八
鋭也はまた早朝から起き出した。昨日は随分一日が長く感じられたものだ。
起きると瞼を擦ってまた読書から始める。これを習慣にしよう、と鋭也は心の中に定める。
『自習くらいさせてあげてもいいのにね』という古川の言葉が過ぎる。その真意は未だに推し量り難い。思ってもいないことが口から滑り出たものか、はたまた本心から主張するものなのか。悩んでもなかなか解決には至らないようだ。
けれども、思いついたことがある。例えば図書館にいる人が皆、本を読んでいたとしよう。彼らは世間を忘却して離れているように見えて、ただ別の世間に身を浸しているというだけではないか。小説は全て空想のようで、嫌と言う程現実に即している。酷いのは全く、現実と空想とを混ぜこぜにしてそれなのに相変わらず鼻を衝く胃液の臭いだけは確実に有しているものだ。何を求めて読むのか、また書くものは何を書くのか。曖昧な心構えの下に綴られ、ただ筆耕硯田を主とし、その結果できあがるものは排泄物と同等である。塵や埃とならんで、掃いて捨てられるべきものである。そうでなければ、もう芸術の姿形は見失われる。要は、文学と言う名の芸術ですら腹の中に取り込まれたままで、その具体を説こうと言うようではいよいよ窮する。
これらの思考は、少し経つと鋭也の中でとても漠然としてしまった。粗忽に巡らすと、しばしばこういうことがある。せっかく時間をかけて考えても、すぐ漠然として漫然と散る。
古川は何か自分に伝えるようで伝えない、優しいようで強引だ、そして意地っ張りなようで繊細だ。どっちつかずだから分かりにくい。けれどもそうでなくては、彼女はいけない。
——朝一番からこう雑念が多いと、せっかくの清々した気持ちも台無しである。
とにかく、鋭也は今日大学に行く心づもりでいる。
行って何するのかを具体的に決めているわけではない。だが、朝起床して登校するという自然の動きが懐かしくなったのだ。読書をほどほどに切り上げて、暫く使わなかったリュックサックを背負う。
家を出る際、母親は「凄い」と興奮していたが、そう喜ぶべきことでもない。鋭也自身、今日の登校にどれほどの意義があるとも考えていなかった。ただ、興味本位に足を運ぶのみである。俗人の生活を真似るわけでも、俗人になったわけでも無い。実際、そうであったらどんなに楽か、と鋭也は思う。皆は、君は自分で自分を追い込むのだと嘲笑う。鋭也は酷く心を痛める。彼はほとんど一人ぼっちである。古川のおかげで、何とか根を張って堪えている。
一人で歩く通学路はやけに緊張感漂う。
ちょっと、古川の家の前を通って行くことにする。
過ぎる時にその外観を横目に窺う。一軒家の二階建て。古川の二輪車が家の前に停められている。彼女が居るかどうか、見た目ではとても分からない。呼び鈴を鳴らしたりするようなことは、やめておいた。
昨日古川と共に辿った道に合流する。二人で歩くのに慣れていると、一人はどこか物寂しい。彼女も同じように思うだろうか……鋭也には古川しかいない。親は憐れみはすれど、理解者ではない。母は彼を強く責めた事が無い。けれども、病院へ頻繁に連れていく。有り難いが、彼と母との距離は大きい。それから、父はすこぶる優しい。彼のことを、腫れ物を触るみたいに扱う。やっぱり、遠い。——鋭也は、自分は幸いなのだと、痛いほどに自覚している。
大通りに面すると、とてもではないが耳を塞がなくてはいけなくなる。それに無理矢理抗っていると、頭の内側からひび割れてしまいそうだ。耳を塞ぐ、塞がない……イヤーマフをつける、つけない……また双方の境界を考える。
鋭也にとっても古川にとっても、鋭也のこれが病気であるかないかの差は、歴然としている。病気だ、と決め込んでいる者には、このような苦悩は論じるに値しない。鋭也が病気であるならば、彼はそれを治療しなくてはならない。その療養に全力を注がねばならない。が、病気でなければ、彼は今のままに生きて良いと言うことになる。古川はこの違いを分かって、鋭也に君は病気でないと言う。鋭也はぼんやりとしか分からぬから、古川の強い物言いに気圧されている。
発汗が尋常では無い。息もあがっている。最もこれは、大学が坂の上に位置していることも関係しているだろう。
キャンパス内を歩き回っていると、木陰のベンチを見つけたから座った。これにどんな謂れがあるのか、左方に見える建物の正体も、判然としない。そこにじっとしていると、行き交う人は増えたリ減ったり忙しない。蝉もじゃんじゃんと今日も飽きずにやっている。退屈も極めると風流だ。けれども我慢が効かないから、またあちこちへ歩き出す。
道中に蝉の死骸を見つける。いや、まだ虫の息くらいはあるかも知れない。植え込みの下に、動かずにじっと腹を見せている。
落ちている蝉は決まって上を向く。その方が楽なのか知らん。鋭也は、自分にとって楽な姿勢を知らない――暫く茫然としていた。知らぬ人間が、あちこちを往来している。靴の先で蝉に触れてみると、ジジと動じた。鋭也は驚く。驚いて、後はそっとしてやる。
相変わらずジャンジャンの大合唱は鳴り止まない。おい、お前ら、ここで仲間が瀕死だぞ。蝉共は返答する代わりに、精一杯に鳴いている。すると、『分かってるよ』と誰かが応じた。
「分かってるって、何が」
『彼は鳴き尽くしたから、それで良いのだ』
「助けてあげないの?」
『鳴くので忙しくて、忙しくて』
鋭也は小首を傾げる。
学校の図書館を覗いてみようと思ったが、通せんぼがあって入れない。どの建物も、鋭也にとってはまるで未知であり、何物なのか知り得ない。通りすがる人らも皆よそよそしい。鋭也とは、毫も関係がないのだと言う風に無表情に見える。この世に自分とは考え方の違う者——鋭也のような者は、存在しないと信じて疑わない。テレビも映画も多々ある広告も小説も、皆彼らの仲間である。鋭也の味方は古川ただ一人である。いや、彼女さえも、ともすると分からない。だって彼女は平気で大学に通い、友をつくり、果敢に物事に首を突っ込む。よくよく考えてみれば、鋭也とは全く違う世界に住む一人である。それが、何故こうも彼と通じ合える?
さて、食堂にやって来た。鋭也はここしか知らない。
エアコンが強力に効いている。汗粒が、段々引いて行くのが分かる。
適当な席につくと、またじっとしていた。こんなに暇を持て余すのなら、家から本か何かを持ってくれば良かった。外に出ればもっと息つく隙与えぬ厄介事の連続かと思われたが、思いの外何も無い。もしかしたら自分は食われていないのかも知れない。もしくは半分だけ食われている。——後者が適確だ。片足から半身突っ込んでいるに違いない。中途半端だから辛いのか。どちらへ行けばいい? いや、食われなければどうにもならない。胃の中から蔑まれ、誘うとも誘わぬともつかぬ恰好で皆つんとして自身の机に向かっているようだ。背を丸めながら、彼らは彼らの常識を時に嫌厭し、時に誇りのように掲げる。少なからず胃の外にいる者よりは偉いと思っている。彼らの中にも階層がある。胃を支配した気になっていたり、ただ世間体に恥じない程度に少しでも脱出しようと考えたり、鋭也から見れば誰も大差は無い。
今日は曇りだから大窓の外も陰気である。これから真夏を迎えよう。果たして彼の先行きは不透明だ。退学勧告を受けてもおかしくない。それで失うものも、何もない。ただ働かなくてはいけない。けれどもそう簡単にはいかないのに決まっている。
もし自分が大学にせっせと登校できるようになったとして、病が治ったと解されるのは癪だ。異常がやっと正常になったのだとため息をつかれるのは嫌だ。古川の言う意味が一部分かった。
鋭也は、水を汲みその場でずずとすすった。