俺はとても好きなんだ。本当はさ、高校生の時に瀬奈ともっと話したかったんだ。でも、女子と話すの緊張するなとか思っててさ。瀬奈、遅刻と早退が多かったから、大丈夫かなって心配もしてて。朝にいなくてもお昼には教室にいることもあったし、逆に朝はいてもお昼過ぎにはいなくなってることもあったし。だんだんさ、瀬奈が教室にいるか目で探すようになってたんだ」


「そうだったの?」


 私が良一君を見上げて聞くと、うん、と良一君は私を見て頷いた。そしてまた、視線は前方に向けられる。


「三年間、同じクラスにいたのに、瀬奈と話したのは少しだけでさ。本当は卒業式の日に連絡先をもう一度、聞こうと思ってたんだ。でも、式が終わって少し友達と話していたら、もう瀬奈は教室にいなくてさ。帰ったのかな、って。その時、何て言うかさ……」


 良一君は言葉を切り、不意に私を見た。少しして再び視線を前方に戻した良一君は、言葉の続きを話してくれた。


「すごく、後悔した。もっと瀬奈と話しておけば良かったって。どんな本が好きかとか――そういえば、図書室で銀河鉄道の夜を読んでいたことがあったよね。他にもさ、音楽は何を聴くかとか。連絡先だって、もっと早めにもう一度、聞いてみれば良かった。そうやってグルグル気持ちが頭の中を回ってさ。俺は大学に行ったけど、高校の時の方が楽しかったんだ。大学でも友達は出来たし、高校の時の友達にも時々は会ってた。でも、瀬奈がいないって考えてしまってさ。元気かなあって、ずっと思ってたよ。だから、こうして会えている今がとても嬉しい。大切にしたいって思ってる」


 そこまで一息に話して、良一君はバッグからペットボトルを取り出した。


「あ、それ……」


「これ、瀬奈に貰った紅茶。無糖だから飲みやすくてあれから良く飲んでるんだ。瀬奈の分、あるよ」


 そう言って良一君は立ち止まり、私に紅茶を手渡してくれた。それは、まだ良く冷えていた。


 私達は一緒にペットボトルの蓋を開けて、紅茶を飲んだ。私にとって、良く知った味だ。大好きな紅茶の味。高校生活の中で、少ないバス代とお昼ごはん代を削って、私は時々、これを飲んでいた。学食の前にある自販機でこの紅茶を買うことが、私の高校生活における小さな光の一つだった。


 不意に私は泣きそうになった。もう戻れない、高校生の時間。特別に楽しかったわけではない。むしろ、毎日がつらかった。友人は皆、お弁当を持って来ていたり、好きなパンを学食で買ったりして、休日はカラオケに行ったりもしていた。私には、それが出来なかった。アルバイトも禁止されていて、私はどうしたら良いか悩んだ末に、どうにもしないことを決めた。高校が終わるまで、もうただひたすらに通おうと。その結果、卒業は出来たけれど私は進学も就職も決まらなかったし、私自身に何も残らなかったように思えた。自分のせいだと思っていても、それでもつらかった。私の家庭環境がもっと良かったらと思うこともあった。でも、それは思っても仕方ないことだと分かっていた。分かっていた、つもりだった。


「瀬奈、どうかした?」


 いつしか俯いていた顔を上げると、良一君が私を心配そうに見ていた。


「ううん。高校生の時のことをちょっと思い出しただけ」


「そっか。あれからかなり時間が流れたけど、あっと言う間だった気もするし、長かったような気もするし……」


 行こっか、と良一君はペットボトルの蓋を閉めて言った。うん、と私も同じようにして良一君の隣を歩いた。


 駅前の街路樹の通りを過ぎると、静かな住宅街に入った。家々の間を縫うようにして私達は歩いた。やがて見えた五階建てのマンションの前で、良一君が「ここ」と立ち止まった。チョコレート色のそのマンションを私は見上げて、良一君に視線を戻す。


「何階?」


「五階。下見の時に空いていたから、一番上にしてみたんだ」


「良いかも」


「ね」


 エレベーターで五階まで上がり、通路の一番奥のドアまで二人で歩いた。カチャリとドアの鍵を開けて、良一君が「どうぞ」と手で示してくれる。私は少し緊張しながら「おじゃまします」と言って入った。


「暑いね。部屋はヒンヤリにしてあるから。洗面所は右ね」


「ありがとう」


 手を洗った私は、良一君が手を洗い終わるのをを何となく待っていたら「何だか待ってるの可愛いね」と言われて不意に嬉しくなった。


 良一君の部屋は言葉通り冷房が効いていて、ヒンヤリしていた。寒いかどうか聞かれた私は丁度良いよと答えて、勧められるままに青と白の座布団に座った。まるで今日の夏空のような座布団だった。フローリングの床の木目と同じ感じの模様をした小さなテーブルに、良一君が麦茶とケーキとクッキーを置いてくれた。


「不思議な感じ」


 私がそう言うと、麦茶を一口飲んだ良一君がこちらを見た。


「高校生の時には良一君とこんなに仲良くなるって知らなかった。未来のことは分からないから、当たり前だけど。もし、高校生の私が知ったらとってもびっくりしそう。良一君の部屋に遊びに行くようになるの? って」


「確かに。俺も瀬奈とこんなに話せるようになるって思ってなかった。同窓会で会えて良かった。なんとなく、瀬奈は同窓会に来なさそうだったから」


 私は麦茶を飲みながら、何と答えようか少しだけ考えた。あの時の私は確かに同窓会自体に興味があったわけではなかった。反射に近かったかもしれない。急にハガキが届いたから、勢いでマルにしてしまった? もしくは、逃げ出したかったのかもしれない。実家から逃げ出して来たのに? やっと小さな私だけの家で暮らしているのに、これ以上、私はどこに行きたかったというのだろうか。


「同窓会に行きたかったわけではないかも。ただ、自分の家と会社以外の暮らしを見たかったというか。ここではないどこか、って良く聞くフレーズだけど。そんな感じ。うまく言えないけど」


 私が麦茶の入ったグラスをかたんとコースターに戻すと、思ったよりも大きな音がしたように思えた。麦茶と氷が揺れている。


「一人暮らし、つらい?」


 不意に良一君が私の目を覗き込むようにして、そう聞いた。私はそれに対して、答えを持ち合わせていないような気がした。つらいかと聞かれればそうである気もしたし、つらくなどないような気もした。


「やっぱり、うまく言えないけど。つらいっていうのとは違う気がする。だけど、淡々と毎日が過ぎて行くから不安になる。家の私と、会社の私。他にも本当は私がいるのに、それをうまく認識出来ないというか。でも」


「でも?」


「良一君といる時は、すごく嬉しいんだ。一緒にいなくても。メールや電話をしている時も。時々、思うんだ。高校生の時、私は本当は良一君とこうやって過ごしたかったのかもって。それは、他の友人にも言える。だけど、あの時の私はそう出来なかった。家がつらかったから、そうじゃない家で暮らしているであろうみんなが羨ましかった。今なら、みんなにも悩みがあっただろうことは思える。でも、高校生の私は自分のことでいっぱいになっていた。私ね、本当は高校の時に良一君にメールアドレスを聞かれて嬉しかったんだ」


「そうだったの?」


「うん。私、びっくりもしたけど。嬉しかった。でも、素直になれなかった。他の友人にも。高校が終わっても付き合いが続くって思えなかったから。なんかもう、高校が早く終わることを願ってた」


「三年間、毎日、早起きして高校に行って勉強して帰るの繰り返し。今、思うと割とすごいよな。部活動もあったし」


「私は部活動は入っていなかったからすぐに帰ってたけど、学校にもいたくないし、家にもいたくないしでどうしたら良いか分からなかった」


「そうだったのか……。そういうの、誰かに話したりした?」


「ううん、誰にも。言ってもどうしようもないと思ってたし、実際、そうだったと思う。卒業して、アルバイトして、お金を貯めて、一人暮らしを始めて。会社に勤めて。これでうまく行くってなんとなく思っていたけど。うまく行っている気もするし……良く分からないけど」


 しんとした空気が漂った気がして、私は話題を変えようかなと考え始めていた。でも、良一君は真っ直ぐに私を見て言った。


「これからは、俺に言ってほしい。出来ること、少ないかもしれないけど。家は電車に乗るけど近いしさ、何かあったら行けるし。メールや電話も出来るし。瀬奈は一人でずっと考えてしまう気がして心配になる。一人の時間も大事だけど。一人になりたくない時もあるし」


「良一君もあるの? 一人になりたくない時」


 聞いて良いか分からないと思いつつも、私は良一君に尋ねた。


「あるよ、めっちゃある。俺は一人暮らし、好きだけど。でも、仕事から帰って来て、コーヒー飲んで、買って来た夜ごはんを食べたり、もしくは作って食べたりしてさ。ちょっと疲れたなって、何となく天井を見た時、何て言うかさ、胸の真ん中、ぎゅって掴まれたようなさ。難しいけど、言葉にするの。これで良いのかなとか、ここにいて良いのかなとか。そういう時にさ、瀬奈からメールが来るとすごく嬉しくて。来てなかったら俺からメールを書いて。送信して。返事が来て。本当に、すごく嬉しいんだ。好きなんだ、瀬奈が」


 私は良一君の言葉と笑顔を嬉しく思った。私も笑顔になるくらいに。でも、と思う。私のこの気持ちは恋や愛なのか、確信が持てなかった。同時に、良一君のその気持ちも恋や愛なのか、確信が持てなかった。そんなものは誰しも持てないものなのかもしれない。心は目に見えないのだから。正確に文章化することも数値化することも難しい、心。だから、信じるしかない。良一君の言葉と笑顔を。だけど、私は私を信じ切ることが難しかった。誰でも良かったわけではない。同窓会で良一君とメールアドレスを交換した時の心の音を、私は信じたい。どこまでも遠くまで続く道を一人で行くのだと思っていた私自身の隣にいてくれている良一君を、私は好きなのだと信じたい。


「ケーキ、良かったら食べて? ここのお店の、おいしいよ」


「うん、ありがとう」


 小枝のような飾りが載ったチョコレートのケーキを食べると、じんわりとした甘さが私の口の中に広がった。その甘さが、私を温かい気持ちにさせる。


「ありがとう、好きになってくれて」


 私は、自分でも驚くほど、素直に気持ちを良一君に伝えることが出来た。その時、これこそが私が高校生の時に良一君に伝えたかった気持ちと言葉だと思った。今ほどに深くなった気持ちではなかったとしても、私はずっと、高校生の時に良一君に救われていたのだ。


 ――不意に良一君も部屋も夏も遠ざかり、私は高校生の時の私に出会う。制服姿の私は、あの時の私とは思えないほどに、にこにこして私を見ていた。


 “本当は、ずっと言いたかったよね。ありがとうって”


 そう言う過去の私に、私は頷くことが出来た。


 長い時間が過ぎてしまったけれど。私はやっと、私の気持ちに向き合うことが出来た。


「瀬奈。俺こそ、ありがとうだよ。一緒にいてくれて」


「うん」


 にこ、と笑ってくれた良一君を見て、私もまた笑った。


「瀬奈。誕生日おめでとう」


 再び言われたその言葉に、私は頷いた。


「ありがとう、良一君」





 ――夏は日が落ちるのが遅いから、十八時になっても外はまだ明るいままだった。夕食を一緒に食べようかと良一君に誘われたけれど、私はケーキとクッキ―でお腹が一杯だからまた今度にすると断って、二人で最寄り駅までの道を来た時のように歩いた。まだ空はうっすらと水色をしていて、蝉が鳴いているのも聞こえていた。ぬるま湯のような暖かい空気の中を私達は無言で歩いていた。私は、何かを話したい気もしたし、このまま黙っていても良いような気もしていた。


 もし、高校生の時に良一君と付き合っていたら、こんな風に学校から最寄り駅までの道を一緒に歩いたりしたのかなと、私はふと思った。その思いに導かれるように良一君を見上げると、それに気が付いたのか、「ん?」と良一君が私を見た。私が「何でもない」と言うと、「そっか」とだけ良一君は言って前を向いた。


 まるで、放課後の続きのようだった。私と良一君は、高校生という時間の中で接点は少なかったかもしれないけれど。もし、高校という世界の中で、私がもっと勇気を出していたら。クラスメイト達に素直になれていたら。その世界は、違っていたのかもしれない。もう、過ぎてしまったことだけれど。私は前を見ながら、過ぎた時間のことを思い出していた。


 やがて、駅が見えて来た。ここまで歩いて来る間に、良一君と手を繋ぎたいなと思いながら、私はそう出来なかった。照れもあったが、私はどこか自分自身と良一君に対して後ろめたさがあった。きっと良一君の言葉に嘘はなくて。私の言葉にも嘘はないけれど。きっと良一君は真っ直ぐに私を思ってくれている。私は、真っ直ぐに良一君を思えている? そして、私の心の奥深くにある、誰かに愛されたいという気持ちがゆえに誰でも良かったなどという真実を私は抱えていない? 私はこのまま、良一君を好きでいて良いのだろうか。


「じゃあ、気を付けて帰ってね。一応、着いたらメールくれたら安心する」


「うん、そうするね」


 ――言わなくて、良いのかな。私は本当はきっと、薄暗い思いが心の奥底にあると。母に愛されたかった思い。妹に抱えた嫉妬の思い。亡くなった父に覚えている悲しみ。高校生の時にクラスメイト達に心を開けなかった私。どんなに思っても、もう取り戻せない時間。


 本当は気が付いてほしかった。「ここに伊藤瀬奈という人間がいます」と。でも、私はそれを諦めてしまった。高校生活など早く終わってしまえば良いと思った。遅刻と早退を繰り返しながら、私は本当につらい気持ちを強く抱えたまま通学し、家でも居場所を見付けられないまま、三年間を過ごした。けれど、その三年間の中で、良一君は私を見ていてくれていた。遅刻と早退を繰り返す私に、声を掛けてくれた。その光に気が付かないままに、私はそれを日常の光として過ごしていたのだろう。その良一君が、今、私にはとても眩しく映る。夏の太陽よりも、眩しく。


「どうかした?」


 駅に向かわない私を見て、良一君がそう言った。


 何でもないと、そう言ったつもりだった。でも、声が出なかった。じゃあまたねと手を振って、駅に向かうつもりだった。でも、足が動かなかった。


「瀬奈?」


 良一君が不思議そうに私の名前を呼んだ。そこに宿る温かさに私は知らず、泣いていた。


「瀬奈、どうした」


 良一君が呼んでいる。私のことを呼んでいる。返事をしなくちゃ。何でもないと笑って、それで――。


 そこで私の思考は一度、途切れた。気が付くと、良一君が私を抱き締めていた。不意に近付いた良一君の体温が、私の体温と重なる。私の肩と頭を守るように良一君が手を添えてくれていた。何か、何か言わなくちゃ。そう思う私の心と反するように涙は溢れ続けた。声は出なかった。


「無理しなくて良い」


 私の耳に近い所で、良一君のくぐもった声がした。それは今まで私の聞いたことのない声だった。


「つらかったよな、高校。家。俺が分かったように言うのは違うかもしれないけど。本当には分かることは出来ないのかもしれないけど。でも、俺はずっとここにいるから。瀬奈と一緒にいるから。色々な所に一緒に行けるし、どこにも出掛けなくても良い。電話もメールも出来る。俺は、ずっとここにいる。瀬奈が、好きだから」


 良一君が私を抱き締める力を強くした。私も良一君を抱き締め、うん、とだけ返事をした。それが私の精一杯だった。


 しばらくして、私の涙は止まった。私が落ち着いた頃、一人で家に帰すのが心配だから送って行こうかと良一君は言ってくれた。でも、強がりではなく、私はそれを断った。何となく、自分一人で家に帰りたかったのだ。心の整頓をしながら、電車に揺られて帰りたかった。私がそう言うと「無理してないよね?」と確かめるように良一君が聞いた。無理してないよ、と私が少し笑って言うと、「それなら良いんだ」と良一君は私の頭にそっと手を置いてくれた。それが、とても嬉しかった。


 私は今度こそ「またね」と良一君に言い、手を振って駅に向かった。良一君も「またな」と言って、手を振り返してくれた。駅に入って、一度だけ振り返ると良一君はまだ手を振ってくれていた。私も手を振り、前を向いて反対側のホームに向かった。


 すぐにやって来た帰りの電車に乗って、私は今日の日のことを緩やかに思い出した。八月二十二日。私の二十五歳の誕生日。良一君がいなかったら、私はこれまでにして来たようにひとりで今日という日が過ぎるのを静かに待ったのかもしれない。どこか遠くに行きたいような、じっとここに座り込んでいたいような心を抱えながら。今日は、良一君が私の誕生日におめでとうと言ってくれた。ケーキもクッキーも用意してくれた。一人ぼっちの誕生日ではなかった。その事実が確かに私の心を温めた。


 流れて行く景色を見ながら、私は人前で泣いたのはすごく久しぶりかもしれないと思った。高校生の時、家で眠る前に涙が出たことが何十回もあったことを思い出す。やがて、泣いても何にもならないと思い、私は一人でも泣くのをやめた。父のお葬式でも私は泣かなかった。泣くことが、怖かったのかもしれない。父はもういないと認めることになるような気がして。


 涙ごと、ここに――今日という日に、置いて行けたら良いのに。私は、もう悲しくなどないのだと。一人ぼっちではないのだから。良一君がいてくれるのだから。けれども、私の中の心はそう簡単には納得してくれなかった。もう遠くの存在になってしまった、母と妹。天国に行ってしまった、父。そこで私の家族の愛情の糸はぷつりと途切れてしまったのだろう。だから、もうそれを追い求めることを私はしない。だが、感情は残る。言葉にするのが難しい、複雑な心情が残る。もしかしたら一生涯、それは私の中にあるのかもしれない。


 心。愛情。目に見えないもの。とても複雑なもの。私はまだ、はっきりとは分からないけれど。これからの私の日常に、良一君はいてくれるのだろう。私も、良一君の日常にいたいと思う。傍にいたい。寄り添っていたい。それが私の心からの願いだ。


 電車を降り、家までの短い道を一人で私は歩く。家の扉の鍵を開けて、中に入る。鍵を閉めて、廊下の明かりを点けて歩き、部屋の明かりを点けると、そこにはいつも通りの私の部屋があった。当たり前のように。いつものオレンジの花柄の座布団に座ると、ほう、と息が口から洩れた。


 そうだ、良一君にメールをしようと思い、私は携帯電話を取り出す。着いたよ、今日はありがとうと短い文章のメールを私は送信する。何となく私は立ち上がり、窓の遮光カーテンを少し開けて空を見上げた。猫の目のような細い金色の月が空に懸かっていた。その月と線で結んだ所にメレダイヤのような星が一つ、綺麗に光っていた。まるで涙のようだった。携帯電話の背面ディスプレイが光り、私にメールの着信を知らせる。良一君からだ。良かった、また会おうね、と良一君のメールの文章も短いものだった。でも、私は確かに繋がりを感じた。まるで空で光る、月と星のように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ