彼女の事務所とぼくの超長い思考
「もうじき事務所に着きますよー」
辺りは閑静な住宅街。人通りも少なく、大きなマンションなどもない。
中々良いところじゃないですか。でも、学校からは遠いみたいだね。
「はい、本当は自転車通学のはずなんですけどね。つい最近壊れてしまいまして」
ちょっとはにかむようにする井坂。なんではにかむの?まぁいいけど。それにしても、電車通学のぼくからすれば、徒歩で通えるなんて羨ましい限りである。
でも、自転車壊れるって……転んだとか?それともイタズラ?
「イタズラですね。サドルは取り外され、ベルも外され、ライトは割れ……もしかすると、私を疲れさせて捜査を遅らせようとする陰謀やもしれません」
彼女は深刻そうな表情で言う。ぼくも当然深刻そうに返す。
そうかい。そりゃあ大変だなぁ。
……あれ、そういえば最初の偉そうな態度とえらく違うよな。ぼくにちゃんと敬意を払って会話してる。どうしちゃったのさ?
「ああ、あれですよ、私の事務所」
おお、ようやく彼女の自宅についたか。ふむ、立派な建物。コンクリートが打ちっぱなし。一階は車庫かな?随分と高そうな車だね。壊された自転車らしきものも置いてある。二階の側面には大きな窓ガラス。そして窓にはカクカクした字で『井坂”名”探偵事務所』と書いてあり……
……え?
本当に探偵……ちょっと待て、落ち着け、ぼくらしくないぞ。まずはなんで探偵事務所の前に『名』がついてるんだ、とか突っ込んで落ち着け。
「何言ってるんですか、それもちろん、私が唯一絶対最高最強完全不滅な名探偵だからですよ」
そうかそうか。そんなに自慢気な顔をするなっての。君のそんな自慢を聞いている暇はぼくにはないんだよ。
よし、落ち着いた。
こいつ、井坂の父親が探偵ならどうだ?有り得る。探偵事務所が実際にある、それすなわち井坂椎が名探偵、ではない。
りんごは赤いものだが、赤いものがりんごだけでないのと同じ。
名探偵だから探偵事務所を持っているのではない。探偵事務所があるけど名探偵じゃない、というのが事実だろう。というかそう信じたい。
と、窓が開いて中年の男が顔を出した。顔に脂肪がついてるね、健康には気をつけよう。彼はぼくに気づき、不審な目を向ける。ああ、井坂のお父さんだよね。やっぱりそうだと思ったよ!
男は低めの声で、
「えーと……その人は?」
「井森先輩です。安心して大丈夫ですよ」
「え。あー。え?あー……そうですか、ならあなたが探偵だということは知っているわけですね?井坂先生、難しい事件がありまして、ちょっとお力をお借りしたいのですが」
押し殺した声で言う。意外と聞こえるもんだ。……ん?あれ?
「あー、はい、もちろん構いませんよ。先輩、あの人は日暮刑事といって、私と警察を繋ぐ人々の中の一人です。これから事件について何やらするらしいです……」
そーなのか。
「先輩には警察関連の捜査には巻き込みたくないのです。休日だけ、楽しくやりたいのです。私にきた個人的な依頼をね。だから今日は解散、と言いたいところですがせっかく来たことですし、お茶でも飲んでいって下さい、と言いたいところです」
ああ、うん。
って君なんか文法とか語句の使い方とかちょっとおかしくない?変だなぁ。
……
……じゃない!
なんで刑事がいるんだ?こいつのこと『探偵』って言ってたよな?やらせか?大人が協力するか普通?いやいや、それともこいつは本当に探偵なのか?
こいつが本当に探偵だったとしたら、ぼくはどうなる?彼女の世界観を崩すはずの、ぼく自身の世界観が崩れ去る。
そんなのはダメだ。ぼくが今まで会ってきた、ぼくが変だと思った人達。神様と契約して特別な力を得たという人、透視能力を持つという人、霊やUFOやUMAを見たという人、そして元FBIで今は日本警察の裏のTOPで世界一の天才で名探偵だという人。
自分が心の中で鼻で笑ったこと、それが本当は真実だったとしたら。
例えばこいつが探偵なら。一度でも、彼らの中のたった一人でも、ぼくが全く信じなかったことが事実だとしたら。ぼくはこれから、誰も小馬鹿にできなくなる。
本当は真実かもしれないのだから。
ぼくはその人たちより頭が良いと考え、優越感に浸り、自惚れ、彼らのおかげで劣等感が溜まることを防いでいたんだ。自分より優秀な人たちからは目を逸らして。それができなくなる。それは嫌だ。
しかし……とぼくは思う。
ぼくはまた、ぼくの世界観を崩して欲しいとも思っているんじゃないだろうか。
ぼくがこれまで人の妄想を笑ってきたのは、こいつは間違っていると思っていたから。
その考えに根拠はない。ただ、自分でそう思っただけ。思い込んだだけ。
もし、間違っていると思っていたことが正しかったのなら。
もし、有り得ないと思っていたことが有り得たのなら。
ぼくの世界は広がる。
すごく大きく。
神様と契約したということと、世界一の名探偵だと言うこと。二つの間に、大きな隔たりはあるだろうか?
神様なんて居ないと思った根拠は?そんなのない。でもぼくは居ないと思ってた。神様なんて居るわけがないと思い込んでいたから。
彼女は探偵なんかじゃないと思った根拠は?そんなのない。でもぼくは違うと思ってた。高校一年生の探偵なんているわけがないと思い込んでいたから。
どっちも同じじゃないか。
ぼくはどちらも『有り得ない』と思った。
彼女が本当に元FBIで今は日本警察の裏のTOPで世界一の天才で名探偵だったら。
いや、そうじゃなくてもいい。ぼくは、こいつは『探偵』ですらないと思ったんだから。
もし、こいつが探偵だったら。それはさっきの刑事も本物で、彼女は警官から捜査協力を依頼されるような探偵だという事。そしてそれは彼女が名探偵だと言うこと。さらにそれは弱冠15歳である彼女が天才である、と言えると言うこと。
なんだ。それは、彼女が元FBIで今は日本警察の裏のTOPで世界一かどうかは分からないけど、天才で名探偵であるのは確かだ、ということじゃないか。
ぼくはコンクリート製の建物を見上げる。ぼくの頬を風が撫でる。
これからこの建物に入って、さっきの中年が本当に刑事で、彼女は名探偵で、ぼくはその助手で。
そう、分かったら。
ぼくは残念に思うのか。人を小馬鹿に出来なくなることに。ぼくの世界観が崩れたことに。
でも、それはまた、神様もその契約者も、透視能力も、霊やUFOやUMAも、色々なものが世界に存在するかもしれないと思えるようになるということ。
もうそう思えるようになれば。ぼくの世界が広がれば。
ぼくは、嬉しい。
やらせじゃなければいいな。ぼくは柄にもなく、そう思ってしまった。
「なんで深刻そうな顔してるんですか?先いっちゃいますよ」
彼女は少し不思議そうにしながら、階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。長めの髪がバッサバサとなってる。ニュアンスで分かるよな?
あぁ、君は元気だね。ぼくをもうちょっと感傷に浸らせてくれても良かったんじゃない?まぁ、まだ君を名探偵だと認めたわけじゃあないけど。本当は、ほとんど認めてるのかもしれないけど。
ぼくは軽く溜め息をついた後、彼女の後を追い、一段一段、ゆっくりと階段を上がっていった。
今回は長めでした。
『ぼく』の頭の中は異常なのかな?