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     一


 羽野鋭也はねのえいやが大学で一向に進級できないのは、彼にとって大したことでは無い。科目を履修すらしていないのだから、大学に属しているだけで大学生とは言えない。いくら不真面目な生徒であっても、何とか卒業できる程度には行こうと努力するか、あるいは潔く学校をやめてしまうかである。それがこのようなごく潰しを被って、前述のどちらにも当てはまらぬのには理由がある。――彼は感覚が、少し繊細過ぎるのだ。

 冒頭に彼の呑気な有様を述べたのは、彼が現在の状況を好むでもなく、倦厭するでも無く、依然停留に甘んじているのをかいつまんで説明したところである。

 引きこもりを決め込んで、ずっとゴロゴロしているのはぐうたらだ、怠けだと非難されるやもしれないが、全く外に出られぬ方もそれはそれで辛い。要は、少しは出かけてみるのが人間としては適度なのだから、できるならとっくにそうしていると言うわけだ。つまり、外出したくともできぬ、可哀想な身分にある。

 彼の耳に入れていいのは、静寂か、あるいは整えられた音の配列のみである。『整えられた音の配列』とは、つまり音楽のことであると言えよう。あまり音が傍若無人だったり、雑多だったりすると、彼の耳は途端に痛くなるのだから敵わない。耳の次に特に痛いのは、頭である。頭がグワングワンと内側からがなり立てて、何かが突き破ってきそうなのだ。その『何か』の正体に関しては、鋭也自身幾度も考察を試みたが、一向に要領を得ない。それが『矢印状に尖ったもの』であると言うことだけは、受ける痛みの程度から鑑みて、確信している。

 以上で分かってもらえたと思う。鋭也は学校に行きたくないのではなく、行くことができないのである。

 心理的問題は当人の努力で、ともすればどうにでもできると考える者がいるかもしれない。それは甲斐性を自慢にする世間人らしい、致命的な間違いである。甲斐性は、けなげに自らを周囲に受け入れられるように努力することのできない者を、愚人だと決め込んで疑わない。彼らの内には、信念と称せられる者が存したことが、未だかつて無いのに違いない。一度も経験が無ければ、それがどういうものか分からぬのも無理はない。あるいは中途から甲斐性を始めた者でも、すっかりそれを自身の胸中に宿す感覚を失っている。

 甲斐性に信念の伴わないはずが無いと言う者がいる。ここで言う甲斐性とは、自身がそうであるのを鼻にかけて『甲斐性無し』との区別を明確にしたがる者のことを言う。つまりは、甲斐性とは、曲げられれば曲がる、凹まされれば凹む、塑性の粘土のようなものを自分の信念だと置き換えて、一向に気にしないのである。

 彼らに言わせれば、到底鋭也などは意気地の無い頑固にすぎないのだ。これはもう、彼の特性である。鋭也は弾性の心を持ち合わせるが、それを不便に思うことはあれど、悲観することは無い。無論、塑性に憧れることも無いから、努めようが努めまいが、彼の心理的問題は直ちにはクリアーされない。

 彼の部屋は特注である。防音で、そこには彼の生む以外の音が現れない。これは鋭也にとって、全く理想的な空間だ。

 何が鋭也にとって障害なのか、それは把握し得ぬほどの混沌が、彼の耳の穴から手当たり次第侵入を繰り返し、抜けては入り、入っては抜けてを横暴にやるから、一向に消化されず苛々ばかりを生じることである。苛々も溜まれば病になる。病が続いては気が滅入る。気が滅入っては学校に行く気力も当然喪失する。それどころか、生きているだけでもしんどいと思う。ところが、その煩雑も少数なら処理できるようになる。鋭也などは特に感性が鋭いわけだから、一つ一つ賞味し得るならば、ひょっとすると芸術などといった大層なものにも昇華が可能かもしれない。

 特注の部屋故、玄関みたいにチャイムが備え付けられている。訪問者はこれを鳴らして鋭也の許可を経て、やっと入室できるところとなる。ちゃんちゃら可笑しな話のようだが、これは彼の親が取り付けたものである。

 チャイムの音は、ゆっくりと音量を増していく旋律だ。鋭也の好きな、オルゴールである。こんなチャイムによって、他がこの領域に足を踏み入れることを制限するのだから――家族にさえこうして制限するのだから――どうもやはり病的なようである。しかし、ことわっておくが、彼自身至って通常の人間である。ただ少し他と違っていると言うだけのことだ。

 堅牢な扉を押し開けて顔を覗かせたのは、鋭也の父である羽野亮はねのりょうだ。彼の顔つきは彫りが深く、天然に強張って見える。それを無理に綻ばせながら、鋭也に語りかける。その口調は猫なで声だ。

「えいやー、母さんが昼飯つくってくれたぞー。一階に来て一緒に食べないか?」

「いいー」

 鋭也は片手間にそう応答する。

 何を隠そう、鋭也は今高尚な読書の真っ最中である。と言っても、読んでいる本の詳細は良く知らない。何でも、皆が容易には知らないような作家の著書らしい。それだけに難しい漢字や言葉があちらこちらに混じっている。そうやって読み辛いのに耽って膨大な時間を持て余すと、何だかある道を悟った気にもなる。

「そかー、じゃあ、こっちに持ってくるなー」

 亮はすごすごと引き下がる。申し訳ない気分だが仕様が無いのは仕様が無い。気を取り直して活字を眼中に流す。耳元には心を癒してくれる美しい譜が進行している。

 おや、またオルゴールの演奏だ。こう立て続けなのは珍しい。先と同様に亮が見えるが、今度はそう弱腰でも無い。

(ゆう)が来たぞ」とだけ言い置くと、後は引っ込んだ。

 鋭也の方は、大慌てである。ヘッドフォンを外して、曲を止める。急いでちょいとだけ部屋の外に顔を出してみる。一人の女子が階段を上がってくるのを捉える。まだ部屋の前にいた亮が「おおい」と言って手招きすると、その子は小走りになった。

 つやつやの黒髪でショートヘアの彼女こそ、亮の言う『悠』こと、古川(ふるかわ)悠だ。黒系統の私服に身を包み、丈が足首くらいまでのズボンを履いて、右手に重みのあるビニール袋をぶら下げている。鋭也を見つけると空いた片方の手で挨拶した。

 鋭也は彼女を迎え入れると、先程まで目を通していた本を拾い上げ、開いたページそのまま彼女に見せつける。

「ほら、ここまで読んだよ」

「へえー、まだまだだねえ。……ほら、」

 古川が机に置いたのは、携えていた袋である。その中には幾冊か、また新たな小説が入っているらしかった。

「今日もまた入荷しましたー」

「古川はこれも全部読んだの?」

「全部読んだって?」

「こんな分厚いのに……」

「ああ、それはどうだろうね」

「どうだろうねって……」

「拾い読みするばっかだから」

 鋭也は中身を覗いてみる。どうやらまた読み切るのには骨が折れそうだ。彼女も全てに目を通しているわけでは無さそうであるし、そう気負わないことにする。そもそも、鋭也は彼女の好意をふいにするはずがない。重要なのは、古川がここへやって来ることなのであって、本やらはきっかけである。

「羽野くん、昼ご飯、食べないの? お母さんが、私の分もつくってくれたって」

 古川はさらりと難題の提案をしてくる。

 鋭也とて、全く外に出られないわけではない。が、それにも時機があるのだ。何だか今日は優れない。よって観測は良くないが、古川の誘いである。無下にするわけにもいかない。

「一回出てみよ、ほら」

 こう強引だから困る。ちょっとは断る隙を見せてくれて良さそうなものだが、彼女は考え出すと真っ直ぐだから悪い。鋭也もいつの間にか扉前にまで誘われている。

 鋭也の棲む閉ざされた空間は、既に外部に開かれている。ここにいても、生活音が微かに聞こえてくる。こう敏感な日は——駄目だ。自身の心音を聞くだけでも、冷や汗が湧くようだ。それは意識を強めれば強めるほどに、迫真を増してくる。——落ち着け、わざわざ耳を澄ますことは無い。普通に行けば良い。皆が平凡に、そつなくこなすのだから、自分もそれに倣えば良い。目を瞑る。——向かい風らしきものが吹き付けてくる感覚を覚える。次に視界の開けたとき、鋭也は既に部屋の外に立っていた。

木製廊下の頂点に、古川がいる。その姿を追跡することにする。

 誰か階段を下りている。おそらく、亮だ。亮がミシリ、ミシリと踏みしめる音は次第に消え入りはするものの、鋭也の研ぎ澄まされた感覚を十分に刺激する。続けざま、皿と皿とがぶつかり合う音、それがシンクに小落下して、振動する音、水流の弾かれる音……

「羽野くん、早く」

 古川が急かすから、どうやらもう階段を下りようというところまでやってきた。

 古川の音。最たるは、自らこの軋む段差を踏み鳴らす音。——堪え切れずに、うずくまる。耳を塞いで、こびりついた穢れを振り払うのを試みるように、首を振る。古川が駆け寄ってくる。

「大丈夫?」と差し伸べられた手は、咄嗟に払いのけた。すると一目散に元の床を辿って、避難所に立て籠もる。追いかける者はいない。堅固な扉を閉め切って、荒い息をつきながら、四つん這いになった。その体勢から、今度は大の字に仰向けになる。徐々に呼吸も落ち着いていく。

 青みがかった天井に、まあるい形の蛍光灯が中心に在るのを眺めながら、腹の虫が、遠慮がちに鳴るのが分かった。チラと、先刻古川が運び込んだ、机上のビニール袋を見やる。

 彼は、自分が情けないと思う。何故、階段を降りたりする通常動作が成し得ないのか、もどかしく思う。

 以前、臨床心理士によるカウンセリングを受けた事があった。なるほど、彼らは患者の話に耳を傾ける名人であろう。また、あらゆるテストから問題の有無を考察する手法も学んでいるだろう。が、問題の有る無し以前に、鋭也には話したいことも無ければ、自身の異常性をも認めることができない。ならば、彼にとって、社会への適合は既に目指すところに無く、つまり、心理的治療を受けるのにはふさわしくない患者である。カウンセラーもそれを悟った。鋭也の自覚は縹渺として、曖昧模糊である。何にしても、その自覚を得ぬことには始まらぬと、突き放された。——鋭也は先生のところに、もう通いたがらない。

 彼が一番に有り難がるのは、この部屋の快適である。けれども、今度ばかり、鬱をこじらせて、一所に籠もり続ける自身を呪った。それは、古川から差し伸べられた手を、冷淡にも払いのけた罪悪感のせいだろうか?

 彼女はどうしたろう? 怒って帰ってしまっただろうか。それとも、もう一度鋭也を呼びに行く算段を彼の家族に相談しているだろうか。全く、頭の内で想像する他に無い。何故なら一切の音は、かの堅牢な扉により遮断された。

 鋭也は気持ちが落ち着くと、外の様子を窺い始めた。空腹は依然として襲ってくるのである。よって、良くも悪くも腹は満たしに行かなければならない。けれども今し方の過呼吸はもう御免である。

 このように逡巡する内に、古川の姿はとっくに見えない。本の入ったビニール袋だけが、机上に残されている。

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