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「ニコル嬢とはどうなっている」
放課後の生徒会室で、侯爵令息にそう尋ねられてケイオスは顔を上げた。
「特に変わりは」
ない、と言い掛けたケイオスを見る侯爵令息の目つきが冷たくなった。
「学内で流れている噂を知ってるか?」
「噂?」
「ケイオスは婚約者のニコル嬢を捨ててキャロライン様を追いかけて隣国へ行くので、健気なニコル嬢は冷たい婚約者を追いかけるために必死に隣国の語を学んでいる。という話だ」
ケイオスは絶句した。なんだそれは。
ケイオスは侯爵家の嫡男だ。隣国になど行くはずがないではないか。
「ニコル嬢が隣国の語を学んでいるのは確かだよ。最近よく図書館で見かけるから」
「はあ?」
伯爵令息の言葉にケイオスは眉をしかめた。ニコルが何故隣国の語など学ぶ必要があるのだ。隣国の貴族と交流する際には大陸公用語である帝国語を使うので、この大陸にある国の民は自国語と帝国語を身につけるだけで事足りるのに。
それをわざわざその国の言葉を覚えるということは、その国に移住する準備と取られてもおかしくない。
もちろん、侯爵家の嫡男であるケイオスと結婚する予定のニコルに、隣国に住む未来などあるはずがない。
「なんで俺が隣国に行くなんて話になっているんだ?」
「そりゃ、お前が普段からキャロライン様の騎士になってお守りするって公言していたからだろ」
「それは隣国との婚約を整える前の話だ!俺はあくまでキャロライン様がこの国にいる間は幼馴染として守ると言っていただけで、輿入れ先までついて行くつもりはない!」
「お前の腹の内がどうでも、周りで見ている者達の目にはお前は婚約者を捨てて王女についていく男に見えているということだよ」
思いもよらないことを言われて、ケイオスは唖然とした。
「ケイオス」
キャロラインが難しい顔つきで口を挟んだ。
「幼馴染で気安いからと、お前に頼りきりだった私にも責任がある。だが、お前は婚約者との交流が足りないのではないか?」
「……」
そう言われて思い浮かぶのは、花祭りの日に一人で街へ行こうとしていたニコルのことだ。
ひとりで出歩かないように言っておいたからもう大丈夫だとは思うが、そもそも何故ニコルはひとりで行動しようとするようになったのか。思い返せば、行商の来ていた時もひとりで街へ行ったと言っていた。
「忙しいのはわかるが、ちゃんと会いに行って手紙を送って、休みの日には一緒に過ごすんだ。私だって隣国の王太子と手紙のやりとりはしているぞ」
「……はい」
最後に手紙を書いたのいつだったっけと思いながら、ケイオスは肩を落とした。
「まあ、ニコル嬢は腕輪を大事にしているみたいだし、お前も腕輪をつけて一緒に歩いて周りに見せつけておけ」
伯爵令息にそう言われて、ケイオスは顔を上げた。
「腕輪?」
「行商の市で売ってた奴だよ。ニコル嬢はいつも付けてるじゃないか。身につけたら幸せになれるって噂で恋人とお揃いで身につけるのが流行ってただろ」
ケイオスは怪訝な表情を浮かべた。その腕輪が去年流行っていたのはなんとなく覚えがある。
「俺達も去年は付けてたよな」
「婚約者のお願いだから付けないわけにはいかないからな」
そう。この二人も確か去年は白い石の腕輪をつけていた。
でも、ケイオスはそんな腕輪を持っていない。
ケイオスが持っていないのに、ニコルが持っているのは何故だ。ケイオスがプレゼントしたのではないのだから、他の男に贈られたか自分で買ったか……
(いや、まさかそんな)
ひとりで行商を見に行ったニコルが、自分で買ったという可能性が頭をよぎった。
だが、恋人とお揃いで身につけるのが流行っている腕輪を、自分の分だけ買って身につけるだなんて、そんな惨めな気分になりそうなことを自主的にするわけがないと思う。
とにかく、一度ニコルと話をしようとケイオスは思った。
「ケイオス。私も一度、ニコル嬢と話したい。ケイオスの時間を奪ってしまったことを詫びなければ。放課後に茶に誘おう」
キャロラインがそう言って、ニコルとの茶会を計画した。