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 遅めに設定した目覚ましの音に快く応じる。寝不足は無い。今朝はどうしてか久方ぶりに清々しい。古川は調子に乗って大きな伸びをする。

 布団から這い出して立ち上がってみても、身体が軽い。十時の日脚が窓から差し出す。生きる意欲がふんだんに湧き上がる。

何故これほど完璧な目覚めを成し得ただろうか。あれこれ考えるうちに、昨夜、父親から電話がかかってきたのを思い出した。

 父母共々もう随分外国に行ったきりだ。向こうへは寄らせてくれない。会う時は必ず、親の方がこの実家に帰ってくる。その時、母は部屋の清潔ばかりを気にする。父は飲んだくれて碌に娘と話さない。そんな親に、「鋭也を頼む」と告げられたのには驚いた。古川の父と鋭也の父である亮が懇意の仲であることを踏まえても、耳が早い。

 その電話のせいで、古川はそれから鋭也のことばかり考えた。だから昨晩はなかなか寝付けなかったのだが、それでこのような起床に繋がるのはやはり説明がつかない。

 では、夢だ。見ていた夢に、何かヒントがあるに違いない。けれども必死に思い浮かべようとすればするほど、現実感がはっきりして遠ざかるから、諦めた。またふと思い出すかもしれないという薄い望みに賭けておいて、ともあれ身支度を始める。今日の授業は二限目からである。

 午前十時辺りに家を出る。今日は自転車を使わないで登校することにする。何故徒歩で行こうと考えたかと言うと、ちょっと歩きながら音楽でも聞こうと思うのだ。

 毎日通る道ではあるが、雰囲気は全く異なるように感じられる。颯爽と行くよりのんびり歩く方が良くも悪くも心が細かなことによく気が付く。例えば、蝉がいつもよりうるさく感じる。この問題はイヤホンで耳を塞ぐことにより解決した。また道路の染み一つ一つにもよく注意が留まる。時間はかかる。が、たまには良いだろう。

 今日彼女の耳に流れ込んでくるのは病んだロックンロールや、お先真っ暗なバラードでは無い。オルゴールだ。鋭也が、普段聞いている音。なるほど、随分と穏やかが過ぎる。

 古川は二限目の講義を流し聞き終えると、単身食堂に向かう。昼飯を食う為だから何も不自然は無い。

 カレーの盆を携えて、どの席に着こうか見渡す。すると、思いがけず、鋭也を見つけた。古川は動揺した。昨日会ったばかりなのだと気持ちをしずめて、直線にその方へ向かう。鋭也もほどなく古川に気が付く。が、十分寄ってくるまで彼は、古川を認めないふりをする。古川は第一声、「羽野くんは食べないの?」と尋ねながら席に着いた。

「うん」と彼の方は言葉少なに応じる。

「今日、学校に来たんだ」

「うん」

「ここで会うの、初めてだね」

「うん」

 古川は言葉を選ぶ。鋭也の応答は二文字で素っ気ない。

 一方鋭也は、もっと話したいと思う。けれども裏腹に言葉は外へあらわれない。

 古川は途切れ途切れにものを言う。鋭也も徐々に身を解す。

「そういえばさあ、昨日お父さんから電話かかってきたんだ」

「お父さんって、古川の?」

 鋭也は、ここぞとばかりに問い詰める。

「何話したの?」

「ううん」

 今度は古川が言葉を詰まらせる。鋭也はちょっと心配になる。残っていた水をゴクリと飲み干した。

 その話題ははぐらかされた。古川はいよいよカレーを最後のひとすくいする。ぷんと香ってくるカレーの匂いは、不思議と鋭也を甘い気分にさせる。鋭也の神経が一点研ぎ澄まされていく。

「川の方に行ってみない?」

 古川が唐突に提案する。

 大学近くに川がある。たまに子どもがザリガニを釣っているような、変哲のない川だ。何故彼女は目的地に川を選ぶのだろうか、と鋭也は考える。

 鋭也は、川に行って何をするのか尋ねるのを躊躇った。

「いい? じゃあ行こう」

 無言を同意と了解した古川は、盆を両手に携えたまま起立して、鋭也を見下ろした。それを見つめ返していると、古川は方向転換して徐に行く。鋭也はすぐに追いついて、並ぶ。この並びには慣れたものだ。一種安堵の気味さえある。古川の横顔にはいつも寝癖がついていて、有りのままの頬で先刻鋭也を見下ろした際のように目前を真っ直ぐに見つめている。

 道中、鋭也は古川が普段よりも言葉少なであるように思う。だが、何か他に変わったところがあるわけでも無い。連れられるままに行く。

 二人は難なく、川を見下ろす橋の渡りにまでやってきた。水流の音が段々と迫真を増す。鳥が二羽、段差になって水の流れ落ちる所に停まっている。白い鳥と黒い鳥とが、一羽ずつだ。どちらも細長い脚を生やして、くちばしが黄色く尖っている。鋭也は、落ち着いた気持ちで、それを横目に捉える。その後、古川が川べりに下りる為の階段へ踏み出したとき、ちょうど黒い鳥が飛び立った。

 段差が大きいから、古川は一段一段丁寧に踏みしめて、下りていく。それに倣って鋭也が続く。

 とうとう下り切って砂利に踏み入れる。古川は川の淵まで来てしゃがんだ。鋭也はまだ立ち尽くしたままでいる。さらさらとせせらぐ音は心地良い。

 古川の動きを注視していると、彼女は途端丸石を拾い上げ目を瞑った。何を始めるつもりだろうと、鋭也は訝しく思う。彼女は数秒そのままでいると、瞬間、把握していた石を、水面に添えた。石の行方は良く分からない。流れに吞まれたぎり、そのまま下って行ったか、沈没したか分からない。

 古川は鋭也を振り仰ぐ。その澄んだ瞳に、彼は意表を突かれる。

「『石流し』って言うんだよ?」

「そのままだ」

「そのままだね」

 古川は一呼吸置く。

「石に願いを込めてみて。それから、一思いに流しちゃうの」

「へえ……そしたら?」

「石に意思が宿るのさ」

「ダジャレ?」と鋭也は苦笑する。

「寂しさを克服するのさ」とまた懲りずにやる。鋭也もよく理解せぬままにしゃがみ込む。

 適当な石を拾ってみる。願いがよく内に封じこめられる石とはどんな石だろう。こう角ばっていては、難しいに違いない。また別の石に替えてみる。そう、こんな風にのっぺりしたものが良い。

 鋭也は古川の傍で、先刻の彼女の真似をしてみる。目を閉じて、両掌に初夏の生温さを感触する。石に何か言葉らしきものが刻まれていく図を想像する。そして——ふとしたときに一思いに流す。……ちょっと失敗だ。石はポチャリと音を立てて入水した。

 仰ぐと、そこに白の鳥が不思議そうに、自分を見つめているのを捉えた。横向くと、古川は早くも二個目の石に何やら入念している。彼女は馴れたもので、ちっとも澱みなく『意思』を流し得た。

 鋭也は古川のようにうまくやりたいと思う。すぐに二度目に挑戦する。指先が震えた。水面に上手に乗せたつもりが、勝手に彼の舟は沈没していく。水流に身を預けることができていない。

「羽野くん。願い、叶えられそうかな?」

「ううん」と言って、羽野はちらと古川をうかがった。

「……古川の願いって、何?」

「羽野くんが無事大学を卒業できることと……あとは秘密」

「俺の事?」

 何だか可笑しく思って、鋭也は眉間に皺を寄せた。滑稽のようにさえ感じる。

「ほんとは他人に言っちゃダメなんだけど……」

「誰が考えたのさ、この遊び」

 古川はじっと鋭也の茶色い瞳を覗く。

「な……何?」

「はい」

 古川は、つまみ上げたのを、鋭也に手渡した。

「今度はちゃんと、真剣にやって」

 鋭く直視される。

 真剣にやっていないことは無い。彼女が何をもって真剣とするかは分からない。それでも鋭也は気迫に気圧されて、文句も無しに受けとる。

「ちゃんと包んで」

「はあ」

『包む』と言うからには掌で圧迫しないようにしてあげよう。少しでも真剣味の出るように、長時間包んでやる。――もういっそ、身体全体で抱きこむようなつもりでやる。自身の体温に染まっていく石に向かって、ついでに何か彼に呟いてやろう。

 ——あー、ええと、何だろう。そう言えば、碌に願いも望みも考えていなかったな、と鋭也は知る。考えながら、どうでもいいことを暫く喋っていようと思う。

 ——僕は、病気か病気でないのかで言うなら、どちらだろう。古川の言い張るようにノーか、それとも他の皆が言うようにイエス? 君はどう思う? 聞きたいんだ。意見を。……僕らは、どうして白黒つけたがるのだろう? きっと生きていく為なんだろうな。どうせすぐに死ぬって? ハハハ。確かにそうだ。耳を澄ましていると、聞こえるよ。川の流れる音。まるでここに在るから、在るのだとでも言いたげに。無ければ無いで、それで良いみたいだ。日が差せば的皪と輝く。のべつに流動すると思えば、あっというまに干からびる。滂沱の雨を受ければ氾濫し、塵芥に濁ったり、粛殺の時節に凜然と動く。その抱擁する時空はきっと僕らなんかには計り知れない。うん、僕らは一瞬だ。あちこちに無数に点在する、ちっぽけな瞬きだ。青空の下に飄然と現れて、飄然と去って行く。そんな風に思ってる? それじゃ、僕は、僕なりにここに楔を打つよ。変わりたいかって? 誰だって英雄にでもなれると? そうだな、それよりも今は、このままでいたいと思う。抽象的かな。でも、そのままの意味さ。僕は変わる必要が無いんだ。だって、僕らは永遠の最中に仮初に生み落とされた、刹那的な存在に過ぎないのだろう。その無茶苦茶な只中に、僕みたいな人間がいたとしても、何も悪いことじゃない。ねえ、そうでしょう? 僕は、僕で、生き抜いてみようじゃないか。そうだ、これを願いにしよう。きっとそのことが、僕という存在があったことの、証明になるから——

 その時、無音となった。

 鋭也は指先の冷覚でやっと我に返る。見ると、古川が口元をきゅっと結んで、鋭也の挙措を注視している。白の鳥は自身の毛並みを突いたり掻いたりしてじゃれている。

「行こっか」

「うん」

 鋭也は確かな、はっきりとした声で応じた。

 古川が砂利の道を、歩幅ままならないながら上手に乗り越えて、階段の下に辿り着く一方で、鋭也は敷き詰められた石の合間に躓いた。

「大丈夫?」

「もちろん」

 鋭也は満面の笑みで顔を上げた。彼はようやく、古川があの時紅潮した意味を知った。

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