心の葬送
その女の心は壊れた。
ある秋のことだ。
気流のように乱高下する相手の心に尽くしてもう随分と長い。
気を散らす手段を幾度も幾度も構築したが、まるでまたたびに寄る猫のように近づいては引っ掻いていく。
「なぜ俺に心を砕けない。配慮をしなければ可笑しいだろう」
女は疲れていた。
とても。
それでも子が二人いてまだ幼く、また女は自分のようにはさせまいとも思っていた。
せめてこの乱世を生き抜けるだけの知恵と胆力をと、負けず踏ん張り、時に反面教師さえ使い知らせる。
乳離れさせるには随分と幼くまだ庇護下におかなければすぐさま流されるだろうからと、要らぬ楔を打ちつけられたまま動ける範囲で、守る。
その限界は、とうに超えていたのだろう。
相手の怒気は、ひと月、またひと月と降り積もる。
溶けることのない雪のように、踏み固められた上にしづしづと、降る。
「事情? それはただの言い訳で、わかっててやっている言い逃れだろう。人はみんなそうだ、俺以外はな」
寒い。
まだ雪も降るはずのなく、また気温も上がったりと下がったりと忙しなくはあるが、秋成りのトマトのなる時期である。
擦っても擦っても、指先のかじかみは止まらない。
いや、これは震えだろうか。
いや、これは悲しみだろうか。
もう、怒っていいのか泣いていいのかすらわからなくなって、涙を流しながら微笑んでいる。
「行動も言葉も、もう尽くしきったの。これ以上あなたに何を尽くせというの。命差し出せば満足するの」
彼は答えない。
もとより言葉をそんなに持っていない彼は、語彙だけはきっとアインシュタインよりも豊富というのに、人間としての温もりある言葉とはとんと無縁できているようだった。
しづしづと、悲しい時間だけが積もっていく。
かちこちかちこち、とアナログ時計の秒針がやけにこだまする。
これが彼の答えとでもいうかのように、ただひたすらに、時間だけが積もっていく。
女は怖くなった。
雪崩れてしまう。
つぶれたトマトの汁のように、それはきっと拾い切れはしないかもしれない。
その恐怖に、救いを求めたのは文字にだった。
悲しみを降り積もらせた言葉に、けれど復讐はしない。
もとより、諸刃の剣である言葉に、攻める場所などないはずだから。
だからひたすら書いた。
きっと溶けやしない、けれど隠すように。
ただひたすらに、ひたすらに、隠すように書く。
忘れられはしないから、しづしづと文字を降らす。
降らす。
降らす。
悴んだ指が、ただひたすらにキーボードを叩き、ビットの海のただなかへと心を沈めていく。
「まるで葬儀のようね」
誰かが言った。
その通りかもしれない。
ひっそりと、息を吸っては吐くのでさえ、初春にできるのを間違えた氷のように割れずにするのがひどく難しい。
雪は降らない。
ただしづしづと、心が降っては砕け散っていく。
積もった破片ではやがて自分を刺し割れてしまうだろう。
それまでには。
それまでには。
たくさんぎゅうをしよう。
たくさん言祝ごう。
私の世界はしづしづと凍えるけれど、あなたたちがまるで暖炉のように。
まるで毛布のように。
私の芯のその深くだけは守ってくれるから。
守ってくれてしまうから。
だからもう、腐って落ちてゆくだろう外側のそれを私はこれは雪なのだと思いながら切り離す。
そう、これは雪なのだ。
硬く凍ってしまってそして暖炉の炎で溶け雪崩れていく、雪なのだと。
だからどうか。
気づかないでいて、私にあるのがもうただ芯の奥深いだけということを。
あったかいあなたたちはどうか、気づかずこの日常を享受するままにいて。
あったかい布団のような人はきっといるよと、どうか、冷たい私のなけなしの灯火で、どうか、伝わりますように。
しづしづと降らす。
たくさんのぎゅうを。
たくさんの言葉を。
しづしづと。
しづしづと。