柘榴(果実)8
神社にいた妖が消えてから、もう少しでひと月になる。無意味な早朝の散歩は打ち切られ、けれど帰宅時のお参りだけは続けていた。無くしたマフラーの代わりは未だ見つからず、買う気も起きていないので、今年の冬はこのまま乗りきってしまえそうだ。
変わらず流れていく現実は、先を見据えろと強要してくるようになった。実習の終わりが近づき、新たな実習の始まりが近づいている。修士論文の進み具合はどうかという声があちこちからかかるようになり、同時に修了後の進路を訊かれる。今を生きることでいっぱいいっぱいだというのに、生き延びた後のことまで考えていられない…などと弱音を吐けるほど豪胆ではないので、曖昧に笑って誤魔化した。誤魔化す日々を繰り返していた。吐き出せず、息のしづらい日常を享受していた。耳に残る『だいじょうぶ』という声を探して、耳に入ったそれを無意識に比較しては落胆することに疲れ、探すことを止めた。
当たり前の日常を享受したとはいえ、普段以上に息苦しくなることはある。半日で学校が終わったときであっても。そういう日は、帰宅時間を遅らせたくなる。人の気配が残る家に帰りたくなくなる。だからといって人々が存在する中ぶらつくのもまた精神をすり減らす行為で、どこかに逃げ場が欲しくなった。思考に溺れ、引きこもり、たらたらと垂れ流しても問題ないようなところに。SNSにでも流せばいいだろ、と言葉が浮かんで、所詮自分の言葉なので一蹴した。受け止めてもらえると、あるいは素通りしてもらえると安心できる場ではないのに、好き好んで本心を吐露するわけないだろ、ばかばかしい。
押し黙ったもう一人の自分を嘲笑うというむなしい逃避行為をしながら駅構内を歩いていると、見慣れた花屋が目に入った。移動する人々の邪魔にならないよう壁際に寄り、花屋を眺める。そういえば、冬は寒いので花の持ちがいいとかなんとか、どこかで見かけた気がする。母さん、花好きだったな。最近あの人の機嫌がよろしくないので、ご機嫌取りに買って帰っても…違う、普段の、感謝の気持ちを込めて、だろそこは。救えなさに笑いが零れそうになった。うん、買って帰ろう。それで少し良いことをした気になって、私も溜飲が下がるかもしれない。そう思って、花屋に入った。
色とりどりの花が並ぶ中、背負うリュックが不用意にぶつかったりしないように、と前へ持ち直す。「いらっしゃいませ」と店員に声を掛けられ、会釈した。あの人の好きな花は、と探して、お目当ての花はバケツが空になっていた。あれ、と思い店員に尋ねる。
「すみません。そのお花は切らしてしまっていて」
「そう、ですか」
今までそんなことはなかったので、困惑してしまう。どうしよう、何を買おう。ぐるぐると考えて、ああ長居したらご迷惑だよなと考えて、目につく花を候補に入れていく。ダリア、華やかでいいかもしれない。カスミソウは絶対に入れよう。それだけで花束がそれらしくなるし。カーネーション、は、ちょっと今回はいいかな。バラはあの人嫌いだし、水の入れ替えも大変だし。アネモネもある。あとあれは、ああラナンキュラス。あんまり気にしたことはなかったけど、綺麗だな。これもいいかもしれない。
「お決まりですか?」
訊かれて、ああ邪魔かもしれないと申し訳なくなる。はやく、早く決めなきゃ。そう、そうだな。
「えっと、かすみ、そう?とラナンキュラス、と、あとだ…」
言葉が、止まる。ダリアって、なんかちょっと煌びやかで、止めておきたいかもしれない。
「あの?」
問いかけられ、話している途中だったと正気付く。迷惑な客だな。
「あ、ごめんなさい。アネモネ?を、お願いします」
「ラナンキュラスとアネモネの色はどうしましょうか」
「いろ…」
見て、どちらも想像以上に多く種類があり視野の狭さを呪う。初めのうちに決めておけよ。店員さんに悪いだろ。濃い、薄いピンク、黄色、白、オレンジ、紫とカラフルで、しかもラナンキュラスに至っては花の形も少しずつ異なっている。自分の無知さに情けなくなった。
「色、は、ラナンキュラスが白で、アネモネは紫でお願いします」
それらが一番、好ましく感じた。結局どれもこれも自分好みのものを選んでいて、感謝の気持ちはどうしたんだ、と鼻で笑いそうになる。もちろん、人前でそんなことしないが。
「かしこまりました。本数はどうしますか?」
「ああ、だいたい3000円くらいで、お任せします」
「分かりました。少々お待ちください」
店員さんはそう言って、いくつか花を見繕うとカウンターへ向かう。それを眺めつつ、レジ前に居座っていては邪魔ではないかと周囲を見渡す。邪魔にならなさそうな空間が見当たらず、手持ち無沙汰に店内に視線を巡らせた。はやく、はやく終わってくれ。邪魔じゃないかな、平気かな、ああ財布用意しておかなきゃ。最小限の動きでリュックから財布を手に取り、先ほど提示したおおよその金額を抜き出す。ちょうどいいので、花を受け取った後すぐに店を出れるよう、リュックを背負いなおした。
「リボンはいかがいたしましょう」
突然問われて、「え」と声が漏れる。あ、ラッピングか。
「えっと、む、紫でお願いします」
安易に、早く決めねばと、アネモネと同じ色にした。「かしこまりました」と返された後で、どうせ帰宅後誰に見せる間もなく花瓶に入れるので、ラッピングは不要なのだと思い至る。ああ、紙の無駄リボンの無駄労力の無駄。せっかく綺麗に包んでくれるのに、店員さんごめんなさい。するすると着飾られていく花たちを眺め、申し訳なくなってくる。
「お待たせしました。代金は3000円です」
「はい」
持っていた1000円札3枚を手渡し、花束を受け取る。
「ちょうど、お預かりしました。お花はなるべく縦にお持ちくださいね」
「わかりました。ありがとうございました」
お礼を言いながら、花束を胸元に抱え何度も会釈しつつ店を出る。「ありがとうございました」という声を聴き流し、急ぎ足でバス停へと向かう。変わった持ち物のせいで周囲から見られているのではないか、という意識過剰な考えに襲われて、逃げるように。早いところバス停に並んで、音楽を聴き始めてしまえば、周囲のことなんて気にならなくなる。はやく、はやく、はやく、はや…
見慣れない人だかりが、視界端に映った。反射的に、視線を向けた。
人々は、上を見上げていた。人混みに混じって、倣うように上を見上げた。
グラデーションの塗りつぶし指定をしたような青空。
すっかり失くしたと思ったマフラーが、そこにあった。
消えたと思った妖は、青年となってそこにいた。7階ほどはあるビルの屋上の、断崖に。