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 古川らの通う大学は、急な勾配を登り詰めた先にある。夏は毎日登校するのに、汗を噴いた学生が一限の授業を受ける。

 鋭也も同じ、この大学に通って日常的に息を弾ませなくてはならぬ一員のはずであるが、それを経験したのは、幾度と指折りで数え上げられるくらいであろう。

 ここで、古川と鋭也の二人の経歴を簡単に綴っておくことにしよう。二人は小・中と同じ学校に通い、どういうわけか高校まで一緒だった。二人で話を合わせたわけでは無い。それで大学まで重なるとなれば、奇遇である。

 学校内での二人の関係は、希薄であった。家ではよく話したが、それが教室にまで持ちこまれることは無かった。共に登校することもあったが、門をくぐればそこまでである。

 その時分から、鋭也に現在の兆候があったか、と問われると、古川ははっきりとは答えられない。彼自身は内に秘めていたかも知れないし、大学に進学して突発的に覚醒したものかも知れない。親の次に間近に彼を長く観察してきたのである。その端緒をいくつか発見していても良いはずである。

 古川に言わせるならば、鋭也の近頃の症状は、『正直』のあらわれである。彼女は、鋭也は率直な人だと思う。古川だって、騒音は嫌だ。人の多いのは、頭の整理がつかなくなって嫌だ。雑踏にまみれていると、不思議と余裕が無くなって、嫌だ。嫌だけれど、慣れっこにして、自分を騙し騙しに欺いていれば、いつの間にか改めて痛みを伴うことは無くなる。その手法を、鋭也は突如として忘却してしまったのだと、古川は考察している。人混みを平気に歩けるからと言って、胆斗の如しとは言わない。鋭也は粗忽に引き籠もるが、その方がむしろ肝がすわっているとも捉えられる。

 平たく言えば、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと公言できる人間の、何と僅かであるか。鋭也はその意味で、僅かの人間である。

『清狂』と言う言葉を本の中に発見した時、古川は、まさにこの二字は鋭也を形容するものだと分かった。彼を『狂っている』とするのは、古川は好まない。けれども『偏狂』と言う言葉も彼には似合っていると思う。——少なくとも彼女は、鋭也を狂人だと認めたことは無い。彼は、どこまでも、実直で、素直な少年である。

 古川の行きつけである、当大学のカフェテリアは、一面の窓が南西に向かう立地である。この他にもいくつか食堂はあるが、古川はここにしか来ない。入学して一年と三ヶ月程度になるが、広いキャンパスの、全容を把握してはいない。

 初夏の陽光は、梅雨の湿気を一時忘れさせてくれる。窓際の人々は皆、自然に微笑む機会が多くなる。その代わり逆の壁際の席は対照的に、皆陰気に過ごすのが趣味の者がこぞってたむろするらしい。孤独に何かしらと格闘してみたり、食事をスパイスに妄想を膨らませたりする者がいる。

 例えば、一番隅に茫然としている青年などは……今日の晩ご飯のことを考えている。今昼食を孤独に頬張りながら、夜にありつく飯の事を恋慕している。古川はいい加減な想像を断り無くやって、微笑する。

 ではあの肥えた眼鏡の男である。あれは……ずっと机に俯いて携帯を操作しているから、何やら知れない。時々眼鏡がずり落ちないように、腹を突き上げてやっている。強力な冷房のきく部屋の中にいながら、あれほど激しく発汗している。随分と珍妙な生態が、あそこに居座っている。

 さあ次は――と思って見ていると、見覚えのある全身緑ずくめが見つかる。ははーんと、古川は呟く。陰気な壁際へ、直線に向かう。

「横、いいですか」

 豊川は丸机に一人で居て、ノートパソコンに一心に向かっていた。古川は豊川の返事を待たず、携えたカレーの盆を置いた。それからパソコンの画面を覗き込む。

「何ですか。……ロケット?」

「ロケットエンジンだよ」

「何だってそんなもの」

「論文だよ。何か文句あるか」

「へええ……似合わないですねえ」

「どこが」

「だってロケットなんて」

「あのなあ、宇宙を理解するにはロケットの知識が必要だ。『ロケットなんて』と言われる筋合いは無い」

「豊川先輩、宇宙を理解したいんですか?」

「必要だからな」

「前までは原子とか分子とかやってたじゃないですか」

「世の中の本質を学問してたんだ。何か悪いか?」

 それまで忙しくキーボード上に動いていた手を止めて、いつの間にか古川に向き合っている。古川は定期的にスプーンを口にくわえた。彼女は言いたいことだけを言うらしい。後の豊川の反応などには無頓着らしいから、彼の方も諦めて再び画面を相手にする。まずは復習として、今時分の成果を一通り流し見る。次にマウスを操作して文章の末尾にカーソルを合わせた。

 彼女が横でずっと頬張り続けているので「一口くれよ」と声かけてみた。

「嫌でーす」と古川は嬉しそうに断った。豊川はその古川の幸せそうな表情を、苦々しい顔で見つめる。

「あっ、そう言えば、ダンの奴がお前に話があるってよ。図書館に来いってさ」

「ダンさんが?」

 ダンは留学生で、豊川の同学年である——というのは古川の勝手な認識で、本当のところは聞いてみたことも無い。どうやら二人は、海外のインターンシップで出会ったらしい。

「何の話ですか?」

「さあな」

「そう言えば、豊川先輩も昨日話があるって……」

 古川はそう、思い出す。

「ああ、そうだ。でも、どうせ俺が話そうとしても逃げるんだろ?」

「はい。長くなりそうなんで」

「まあ、確かに長くなる」と豊川は白状する。

「ダンさんの話なら、聞きますけど」

「お前、顔で男の優劣を決めるなよ」

「はあ?」

 古川はドキとして、大層機嫌を損ねた。

「あのですねえ……豊川先輩は、何て言うか、凄くマイナスなんですよ」

「ほら、そう言うところが良くない」

「分かりませんか? 自分で」

「ブサイクで悪かったな」

「顔だけじゃないです。もっと全体的にですよ!」

「どんだけ人を傷つければ気が済むんだ……」

 古川は最後、大口で頬張る。ツンとその匂いが豊川の鼻をついた。古川は直後に水を一杯に流し込み、喉を鳴らす。

「ごちそうさま。こう、実の無い議論してる時間が世の中で一番無駄ですから。それじゃ、」

「あっ、おい、ちょっと待てよ」

 古川は構わず去ろうとする。

「あのさあ!」と豊川が大声出すので、ちょっと振り向く。

「北丸屋のイチゴショートケーキ、どうだった?」

「おいしかったです!」

 古川はお盆を手に持ち、ニコとして会釈した。

 どうも歯切れが悪い、と豊川は自覚する。

 古川の残り香が辺りに漂っていけない。それはカレー自体の強烈な匂いなのか、判別もつかない。席を変えようと見回してみると、あの日の当たる端っこの空席が良いと思われた。

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