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 また朝が来た。

 鋭也の今日の起床は普段よりも早かった。学校に行かないせいで生活習慣は小さくなく狂っている。だがこの朝に限っては寝覚めも良く、鋭也は布団から姿勢良く身を起こしてそれを早々に畳み終えた。

 随分遠ざかっていた感覚を認識する。窓から日が漏れてくるが、朝日とはこの事を言うと、鋭也は久方ぶりに知り得た。すると、まだ早いにも関わらず着替えに取り掛かる。身の軽いせいか、気が付くと次の行動を始めているようだ。

 鋭也とて、生まれつきでこのような症状に悩まされているわけではない。いや、本当のところは生来だったのかも知れないが、それならばきっと、その持ち合わせた鋭利な感覚に気づかないふりをしていただけなのだ。——違和感は、あった。雑踏は苦手だ。少年の騒ぎ声は嫌いだ。少女の絶叫も不愉快である。大人がひそひそ話をするのも気に障る。ほくそ笑むのは気味が悪い。酷いときには視界が渦を巻き、一瞬後には膝を地につき両手を耳にやる。それで混沌が終わるならいいけれど、世間は一向に加減を知ろうとしない。単にうるさくて煩わしいだけじゃない。あるイメージが、鋭也の頭の中にいちいち浮かんでくる。。それを一つ一つ相手にするのは疲れるし、果てしない行列をつくろうものなら、何が何やら分からなくなって、目眩がする。並んでいる音は、子どものものなら皆好き勝手に騒ぎ立てる。大人なら早くしろ! と随分後ろからであってもやじを飛ばしてくる。もう収拾つかなくなって、無造作な列を何とか整えていたのも崩れ出し、いよいよ無秩序になる。そうなるとそれは言葉としての品性を失い、理性も喪失して滅茶苦茶に入り混じって錯乱する。果ては先の尖った矢印に変化へんげし縦横無尽を極め、消化も脱出もせずに直接肉壁に突き刺さって来る。鋭也は、その不合理の矢印を非常に憎んだ。

 突き詰めるとそうであるのが、周囲には音恐怖症だと解釈された果てが現在である。

 しかし、鋭也は不思議と今朝に限って胸のすく気分でいた。これから古川がやって来て、それから共に大学へ行くのだ。そう整理してみれば何のことも無い。

 洗面所へ行き、顔を洗う。朝飯を食卓でそそくさ頬張ると、また部屋に戻る。母親は上機嫌である。鋭也が進んで降りてきたのは何日かぶりだ。亮のいる土日には滅多に顔を出さない。ついでに洗面所で歯磨きも済ませておく。水流の音も清らかで良い。顔に粒が弾ける感覚も爽快だ。清潔は快適の入口である。これは、『朝の営み』と呼んで、相違ない。

 鋭也は机に向かうと背筋を伸ばして、しおりを挟んだ続きのページから捲る。鋭也はこの時理解した。何事も集中力次第である。言葉の組み合わせと文脈に従って意味の創出されている構造が今時分ばかりは、ありありと見える。目や頭で追っていてちっとも気分が悪くなったりはしない。一つ一つ相手にして、我儘も言わないし無暗に急かさないから熟考も叶う。今まで何気なくやり過ごしてきたところを、いざ、この境地に至ったのは初である。『読み耽る』の定義がこれらしいと、鋭也は独りで納得する。

 古川はこの事実を知っていただろうかという事に思いが至る。これを自分に伝えたくて、わざわざ大量の本を来る度貸してくれていたのではないか。彼女の心意気を悟った気になって、鋭也は誇らしく思った。

 チャイムの音が響くと、母親が覗いた。もはや、この仕掛けも、必要が無いように思える。

「悠ちゃんが来てるよ」

「今行く」

 母親はすぐに引っ込んだ。

 鋭也は書を閉じる。読書を中断するのは少々躊躇われたが、少しも悪いことはないのだからと割り切ることにする。『読み耽る』悟りは既に体得している。よって、またその境地を味わうのは、不可能でない。

 鋭也が平然として下りてくるのには朝食の時と言い、母も少し驚くようである。玄関で迎えた古川も、彼がイヤホンを持ってきていないようなのは心配だ。が、言及は敢えて、控えておくつもりらしい。

 二人は昨日と同様にして、並んで歩いた。鋭也のたたずまいは背筋を伸ばすせいかどうどうとしていて、古川は相変わらず他愛無い話を畳みかけるが、それにもいちいち鋭也は明確に相槌うって、懇ろに笑い、そして、それ以外は直線に目前を捉えていた。古川の方は訝しがる。けれどもあれこれを指摘しようとの考えには至らない。

 現在の鋭也には、余り物などが、この世にはあり得ないように思われた。あらゆるものが意味を有していて、その全てが自分の理解の範疇に無くとも、その自らの無知の有様でさえも、抵抗無しに受け入れることができた。それもこれも昨日の気分転換に始まって、古川の紡ぐ、屈託の無い会話の内容と小説の筋が影響を及ぼしているらしい。彼が今朝に読み進めたのはほんの数ページである。

 故、鋭也にとってそれなりの重みと充実感をもって時は過ぎ、大学のキャンパスまでやってきた。この学校に古川やあの先輩二人が通い、そして本来鋭也も毎日足を運ぶはずである。彼自身、この地に足を踏み入れるのはかなり久しい。入学してからすぐに行かなくなったから、どんな道や施設があるのかもいまいち把握していない。二人はそれまで完全な並列だったのだが、半歩古川の方が前に出た。

「さあ、羽野くん。あの趣味の悪くてセンスゼロの先輩の友達になってくれそうな人を探さないと」

 そう言えばそんな話であったと、鋭也はこの時初めて思い出す。鋭也はこの小旅行のことは、ただ古川と待ち合わせをして、大学へ行くだけのものだと心得ていた。おかしなようだが、それが本当である。

「できるだけお金持ちの人を選ぶんだって」

 古川は立ち止まって、鋭也の方を一旦振り向いている。両袖に木々が並び立ち、朝焼けが差す方向に準じて陰をつくっている。辺りはつかの間森閑とする。

「でも、朝早く来すぎたかもね。あんまり人、いないし」

 古川は軽く見回してみる。仕切り直し、「行こ」と呼びかけると、今度は一歩分くらい前に出る。

「あの人って、どんな人なの?」

 鋭也は言葉足らずなようだが、豊川のことを尋ねている。

「うーん、何か、とにかく変なんだよ」

 古川は辺りの探索を進めつつ鋭也と語り合う。

 やがて蝉がジージクジージク鳴き出した。こうなると話は変わってくる。葉の擦れ合いなどは可愛いものであった。けれども斯様なジージーは無視するには喧しい。咀嚼しようにも無意味で、かつ騒ぎ立てることにかけてだけは一級だから質が悪い。蝉は自身の鳴き声が芸術だと心得ているに違いない。

「ツクツクボウシは歌を歌っているんだってよ」と古川は教えてくれる。こんな無為を無茶苦茶にやるのは歌じゃない、と反論してやりたくなる。が、「へえ」と応じるにとどめる。

 二人を包み込んで守っていた空間は、皮を剥がされ、徐々に外界へと開かれつつあるようだ。それに伴って鋭也にも支障が来たされ始める。だがその変調は古川に悟られぬようにする。鋭也は彼女が影で刻印する足跡を辿って行った。それは直線に食堂の方へと続いていく。

 この食堂は、まだひんやりとした空気を保っている。昼になると一面の窓景色から暑いくらいの日差しが差し込むはずだ。そして、その華やかさにしたがうように、人口も増していく。が、初見の鋭也にはどうこの空間が推移していくのか皆目見当つかない。

 古川は先導するままに適当な席に身を落ち着かせた。その場は窓際とも壁際とも判別つかない真ん中であった。人はまばらだ。穏やかな場景である。そんな適度な雰囲気につられて、鋭也が口を開いた。

「食べている人に声をかけるの?」

「んん、分かんないけど人もたくさんいそうだし」

 以前、鋭也は古川に、自分は計画を立てるのが嫌いなのだ、という旨の話を聞かされたことがある。筋立て通りに行動するなんてつまらない、彼女は確かそのように語っていた。どうやら全くその通りだと、鋭也も今では考える。粗筋があらかじめ決められていてそれに従い尽くして事をやり過ごすならば、どこかの劇中人物と実態は同じである。そもそも人の立てた欠陥計画ではなかなか思い通りに事が運ぶことも少ない。故に、それらの一連にかける時間は全く無駄なのである。

 そう思って気分が向上し始めると、古川に今一度、その真意を問いただしたい衝動に駆られる。

「古川って、何でスケジュール立てるの嫌いなの?」

 彼女はそれまで呑気に構えていたのが、ちょっと強張る。文脈がまずかったのかもしれない。

「立てて欲しい?」と彼女は挑戦的な目を向けてくる。冗談を言うような口調だから鋭也も多少は安堵して、「いんや」と応じる。

「俺もそういうの、あんまり好きじゃないよ」

「だよねえ。臨機応変が一番」

 古川はひとつ深く息をつく。

「この大学にお金持ちなんて来るかな」

「さあ。ダンさんが勝手に言ってることでしょう? あんまり気にしない方がいいよ」

 窓越しなのに、蝉の野郎はまだジージー息づいているのを一方的に知らせてくる。こう自分勝手なのは嫌いだ。古川とは大違いだと、鋭也は毒づく。彼女は彼女の存在を存分に知らしめると共に、鋭也の存在も目一杯包容する。彼女と居て心地良いのは、その点に所以があるのだろう。

 が、一方で鋭也の内に波立つ動揺はそろそろ隠し切れなくなるほどに悪化している。朝、家を出た時分の心持ちが懐かしい。あれほど空っぽだったのが、古川が付いていることによる効果もむなしく、侵食を着実に被り、殻が破れたちょっとの隙間を縫って汚していく。外界には何か、人が生涯その眼に映すことの叶わないウイルスのようなものがはびこっているのではないか。人の内心に作用して、それに免疫のない鋭也には、いよいよ耐え難い苦痛を与えようとしている。免疫のないと言うより、強すぎるのかも知れない。アレルギーの仕組みと同じだ。過剰に退けようと躍起になる故、苦痛に苛まれる。駄々をこねられようが、野次を飛ばされようが、聞こえぬ見えぬのふりを決め込んでしまえば良い。それが片手間にできる者から見れば、鋭也などは不器用極まりない。甲斐性など無論無い。好んで窮屈を選び、進んでその殻に籠もるのである。月並みには解き明かせぬ異常行為をとる者として、彼は遠ざけられよう。医者には神経症と診断されるだろう。そうであるからには、『免疫の』疾患なのだ。

 食堂に人も賑わいだすから、泣きっ面に蜂である。

 古川は変わらず水のおかわりだけして鋭也にも是非とそれを勧める。鋭也もちょっぴり口に含めるが、生温くてそうごくごくとはいかない。

 閑散としていた食堂も午後近くになると途端に繁盛する。そうすると、古川もやっと連れの異変に気が付く。彼女は慌てて退出を促すが、鋭也はずっと首を振る。きっともう外見に容易に見て取られるほど、心の動揺はたかぶっているに違いない。それでもこの葛藤には負けたくない。頑なに、古川の心配りを拒む。差し伸べられた手を払いのけるようなことは、もう二度としない。けれども、頑固で愚かでも譲らぬ為に、闘わねばならない時がある。それが今に違いない。とにかく、鋭也は首を振る。

 ぐったりとした鋭也は、彼女に引きずり出された。——カチャリン、カチャリンと食器は鳴っている。人はいい加減なことを口の洞から発音する。ガンと何らかの衝突が起こる。

 結局、食堂を出て、林を背にした石垣の上に乗っかる。古川は癖づいたのかまた鋭也の背をさすってやる。

「ごめん、やっぱ食堂は駄目だよね」

 古川が言う。鋭也はまた考えを巡らす。彼は他人から気遣いを受ければ受けるほど、もどかしくなって苦しくなるが、それを打ち明けられた事は無い。

「そうだ、今度は図書館に探しに行かない? あそこならきっと、大丈夫だよ」

 古川に関しては必要以上に古川自身を責めたりしないのが救いだ。きっと、彼女は強いのだ。それに比べて自分は弱い。だからこんな病気をするのだと鋭也は自分を貶す。

 古川は鋭也の呼吸が一段落するのを待った。鋭也はまだ無理はあるが立ち上がって、「行こう」と気丈に呼びかけて先を行く。古川は案じながらその頼りなさげな背を追いかける。その時、鋭也が言った。

「俺の病気のせいで、ごめん」

 彼はふと吐露したのみでそれ以上のつもりも無かったが——従っていた足音が消えた。

 慌てて振り返る。そこに、打ちのめされたように呆然とする古川がいた。『打ちのめされた』と言うのはそれほど大げさな形容でも無い。古川は鋭也の口をついた正直な自覚に耳を疑ったのである。

「羽野くんが、病気?」

「えっ?」

「それって、何のこと言ってるの?」

「いや……あんまり外に出れないところとか」

「病気なんかじゃ、ないよ」

 古川は少々表情を緩ませる。

「みんな羽野くんと、同じようなこと思ってるよ。羽野くんはちょっと素直過ぎるだけ。みんなは……きっとごまかしてるんじゃないかな」

「ごまかす?」

「羽野くんはみんなと同じだけど、特別だってこと」

「へえ?」

 鋭也は素っ頓狂な返事をする。

「羽野くんみたいに素直に生きられる人って、なかなかいないよ。みんなどこかしらで折合つけてやってるんだから」

「そんな話、初めて聞いた」

「ほら、やっぱり羽野くんって、変だよねえ」

 彼女は自分を励ますのだか、そうでないのかよく分からない、と鋭也は心中に呟く。

 けれども、何だか納得するところはある。鋭也は少しだけ自信をつける。あながち一人ぼっちでも無い気になる。不器用は鋭也の他にも確かにいるかもしれない。

 が、古川の言うことが事実だったとして、それで手放しで喜ぶわけにもいかない。逆を言えば、鋭也には普通の人が持ち合わせるような器量が不足しているということだ、とこの時の鋭也は現状を考察した。このような見方では、やはり鬱蒼とした気分となる。

 一つ思いついたことがある。『みんな』と言うからには古川も……と考える。その疑念を言葉にして聞く前に、彼女は鋭也の脇を抜けて行った。

「行こ。とにかく! 羽野くんは病気じゃないから」

 まるで、そのことだけは言っておくよ、と後に言葉が続くようだった。

 鋭也は徐に発進して、古川を追った。不可視のウイルスへの特効薬は、案外あちこちに落ちているものかも知れない。

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