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リスフォード川の朝

夜明け前のリスフォード川は、薄い靄に包まれていた。

川面から立ち上る白い霧が、夜の名残をかすかに漂わせている。

馬車が小さく軋み、停車する音が響く。


「……着いたな。」

ノア殿下が低くつぶやいた。昨日までの煌びやかな燕尾服姿はどこにもない。

今の彼は、ただの青年商人にしか見えない。

柔らかな布地のシャツに、黒のズボン、そして肩には粗布のマント。

けれど――その横顔の整い方は、どう隠しても王子であることを主張していた。


(なんで庶民服でもあんなに絵になるの!?あれ反則じゃない?)

思わず内心で突っ込みながらも、カリスは馬車の中で自分の準備に取りかかる。


今日の任務は、ザンジス宰相の“密輸ルート”を押さえること。

そのために、カリスは「外側の目」として市場の見張り役を担う。

つまり、一般人の中に紛れ込み、怪しい動きを察知する役目だ。


そのために、まずは変装。


(問題はこの髪……)

鏡の前で、カリスは自分の薄水色の髪を見つめる。

陽に当たればキラキラと光り、まるで「私は目立ちます!」と言っているようなもの。

昨日の舞踏会でも、マーガレット嬢に“あの色”で気づかれたのだ。


「もう、昨日はヒヤッとしたんだから……!」

小声でぼやきながら、彼女はキャスケットを手に取った。

濃いグレーの大きめの帽子。これならすっぽり髪を隠せる。


ぐいっと被り、深めに影を落とす。

前髪も後ろ髪も全部押し込み、鏡の中で軽くポーズ。

「……よし!これならどこからどう見ても、ただの働き少年!」


ノア殿下がちらりとこちらを見る。

その紅の瞳が、ふっと柔らかく細まった。


「似合ってるよ、カリス。」

「ひゃっ……! そ、そうですか!?(笑わないで!今すごく真剣なんですけど!?)」

「本当に。君がそんな格好してると……なんだか護りたくなるな。」

「~~っ……っっ!」

(やめて!朝からそんな甘い台詞やめて!任務前なのに気が散るぅぅぅ!)


カリスが帽子を深く被り直してぷいっと顔をそむけると、ノアは少し笑って外に出た。

そこには既に、騎士団と護衛兵たちが配置についていた。


「よし、予定通り五手に分かれる。

第一隊は上流側の渡し、第二隊は倉庫裏。第三は本隊。

僕とカリスは市場の見張りだ。」

ノアの声に、全員が一斉に頷く。緊張が走る。


「見張り役の君は、決して無理をするな。危険を感じたらすぐ合図を出すんだ。」

「了解しました、殿下!」

「今は“殿下”じゃない。呼び方は……そうだな、“ノア”

で。」

「っ……! は、はい……ノア……さん。」


カリスは頬を赤くしながらも、きゅっと拳を握った。

(外側の目として、しっかり役目を果たすのよ! 絶対に失敗できない!)


朝日が霧の向こうからのぞき、川の水面を金色に染め始める。

冷たい風が頬を撫で、カリスは深呼吸をした。

その瞬間、ノアが軽く振り返り、微笑んだ。


「行こう。――リスフォードの闇を、暴きに。」


***


薄曇りの朝。川風に藁の匂いと湿った木の香りが混ざるリスフォードの裏路地は、人の気配が少なく、動く影が際立って見えた。


私は大きなキャスケットのつばを深く下ろし、視線を低くして歩く。民衆に紛れているつもりでも、心臓は早鐘のように鳴る。ノアが先遣で倉庫に入っている──護衛が三人ほど平民に化けて側についていると聞いた。彼が無事でありますように。そんな祈りを胸にしまいこみ、私は注意深く市場の裏を見回した。


そして、見つけた。裏路地の脇、薄暗い角に停められた荷車。藁と木箱。見張りの男が一人、周囲をぼんやり見回している。明らかに――ここには隠すべきものがある。


(行くわよ、カリス。外側の目、任務遂行!)


見張りの視線が逸れた瞬間、私は影のように荷車に近づき、藁の下に身を滑り込ませる。藁は冷たく、棘が肌にチクチクする。息を潜め、指先でそっと木箱の蓋をずらすと――白い粉が山になって詰まっていた。細かく、きらりと光る粉末。私は思わず息をのむ。


(これが、ノア殿下の言っていた“人を廃人にする薬”……)


慌てずに、藁の陰に身を潜める。心臓は早いが、呼吸は抑える。ポケットに忍ばせていたルビーペンダントに触れて、約束の暗号──二回の小さな指の押しで合図する。淡いルビーが指の間で冷たく光った。


――合図は届く。ノアはきっと気づく。


同じころ、ザンジス保有の倉庫の中ではノアが動いていた。彼は影のように静かに入り、積み上げられた木箱の隙間を覗いては、薬袋と帳簿を手早く特定していく。護衛の一人は倉庫の出入口を見張り、もう一人は外装の偽装を確認し、ラスタは裏手の脱出口を固めている。ノアは私の合図を耳に入れた。——小さな金属音。それが合図であると理解した彼は、動きを鋭くする。


箱を開け、薬の匂いに顔を曇らせながらも、ノアは手早く該当箱を押さえ、帳簿を見つけ出す。ちょうどその時、外から人影が近づく気配。ノアはすっと身を隠す。木箱の陰で息を殺すと、数人の男たちが低い声で話しながら、積み荷を整理していた。


「宰相は本当に困った奴だよ。金のために何でもやる」

「お嬢様を使うなんてな。マーガレット嬢まで道具にしてるって噂だ」

「儲けが少なきゃ手も出ねえさ。命を張る割に給金が安すぎるんだ」


人影が去ったのを確認すると、ノアは低い声でラスタと合図を交わし、木箱と帳簿を押収した。手際は鮮やかだ。布袋や木箱の一部には偽の正札が貼られているが、帳簿には確実に“出荷先”“代金”“受取人”の記録が残っている。ノアはそれを一つずつ魔石に読み込ませ、証拠として複数に写し分ける手配をした。


外の私は、藁の中で震えながらもルビーをぎゅっと握りしめる。ノアの合図を待ち、倉庫内の動きがさらに動的になったのを感じると、私は慎重に藁を押しのけ、荷車の縁から顔を出した。すでに他の隊員が、指定の合図で近隣に配置され、安全圏を確保している。私が目で合図を送ると、馬の手綱が静かに引かれ、動きだす準備が整った。


ノアが箱を抱えて出てくる。彼の目が私を捉えると、短く頷く。全ては計画どおりだ。荷物は迅速に分けられ、麻薬は帯封され、帳簿は魔石にコピーされて王宮へ送るための梱包が始まった。私たちは押収物を運び出し、密かに「フィッシャーズ・コーブ」の隠し倉庫へと向かう段取りを取る。


抜け道を使って運び出すその間に、荷車を押していた男たちを気絶させる。そして、私は何度も周囲を窺う。誰の視線も、追跡の気配もない。ラスタが最後に見張りをして、無事合流を確認すると、ノアは私の肩にそっと手を置いた。言葉はなかったが、眼差しに「よくやった」と温かさが宿る。


馬車は静かに出発した。川の風が頬を撫で、朝日が少しずつ高くなる。荷車に詰められた白い箱は、今はただの証拠品にすぎないが、その重みは確かにこの国の闇の一端を示している。


私たちはフィッシャーズ・コーブの隠れ家に荷を下ろし、そこに魔石の複製を分配した。ラスタが厳しい顔で言う。


「帳簿は王宮へ。麻薬は専門の調合班に引き渡す。現場での押収は成立した。だが、宰相の背後は深い。これで終わりだとは思うなよ。」


ノアは軽く頷き、そして私を見た。朝の光の中、彼の紅い瞳に柔らかさが戻る。


「君がいてくれたから、確実に取れた。ありがとう、カリス。」

私の胸がキュンとする。恥ずかしさに顔が熱くなりながらも、私は返す。


「殿下の側にいられて光栄です。次はもっと……」


ノアは唇を動かしたが、言葉を掛ける代わりにそっと私の手を握った。その温度は冷めた朝の空気を溶かすように温かく、私の緊張はふっと消えていった。


だが──ラスタの言葉が尾を引く。宰相の背後は深い。マーガレットの名もちらついた。これが序章に過ぎないことを、誰よりも私たちが知っている。


フィッシャーズ・コーブの隠し倉庫の奥、波の音だけが静かに証拠の重みを刻む。私たちはまだ終わらない。刃は、もっと深く研がれていくのだ。

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