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 休日の昼時とは、これほど穏やかなものであろうか。六畳の部屋が得られる光は、長方形の二つ窓より差し込むもののみである。それで十分照らされている。短足四つを備えた丸机の傍に座して一心に読み、いささか疲労すると肘をもたれる、彼女の名は古川悠と言う。

 彼女はこの二階建てに一人暮らしである。両親は仕事で海外へ旅立った。古川は置いてけぼりである。それも中学校に入ったばかりで孤独を強いられた。その間、亮には随分世話になった。鋭也の母然りである。彼らは古川のことを、娘のように思っている。小さい頃は、泊まりこむことも多かった。鋭也とは兄弟ぐるみの付き合いである。

 何故このような構図が出来上がったかと言えば、亮と古川の父が、どうやら同業者らしい。彼らの会社は海外に本社があって、亮は日本支部の副社長である。そのよしみで、古川は羽野家に預けられた。

 古川の両親は、無責任である。古川ははじめ寂しかったが、二人は帰ってきても碌に彼女に構わぬ。いつしか、両親との血縁の事実も希薄になった。羽野の両親が実質、彼女の親である。そんな事情がある。

 部屋の壁際には、本棚が立派に並んでいるが、それらは彼女が独りで多くの時を過ごすようになってから、せっせと溜め込んだものである。棚は、多種の書籍に敷き詰められているようだが、実は所々にまだ隙間がある。ただ、並ぶのは、文庫や単行本が混じるにしても、辞典や啓蒙書の類は除き、小説ばかりである。

 古川は、読み耽っていた——外からはそう見えるが、実は妙な空想を浮かべている。

 場面は大学の教室。彼女は隅の席で怠そうにしながら、一応ノートはとっている。そこに、不審者が侵入してくる。その不審者は、お面か何かをつけているから、顔を知ることは出来ない。ナイフを携えて、側にいる女子を人質にする。教授も生徒も狼狽えるばかりで成す術無い。女子は脅されたまま教室は閉め切られ、犯人の要求が外部に伝えられる。が、警察に囲まれ、終いに逃げられないと悟った犯人は狂気に満ちて……生徒が危ない。そんな時! どうしたものか。

 思案がそこまで達して、古川は本を閉じた。答えをじっくり模索することにする。このとりとめない思考は唐突であると同時に、また突拍子の無いものでもある。古川の妄想はある種の現象のようなもので、突発的に、無意味に起こってくる。

 古川は人質の解放を速やかに達成する方策として、気づかれないように犯人の背後に近寄ると言う月並みな案を思いつく。……いや、随分危険だと思い直す。何かものを投げて犯人の注意を逸らすか? 妙な悪戯は良くない。

 他にもいくつか手段を考え出してみたが、どうも無理だ。犯人の設定が、そもそも愚直過ぎたらしい。彼が何を要求しているのかも分からないし、何にしても彼が捕まるのは始めから目に見えていそうなことだ。 犯人は捕まって服役するためにわざわざ今度の犯行に及んだかもしれない。はたまた教室ごと、自身の最期の巻き添えにするつもりだったとも分からない。

 妄想が狂気的、大事件の様相を醸し出したところで、今の件は打ち止めとする。こう非生産的な連想がともすると開始してしまうのが、古川の癖である。しかも頻繁に横道に逸れる。

 気を取り直して、また途中から読書を再開しようと思う。が、ふと、どこにともなく目をやった彼女が捉えたのは、部屋の隅に置かれた文芸誌であった。

 古川は高校時代、文芸部を兼部した。ちなみに、同じ高校に属していた鋭也は、帰宅部であった。あの雑誌は、その時分に部内で編纂されたものである。雑誌にはそれぞれの部員の、自作短編を載せたりした。古川は、そう難渋する事も無く、あっと言う間に書けあげた。調子づいて五編くらい書いた。そう報告すると、鋭也は才能があると言って褒めてくれたのを覚えている。

 彼女が書いたのは、ほとんど自身にも何だったか思い出せない。けれども、一つ、犬の話を書いたのだけは覚えている。

 ——暗夜に犬が歩いている。犬は飼い主無く、一匹でいる。道は悪い。随分やってきた。どこからやってきたか、見ている者には知れない。ただ歩く映像が目前に展開するのみである。犬の足下は覚束ない。あとどれだけ行くものか分からない。

 段々風が強くなる。雨も打ち付けてくる。足を運ぶのもけったいになる。——

 その後どういう話になったかは、ちょっと思い出せない。仕様が無い。古川には、赴くままに事態を広げる癖がある。

 ともかく、最後その犬は塵となって、舞い上げられる。どうしてそのような結末を用意したのか、その頃の古川に尋ねてみないと分かりっこない。

 そんな出来事を想起して、また書いてみようかと心中に思う。けれどもこのような心づもりは、大抵あれこれの波間に埋もれて忘れ去られてしまう。

 今度こそ、本の続きに目を通そうと試みる。

『そうして私は店員に軽い会釈を済ませた後、ポケットに手を忍ばせた。これが成功するか否か……』

 店員――。

『いらっしゃいませ』と接客するに違いない。古川は品物を渡し、会計を済ませることにする。

『ポイントカードはお持ちですか?』

『はい』とか細い声で応じると、一苦労を要して財布からカードを抜き取る。

『お会計千十六円になります。端数の十六円分、ポイントを使って引いておきましょうか?』

 古川は遠慮する。同時に、店員の心遣いに礼をする。無論、心の中で。

 ただ、ここに問題が生じてくる。まだ買いたい本があったのだと思い出す。偶然同じ店員に当たる。店員は同じ台詞を繰り返す。どうやらついさっき応対した古川のことも忘れてしまったらしい。自分は、客Aとして処理されたのだ、と思うと、何だかがっかりだ。手に入れたものを鞄に仕舞う為、側で作業をする。すると、他の客に対しての、例の繰り返しが耳に入る。

『ポイント全部使う』

『かしこまりました。お会計六百二十六円になります。端数の二十六円分、ポイントを使って引いて……あっ、全額ですね。では……』

 店員は犯してしまった。客Bに対するのに、客Aに決定的な瞬間を目撃されてしまったのだ。

 ——と、気をつけていないとすぐに脱線する。だがしかし、この時ばかりは古川の方にこの妄想への跳躍を望んだ節があったのは確かである。

 チャイムの音が静寂に染みた。古川は重い腰をのんびり上げる。膝が痺れて痛む。まずはインターホンを受ける。

「はい」

「俺だ」

「ええと」

「俺だよ」

「誰ですか?」

「俺だよ! 豊川とよかわだよ」

 ああ、と嘆声混じりに了解すると、渋々玄関まで出て行ってやった。

 扉を開いて、「何ですか?」と応対する。

「ご挨拶だな。ほれ、」

 そう言って差し出されたのは、ビニール袋である。古川はその中身を確認するより先に、豊川のつま先から頭部までを一通り眺め回してみた。こんな単調な服飾を目に映じていると、脱力感を禁じ得ない。彼は緑の長袖ジャージに身を包んでいる。まずその時点で、季節感の欠如を評されて然るべきで、ついでにセンスも一つ星である。単色な上に、緑は緑でも随分濃やかな緑だ。きっと何か緑に恩があって、それを埋め合わせしているのに違いない。そうでなければ好き好んでこう、どんよりとした印象を皆の心に植えつけようとは考えないはずだ。

 そこまで考えてやっと、古川は袋の中身に注意を転じた。すると、驚いた。

「これって、『北丸屋きたまるやのイチゴショートケーキ』……」

「食べたいって言ってたろ」

「北丸屋のイチゴショートケーキ!」と古川は繰り返し叫んでいた。

「どうやって手に入れたんですか?」

「まあ、それには紆余曲折あってだな……お前にやるよ」

「ありがとうございます!」

 言い終わるか終わらないかのうちに、古川は既に豊川から袋を奪い取っていた。

「ああ、そうだ。これとは別にお前に話があるんだが……」

 古川はしかし、「ありがとうございましたあ」と言うと、さっさと扉を閉めて引っ込もうとする。豊川は制止を試みるが、扉はカタリと素っ気なく閉じたが最後、すっかり物言わない。

 取り残された豊川は、寝癖のついた真っ黒な髪の毛をかき回した。

 閑静な住宅街を両脇に沿って、帰ることにする。途中、携帯を開いて電話帳を捲った。それから、誰かに電話をかけるようである。彼の胴間声が響く。

「ああ、ダンか。ちょっと伝えられなくてな。——ええ? 違うよ、悠が耳を貸してくれないんだ。——ああ、そうだ、お前の方からも頼むよ。——図書館だな? 了解」

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