七
「図書館には豊川先輩にお似合いな人はいないかもね」
古川は館内の入口玄関までやってきてから言う。とにかく、蝉の声の我慢ならないのと堪えかねる暑さから冷房が恋しい。入館すると、それらの欲求が一遍に満たされる。
とりあえず、涼しいが妙に蒸した廊下を辿る。すると借りた本以外持ち出せないようにする為の機器に通されて、やっと本棚の並ぶ景色にまみえた。
鋭也は朝調子づいてイヤーマフを家に置いてきたことを後悔し始めている。が、古川の労わりが助けになって、何とか平衡を保っている。何より、彼女が側に居てくれるだけで心強い。後の行き過ぎるくらいの気遣いにはちょっと鋭也も戸惑うくらいだが、気は紛れる。こう気持ちの高揚に後先任せて飛び出してみても、何とかなるものだ。段々とそんな楽観的な考えも、浮かべるようになる。
館内は古川の前言の通り、実に静かだ。あちらこちらに人陰は見えるようだ。が、彼らは外の喧騒など忘れたかのように一様に手元に惹かれている。こんな空間を、昨日までの鋭也なら異様にも見て取ったかも知れないが、彼らを夢中にさせる世界の正体が、今の彼には幸いありありと想像できた。大層、居心地が良い。
古川はソファや机の並べられたスペースに鋭也を案内する。彼女は壁向かいの席につく。机は白い壁から出っ張って備わっており、古川は右腕を机上に寄りかからせている。鋭也も隣に座る。すると昼時の景色を映した正面の窓に、張り紙がなされているのを発見する。『自習はお断り』——この域は本を読む為に存するのであって、故にこのような晏如たる場が確保されるのだ。鋭也はそれを知り、また読書の真髄を、一つ悟った気になる。
「自習くらいさせてあげたっていいのにね」
古川の言葉に、鋭也は驚いた。彼は、今し方の発見の数々は彼女が教授してくれている最中のものだと勝手に心得ていた。それが途端にガラリと角度を変えるから無理もない。彼が見つけかけていた何かの塊――おそらくビー玉のように濁ったり澄んだり忙しないものであったが、急激に傾いた斜面のせいで忽然と転がり落ちてしまった。
こんな風に鋭也が心中動揺しているものとは露知らず、古川は
「知らない人に声をかけるのもねえ」などと呟いている。もう自習うんたらの張り紙には頓着しない。そもそもたった今、鋭也の背に電流を走らせたのは、古川の何気なく発した、他愛もない一言である。頓着も何も無いのだろう。
「羽野くん、声かけてみてよ」
「無理だよ……」
「大丈夫だって……ほら、あの新聞読んでるおじいさんなんか、もしかして有名な資産家かもよ?」
「本気でお金持ちの人探してるの?」
「いんや……でも面白いから」
「古川は面白いこと好きだね」
彼女はうんとも違うとも言わない。喜ぶわけでも気分を害されたようでもない。ただ中間の表情をしている。
やってきたはいいが、手詰まりのようだ。第一、集中しているのを遮って声をかけるのも気が引ける。古川も、本気で声かけしようとは思っていなかったろう。
「どうしよう」
と鋭也が心地よい環境に誘われて何気なく言う。
「そろそろ、お昼だよね。前に言ってた店に行こうか。それからコンビニに寄ろう」
「もう行くの? ちょっと、ゆっくりしてかない?」
「いいけど……」
鋭也は窓外に目をやった。そう急ぐこともなかろう。この雰囲気を即座に離れるのは惜しい。古川の方は慣れっこだろうが、鋭也には新鮮である。
古川は、「ちょっと見て来るね」と告げて本の大海の波間に埋もれていった。躊躇が無い。きっと日常航海に出ているに違いない。一方の鋭也はひとまず呑気に肘をつく。冒険に発とうとはまだ思わない。その気概を持たないわけじゃない。時機では無いというだけだ。……そろそろかな。
あちこちに多様に並ぶ。決して整然とはしていない。本棚をうまくレイアウトするのは至難の業だと聞いたことがある。見た目を第一にすれば、何がどこにあるやら判別つかなくなる。また、分野によれば、何だか自然にならない。一つ抜き取ってみる。
中身をパラパラと爪弾くだけで一文、二文のみあちこち拾い読みする。すぐに元の所に戻す。移動する。また抜いてくる。抜いてくるのに特別興味を惹かれたわけでも無い。だから同様を繰り返し、また戻す。
区画を渡っていると、古川が立ち読みしているのを見つけた。右膝を少しかくんと折り曲げて、前髪を垂らす恰好である。彼女は鋭也に気づくと即座に今の本を棚へ返却した。少し微笑んで、
「行こっか」と今一度誘う。今度は鋭也も同意する。長居もいいが腹も減った。ややもすると数刻を潰してしまいそうである。また一人でも来てみようと、心に決める。体調が優れればの話だが。
外に出ると再び体が熱せられる。七月も日を追うごとに夏の性格を強めている。まだまだ余力がありそうだ。蝉も尽きないらしい。まだ死骸は、一匹も見ない。
大通り沿いに定食屋がある。鋭也が知らなかった世間だ。以前はこの地に、斯様な店は無かった。この時間帯にも関わらず客はまばらだ。老人の客は二人向かい合い、延々会話を続けている。一方は声だけ大きく滑舌悪く、ほとんど聞き取れない。もう一方は大人しい。かつしゃがれている。あとの客は独りずつで好きなように食っている。鋭也も古川も冷やしうどんをことづける。喉越し良く、うまい。
さて、例のコンビニに行く。今日は目まぐるしくあちこち回るから、疲れるけれど退屈しなくて愉快だ。運動不足はこれだけ巡ると息があがる。そうあることが、幸せだ。
到着すると、昨日鋭也がしていたように、古川は腰を下ろす。時間帯も近似するようだ。最も暑い時刻を、ちょっと過ぎた頃だ。曇り空が覆うのも同様である。
鋭也がその隣に着こうと試みると、何だか尻触りがしっくり来る。景色がいつもと変わらないことから鑑みて、きっと勝手に習慣づいているのだ。
古川は傍で、「悪くないね」と呟く。一車線の幅の道の向いに不動産屋がある。人通りは相変わらず少ない。鋭也は、彼女が道端に座り込むような所業をやると思わなかった。けれども、彼女は座り込んで、澄んだ目をして細めている。
鋭也は間をおいて、「うん」と応じる。
鋭也は清々した。彼らは数十分もの間、そこにじっとしていた。
例によって、子供たちがぞろぞろ不意に現れて出てくる。子らは古川に一目置くもののそれ以上頓着せず、鋭也に恒例の遊びをしかける。
「お兄ちゃん、あれやってー」
「ああ」
「あの人はー?」
彼らは鋭也のことをどう思っているのだろう、とふと古川は考えた。鋭也は遊戯の中で少年少女に望まれる役割を、きちんと果たしている。彼女はその様を、真剣に観察するのだ。
「何だよ」
「ううん」
鋭也は、はにかんでいる。
皆またどこへともなく消え入る。再び、大口を開けた何ものかに呑み込まれていく。――その情景の目撃者は、鋭也である。彼らはそれの腹の内に取り込まれると、気づかずに遊ぶ。大丈夫だろうか? そんな鋭也の憂いも、隣の古川の一言に掻き消される。
彼女は何故だか紅潮して「すごいね」と一息に告げてくる。鋭也はよく分からぬまま「うん」と頷く。
二人はとうとう家路を辿る。昨日訪れた家を目指す。豊川の友達探しのことなど、すっかり忘却している。
鋭也は馴染んだ古川の横顔を窺う。『任務』のことを問うか迷う。彼女の考えには、微塵も存していないようである。
着いた。門前で呼び鈴を鳴らす。機器越しに発せられるのは、聞き慣れた豊川の声である。
「よう、もう来たか。入ってこいよ」
「はあ」
古川は遠慮なしにずかずか上がり込む。その所作一つ一つ横柄である。鋭也が尋ねてみるが、昨日一度来ただけだと平気で答える。
屋内に上がり込むと突き進んで、一思いにリビングに到達する。そこに豊川が待ち構えている。
「おい、俺の友達探しはどうなった」
「そんなのやってられませんよ」
古川はふてぶてしく嘆声を漏らすと、脱力して、そこに設置してあるソファに背から倒れ込んだ。
「ああ、でも気晴らしにはなりましたよ。羽野くんと大学に行って、図書館に行って、うどん屋にコンビニに……」
「二人でデート行ってこいと言った覚えは無いぞ」
「友達なんて人に見つけに行ってもらうものじゃないですよ。どうしても欲しいなら自分で、血眼になって探しに行ったらいいじゃないですか」
「何ぃ」
「だってそうでしょう? ねえ、羽野くん」
とんだ流れ弾が来た。鋭也は硬直する。
「それにできるだけお金持ちだなんて。……一体その友達に、何をさせる気ですか?」
「えっ? いや、それは別に……な」
「どうせ少ない小遣いの節約に、ご飯を奢らせたりするんでしょ」
「まさか!」
豊川が苛立ちを募らせる一方、古川はご満悦の様子でますますソファに背もたれる。目まで閉じる。その刹那に、豊川は鋭也を一瞥して柄悪く舌打ちする。どうも、鋭也は豊川に嫌われているらしい。分からないうちに好かれないのは、鋭也の場合よくあることだ。
ピンポンが鳴って響く。応える間もないうちにダンが入場してきた。古川も「ダンさん」と言って身を起こす。彼の後に少年少女が一人ずつ連れられている。
「誰だよ、その子ら」
「ああ。お前の友達候補だ。悠も羽野も一向に任務を解決しようという素振りを見せないからな。コンビニのガキのうちから連れてきた」
「え? つけてたんですか?」
鋭也も古川も、一切その気配に気がつかなかったのは驚きだ。
「尾行も任務の一環だな。しかし、どうだ! 内気な豊川の友人にはぴったりじゃないか」
「何だか誘拐みたい……」と古川が呟くのにも構わない。
少年少女は全然人見知りしない。それどころか、
「あっ、鋭也の兄ちゃん」と指を差す。
「あのさあ、この全身緑の人と友達になってくれないかなあ」と、ダンが語りかける。
「目はよくなりそう」と少女の方が大きく見開く。少年はやがて、日暮れが気がかりになったのか、帰ろうと頻りに急かし出した。
「はい、じゃあ友達になったってことで。ミッション・クリアーだ」
「それ、何の遊びー?」
「大人にしかできない遊びだ」
ダンは用が済むとさっさと二人を退かせる。彼らは、とんだ厄介に見舞われた。
「おい、あいつらはあれになるのか」と豊川が柄悪く言う。
「ああ。親がな」
「ふうん」
古川や鋭也には何の相談だかさっぱり分からない。
「よし、じゃあ次の任務だ。今度は……そうだな。見ていて思ったが、羽野くんはちょっと重病みたいじゃないか。それを治療してやることにしよう」
鋭也はその指摘にピクリと体を震わす。
「『治療』って……羽野くんは病気じゃありませんよ!」
「まさか。ずっと青ざめてたぞ、外に居るだけで。大学の食堂の時なんか酷かった。ありゃあ……」
「ちょっと!」
「そんなに酷いのか」と豊川が調子を合わせる。
それから彼らは、鋭也の症状の如何なるかを談義する。すると、鋭也は震えた。震えたとは言っても、そうあからさまにではない。顔色が若干青白くなっているのも、彼を丹念に観察する者にしか気づき得ないところである。
古川は怒る。彼女は「行こう」と鋭也の手首を引いて行く。どんどん行くから、鋭也は引きずられる恰好になる。
「おい」と呼び止められるのにもかかわらず、出て、通りまで来て、塀に隠れると向き合った。
「ごめんね、無理やり」
「いや、いいよ」
思えば今日はずっとこんなだと、鋭也は感想を胸につぶやく。
「ダンさんも、見損なっちゃったよ。……羽野くんは病気じゃないから」
古川がそう意地を張る理由は分からないが、有り難いのには違いない。鋭也には病気であるのと無いのとの境が判然としない。けれども、古川以外の皆が言うのだからきっと病気で間違いないのだろう。親には散々、医者にも精神科にも一通り連れて行かれた。どうやら『問題』が有るらしい。『問題』が有るのと無いのとの境も、実は良く分からない。古川は皆、本当は鋭也と同じだから病気じゃないと言う。けれども、普通ではないから皆と同じようにできないのだ。鋭也の部屋の構造からしておかしい。ますます分からない。けれども病だと決まってしまうよりはずっといい。
「どうする? ……ミッションは」
鋭也は『ミッションって何だ?』と毒づきたくなるのを堪えて、やっと「うん」とだけ返事をする。受け答えになっていないのは分かっている。が、これが彼にとって精一杯の応答である。
二人は黙って歩く。昨日と、同じ景色が続く。彼らの後方から徐々に赤みを帯びた陽が射して、前方に長い影法師をつくるようになる。二人の間に蔓延する漠然とした不安が、その光線に透かされる気がした。――長い体感時間を経て、彼らはようやく分かれ道に出る。
「じゃあ、羽野くん。明日は学校の後、家に行っていい?」
「あっ、俺、多分」
「えっ?」
「いや、また決めるよ」
古川はしばし沈黙する。
「うん」と答えて「またね」を続ける。
鋭也は家に入る前、去って行く古川の背を見やった。『羽野くんは病気じゃないから』——その文句が反復して、やみつきになる。何だか窮屈なのをやわらげてくれるようだ。凝り固まった部分を解してくれる。もう、いいのかなと思う。いや、彼自身の中では、もはや何が苦痛で何を望むのか、整理がつかない。彼には今の生き方が唯一なのに違いない。
鋭也は手当たり次第突き刺さる矢印状の『何か』を憎んだ。けれども、今は手なずけられやしないかと考えるようになった。避け続けてもどうせ追ってくる、その方がずっと賢いに違いない。妥協はしない。必ず飼ってやる。
カラスが一声、カアと鳴くともう二三度繰り返した。続けて蝉の声の残りかすが、古川を失った夕景に染み入る。