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 鋭也は耳栓をして、コンビニまで出かけることにした。今日なら、何とか外出も可能だと判断した。避難所の空気はいつ何時も澄んでいるが、外界に身を浸すことも、やはり適宜必要である。

 鋭也のその基準は、非常に不安定なものである故、境を明確に示すことはできない。彼自身の感覚に頼られる他に無い。

 無論、飛び出していくのは怖い。恐怖は、籠もっている時間が長ければ長いほど、増大する。それを封じる為にも、出歩くことは肝要である。決して無理はしない。極力、人とは関わらないようにする。蒸し暑い場所にも行かない。要は、都会や国道沿いなどには出て行かない。イヤホンから流入する音楽は、鋭也をどっちつかずの麻酔にかける。どこか謎めいた感覚である。外にいるようで、まだ彼は殻をかぶっている。

 世間に溢れる煩わしいことの全部を、大抵取り捌いてみせる俗人は偉大だと、鋭也は思う。彼にとって、その器量は羨ましい限りだ。世の中にはどれだけの、塵事が跋扈しているだろうか。普通の者は決して数え上げたりしまい。が、鋭也はそれらにいちいち指折りしている。それにて厭世を始めるわけでもなく、ただ自身を陋劣だと貶すのが鋭也という人間である。

 耳栓に関しては種を問わない。周囲の雑音を取り除いて、穴を塞げればそれで良い。有害物質の入り込む隙をつくらないことが第一だ。この日の鋭也の場合、例によってイヤホンを身につけて音楽を流す。その時家にいる時のような優しい音色では負けてしまうから、出来る限り音の多いものを選ぶ。ただ無暗なやつではもちろんいけない。その選考基準は厳しい。幸いに、選曲の暇は十分に有している。

 こうして憂さ晴らしに出るのはちょっとした珍事である。一昨日の古川の訪問も関連するだろうか。今日は週初めで皆うんざりしているであろうが、こう長らく引き籠りの生活を続けていると、そんな俗世間的な忙しい人情は忘却してしまった。大通りを必死に避けて、やっと目指す地がただこのコンビニでしかないのだから、彼にとっての世間は随分狭くなった。

 彼がこの場所に来るのには理由がある。端的に言えば、構ってくれる者がここにはいる。その者らはこのような平日の放課後に、どこからともなく集まってくる、子どもである。

「にいちゃん、今日もあれやってー」

 鋭也は店内には入らずに、入口の段差の端に腰掛ける。

「いいよ」

 それにもうイヤホンを外している。ここに来ると彼は不思議と、雑音の生じる不愉快を忘れることができる。子どもたちが、鋭也の相手をしてくれるからかしれない。彼らとの会話に、熱中する故と言えないことも無い。子どもは良くも悪くも、年長の鋭也に対して気兼ねなく話をしてくる。

「ねえ、あの人はー?」

 少年の一人が今入店する者の後姿を指差す。

「あの人は、作業服着てるから工事現場の人。ほら、微かに聞こえてくるだろ? 土を削る音」

「じゃああの人」

 今度は別の少女が、店内にて飲み物の戸を開いている女性を示す。

「うーん、あれはこれからバイトの面接に行く大学生かなあ」

「ばいとの面接?」

「アルバイトだよ。スーツを着て行くから、塾かな」

 鋭也は年相応の見識を、一々子どもらの質問に答える形で披露してやる。これが彼の時々の暇の持て余し方。いわゆる『職業当てゲーム』なんて言い方をすると、少年少女には何か神秘的な響きを含む遊びであるのに違いない。

 鋭也のするところは、別段特別の技能を必要とするものではない。観察眼など、固より、一目見れば分かる程度にしか存していない。けれども、誠実な態度でこの遊戯に臨むことが最も重要である。鋭也はその条件を満たす点で、子らにとって偉大である。

「羽野の兄ちゃんは何でそんなに色々知ってるの?」

「何にも知らないよ」と鋭也は謙遜するが、子どもには良く良く分からない。

「今度私の宿題教えてー」

 少女が提案する。

「俺の宿題やって」とは少年の切実なる要望である。

「それはいけないよ」と鋭也がそれを脆くも打ち砕くと、「けち!」などと捨て置いて、彼は彼らの集団に戻っていく。

 そうして、一段落すると子どもらはまたどこへとも無く去っていく。一人取り残される鋭也は、何故だかすこぶる満足気だ。そのせいで表情を緩ませていると、「羽野くん」と聞き慣れた声で不意に呼び掛けられるから、鋭也は覚えずすっくと起立した。

「古川……」

 彼女は通りすがりでどこかへと向かうらしい。大学の方角からやってきた。

「どうしたの、羽野くん、こんなところで……音、大丈夫?」

 無論気遣いは嫌ではないのだけれど、改めてそれを意識させられると途端に気分が悪くなる。取り敢えず、「大丈夫だよ」と一言伝えておく。古川にしても、もはや彼の言葉を額面通り受け取るばかりではない。

「そうだ! 図書館、一緒に行かない? 図書館ってさ、驚くほど静かだよ。……そうだねえ、羽野くんの部屋くらいは、静かかな」

「本当?」

 図書館などもう長いこと行かないし、それがどんな雰囲気を持っていたかなんて忘れた。が、平気で暮らせる場所が一つでも増えるのなら、それは嬉しいことだ。

 図書館へ、古川と共に行きたい、と思う。二人は暗黙の内にお互いの同意を悟って、行くことにする。

「イヤホン、しててもいいよ」

 古川は思いやるが、鋭也はそれをいなして彼女の傍を歩く。

 二人の身長は同じ程度だが、ちょっとだけ鋭也の方が高い。古川の、耳を隠した黒髪が踏み出す度に揺れるのに、目をやる。黙々前だけ見据えて歩む彼女は、もしかしてこの最中、思いもよらぬ空想を広げているのではないかと——そう考えたのは、彼女の髪の毛が一本、頂点付近でちょんと、重力に逆らって跳ねていたからだ。

 古川は敢えて裏道ばかりを辿った。彼女は鋭也に大学での話を聞かせてくれる。これから会いに行く人物が、留学生なのだとも告げてきた。どうしても大通りに出なければならない際には、鋭也にイヤホンを着用するよう強く言う。けれども鋭也は耳を手で塞ぐ程度にとどめる。それは、鋭也のささやかな意地であった。

 信号の時機を見計らい、小走りに渡ることにする。図書館周りは国道を免れる為、再度寂然とする。

 鋭也は前回の、階段での事を謝ろうかと思いついた。きっと古川なら「いいよ」と素っ気なく返してくるに違いない。が、その謝罪が彼女にもたらす感情を思うと、どうだろうかと忽ち分からなくなる。古川はそういう細かな事情にとやかく言わないし、また言いたがらない。だから敢えて今になってそのことに言及するのは良くないのかもしれないし、本当は胸中ずっと気にかけているのやもしれぬと、低回する。

 古川は大学の話に次いで、通り近くの料理屋の話をする。それは清潔で、どこかくすぐったい気もする、懲り固まっていたものを解してくれるような話だ。古川の話は何もかも鋭也には知り得ない。まるで未だ見ぬものを紙一杯にしたためた、冒険録の中身を聞かされるようである。

 こうしている間に、鋭也は前述の詫びを告げる機会を失った。既に館内に進入している。古川は前方指差した。そこに、話にあったらしい人物がいた。

 その側まで来ると、古川は「ダンさん」と言ってその長身の男の色黒顔を見上げた。鼻筋が通って、頬骨が特徴的に浮かんでいる。笑うときには見事なえくぼをつくるに違いない。

「よお。そこのは」

「羽野くんですよ」

「羽野? へえ……」

 ダンは初対面の鋭也の顔をまじまじと見つめてくる。鋭也の方は心なしか後ずさりする。

「それじゃあ、ちょうど良い。君もついでに誘っておこう」

「何かの勧誘ですか?」

「そうだ。悠、お前らを『ミッション・チーム』に招待しよう」

「は?」

 鋭也は古川の横顔を窺う。彼女の方も、どうやら呆気に取られているようである。

「『ミッション・チーム』って?」

「大学のサークルだ」

「活動内容は?」

「依頼された任務をきっちり遂行するんだ」

「任務、ですか?」

 鋭也は二人の会話を聞いていて、何だか子どものごっこ遊びに近しいものを感じた。

「そうだ。例えば、街の人に犬の散歩を頼まれるとする。そうしたら、やってやるんだ。で、河原の掃除だってするし、雑草刈りだってする。それから……」

「ボランティアですか?」

「まあ……そのようなものだ。皆の役に立つんだ。やりがいがあるだろう?」

「それって……」

 古川は呟く。ちょっと間を置くと、「面白そうですね!」

 耳を疑う。鋭也は、面倒事に巻き込まれそうだと思い、すかさず口を挟む。

「あの! 僕にはできそうに無いって言うか。ほら、そんなことした経験無いし……」

「私にも無いよ?」と古川は平気で答える。

「でも、面白そうじゃん! 絶対、暇つぶしにはなるよ。もうすぐ夏休みでしょう? サークル活動の一つくらい、大歓迎だよ!」

 なるほど、暇は鋭也にとっても死活問題に違いない。忙しいのばかりが辛いという考えは間違いで、暇もあらゆる面において大敵である。ただ、それとこれとでは少し話が違う。鋭也はしぶとく首を縦に振らない。が、彼をよそにして話だけはどんどん前に進んでいく。

 結局はダンが、これから『ミッション・チーム』とやらの活動場所に、二人を案内するのだと言う。鋭也は流れに身を任せて、後を付いて行く他ない。古川は鋭也の体調に関しては気を馳せるが、現在の彼の心境には無関心だ。今、向かう際にも耳を塞ぐようことあるごとに言う。ボランティアには当然参加するものとして、さておいている。

 ただ、やはり、こうしつこく古川が鋭也の体調を気遣うのには、どうも前の階段での件が影響しているらしい。

「古川、ごめん、この前」

 鋭也は咄嗟に言う。それだけで十分通じたつもりであったが、彼女は「何が?」と問う。敢えて尋ねるもののように思える。けれども、そんな推察には至らないというふりをする。

「あの……」と口ごもる。すると優しい彼女はそれ以上意地悪はせずに、「ああ」と思い至る。それから「別にいいよ」と微笑みかけてきた。先導していたダンがいささか振り向いて彼らの様子を認めた。

 胸の内を隠すようでありながらお互いに全部筒抜けなのがおかしくて、鋭也はいささか苦笑をした。

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