柘榴(果実)2
自宅の最寄りひとつ前のバス停を降りる。運転手に欠かさず言っているお礼の言葉に返されたのは、無言の会釈だけだった。まあ無視されるよりマシだったな、と自分に言い聞かせる。
降りて目の前にそびえるのは、灰色の鳥居。奥へ奥へと続く石畳。中央を開けて並び立つ大木。そして最奥に見える、古びた拝殿。
ここは近所の住民も滅多に訪れない、寂れた神社だ。気が向いたとき、気が向いたタイミングでお参りするようになってから、もう半年が経っていた。今まで他の参拝者に会ったことも無ければ、正直神主の類がいるかもわからない。
鳥居をくぐれば、とたんに畏怖の念を抱く。不気味なような、神聖なような、そんな空気感。恐れ多い、畏れ多い、そんな言葉が浮かぶ。日がすっかり暮れているのもあり、道路沿い、鳥居の外にある街灯だけが唯一の光源だ。目の前に真っ直ぐ伸びる影の先が、暗闇の中へ溶け込んでいる。神の怒りを買わないように、道の端を歩いて拝殿に向かう。
季節がら、葉をすっかり落とした木々に取り囲まれた拝殿は、煌々とした神々しさというよりも恐々としたおどろおどろしさを纏う。縄が千切れてそのままになっている大鈴が鈍く光る。お賽銭を投げ込んで、浅い一礼、深い二礼。少しずらした両手で二拍手。手をそろえて、目を閉じて拝む。
――家内安全。無病息災。学業成就。
祈りの言葉を唱える脳内。閉じた瞼の裏を、よくわからない光が明滅する。何だったか、残光?網膜上に投影された映像が残るとかなんとか言う。そんなような。ちかちか、ぐるぐる。ちかちか、ぐるぐる。
あ、駄目だしんどい。拝んでいるのか、考え込んでいるのか、分からなくなってきた。わざわざお参りして、神に縋って、でも祈る内容は決まりきった文言で。死にたいって奴が無病息災祈るなよ。
そもそも、これは誰の為の祈りだ?いや偽善ぶるな、自分のためだろ。家族の無病息災を祈ろうが、家族の安全を祈ろうが、家族の学業就業成就を祈ろうが、紛れもなく私の為だ。私が勝手に、あの人たちの幸せを祈っているだけで。誰かのために良かれと思ってやったことが、本当にその人のためになるかなんてわかる訳がないのだから。だからせめて、自分が罪悪感を抱かないように…罪悪感?
誰に対する罪の意識?誰から見た悪?世間様?他人からの評価が根底なのは否定できないかもな。あれ、でも人から嫌われるのが、幻滅されるのが嫌だ、とか思っていたけど、それって少なくとも今の自分は良く思われているって考えになるよな。それって、なんか、なんかさ…
「傲慢じゃない?」
薄暗い思考と不釣り合いな軽やかな声が聞こえて、私ははっと意識を浮上させた。正体不明な明滅が止んで、外の景色が、目の前の光景が飛び込んでくる。賽銭箱の奥、拝殿の軒先、縁側に腰掛ける、人影。
「そんなに長い事祈るなんて」
先程と同じ声が、その口から発せられて、さっきの言葉もこの人のものなのだと思い至った。ほとんど真正面に居るその人物を見つめる。
青年、だろうか。華奢とは言い難い体つきのなので、恐らく男の人だろう。声も、若い男のそれだった。ガタイも上背も、私より一回りほど大きそうだ。色味の無い服装で、白いワイシャツの上に灰色の着流しのようなものを片方の肩だけはだけさせて体に巻いている。裾が随分短いのか、ステテコのような鼠色のズボンもはいていた。それも丈が足りておらず、足首は素肌がさらけ出されている。足元の黒は革靴だろうか。服装は襤褸をまとったようなみすぼらしい恰好だというのに、据えられた頭は一級品で、薄暗い中でも整った顔立ちをしているのが分かる。耳下あたりで切りそろえられた黒髪も艶やかだ。
その髪を揺らしながら不思議そうに小首を傾げられて、中途半端に口を開けたまま呆けていることに気づいた。加えて、祈りの最中だったことを思い出す。手早く深い二礼と浅い一礼を済ませる。そうして、声の主へ視線を向けた。
一体何者だろう。さっきまでこんな人、いなかったのに。と、目の前の青年が怪訝そうにこちらを見た。
「もしかして、見えてる?」
そういえば、話しかけられたのに何の反応も示してなかった。だが、それにしたって脈絡のない質問で、その意図が分からず、「まあ」とだけ答えた。ら、
「本当に?!」
身を乗り出しながら、青年が声を上げた。落ちてきそうなほどの勢いと嬉々とした声音で、何事かと一歩引く。こちらの様子など気にも留めず、青年は饒舌に口を動かす。
「今まで俺のことなんて全然気づかなかったから、もう絶対見えてないもんだと思ってたのに。すごいね、声が伝わるって、視線が交わるってこんな感じなんだ。わぁぁ、なんか感動。今までの眺めてるだけも悪くなかったけど、反応がもらえるのはやっぱ面白いなぁ。あ、実はこれまでも何度か会ってたんだけど、気づいてた?」
つらつらと話された内容に理解が及ばないものが入っていて、思わず「はい?」と聞き返してしまった。楽し気な様子な青年は「だーかーらー」と言い、「よっ」と掛け声を言いながら勢いよく立ち上がった。
「俺のこと、気づいてた?」
愉快そうに目を細め、口元を三日月にゆがめる姿はどこか歪で。不気味さまで感じて。警戒心を募らせた私は一歩後ずさる。
「知りません」
思っていた以上にこわばった声が出たが、青年は気にする様子もなく「だろうね」と返す。厄介なことになったと頬を冷や汗が伝う。こんなことなら、まっすぐ家に帰ればよかった。
「厄介なことになった」
脳内の言葉がリフレインされて、ぎょっとそちらを見る。
「って顔、してるよ」
にこり、と。形のいい口が弧を描く。得体の知れなさから、背中を冷たいものが走る。
「あんた、さっきからなんで…」
私の心が、読めるんだ。そこまでは音にできなかった。
「だって、ずっと見てきたから」
そう、真っ暗な中、真っ黒な髪を揺らして、真っ黒な瞳を歪めて、青年が言う。薄ら寒い。冬というだけでは説明が付かない。この、目の前のナニカが、恐ろしくてたまらない。心臓がバクバクと早鐘を打ち、はくはくと音を成さない白が、無意味に口から昇っていく。知らず震えだす手を、強く握りしめる。目の前が黒一色になって、何も見えなくなる。暗い、暗い、黒い、黒い。
息が、しづらい。
「だいじょうぶ」
こ、え。
「だいじょうぶだよ」
耳元から、声がする。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
泣きそうなほど、優しい声がする。体を包み込む熱がある。リュックごと抱き込む腕がある。頭を撫でる手がある。知らず知らずのうちに、涙が、滲む。
――温かい。
身じろぎひとつできなくて、けれど、冷え切ったと思った体がぽかぽかと温かくて。
目の前を歪めていた、水の膜が消える。
相も変わらず、そこは日の落ちた神社だった。街灯がより一層の光を放ち、境内の暗闇を助長する。相も変わらず私は見慣れた本殿の前に立ち尽くしたままで、空気はキンっと冷え込んでいた。でも、さっきまでほどは寒くない。風が止んだのだろうか。
「あ、れ」
視界の中、先程までいた青年は見当たらなくて。ぐるりと見渡してみても、何処にもいない。気配もない。
「何だったんだろう」
まさか幻覚じゃないだろうな。顔を顰める。いや、それは笑えない。ほんと。と、低い振動音が響いて、「わっ」と肩が跳ねた。急かすように揺れ続けるそれを、背負ったリュックの中から探し出す。画面をつけて、眩しさに目を細めた。
「おわ、かあさん」
『母』と表示された画面に、慌てて通話ボタンを押す。
「はいもしもし」
『ちょっと、今どこ?大丈夫?』
「え、ああ帰宅途中だから、すぐ帰るけど」
話しながら、腕時計を確認する。と、神社に着いてから20分も経っていた。思っていた以上の時間が経っていて、自分の目を疑う。時間を自覚したら、なんだか寒さも戻ってきた気がする。思わず鼻を啜った、ら、目ざとく反応された。
『どこ寄り道してるのか知らないけど、風邪ひかないでよ』
「ああうん。すみません、今すぐ帰ります」
そう言えば、『はーい』という返事を最後に切られた。携帯をポケットに入れて、ふーっと息を吐き出す。そしてその白さに寒さを改めて思い出して、「さむっ」と首をすぼめた。マフラーで口元を覆う。
――あの声とは、違ったな。
何を比べているのかもわからないまま、そう思った。




