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会社から三駅先、駅から徒歩十五分。
俺はとある一軒家にたどり着いた。家に電気は点いておらず、寂れた外観が寂寥を漂わせている。
一応、社会的な常識としてインターホンを一回鳴らす。ここの家の主が出ない事は分かっているので、扉を開ける。ゴミ屋敷特有の腐敗臭が鼻に突く。
「邪魔するぞ」
室内は真っ暗な上、足の踏み場もないほど酷く散らかっている。俺は携帯のライトで足元を照らしながら、慎重に奥の部屋へ進む。
廊下の角を曲がると、奥の部屋にだけほんのりと明かりがついているのが見えた。俺は開け放たれた扉から部屋の中にひょいと顔を出す。
他の部屋同様、物だらけで散らかり具合が酷い。ただしこの部屋に散乱しているのは本やレポートと言った類であり、この部屋の主の知力を見せつけているかのようであった。
視線を動かすと、部屋の中央で椅子に座って熱心にキーボードを叩いている女が居る。俺はその女に声を掛けた。
「よう。邪魔してるぜ」
その言葉に、女は首だけこちらを向く。色白い肌に、何日寝ていないのか分からない程の色濃い隈、気怠げな瞳が不健康さを際立たせている。
「何だ、君か。久しぶりだね。元気にしてたかい?」
「まあな。お前こそ元気そうで何よりだ」
「元気…なのかねえ。元気の定義が分からなくなってくるよ」
女はそう言うと大きく伸びをした。
篠天 智音。 人間性が壊滅的な、うちの会社の産業医だ。
日本で一、二位を争う東京最強大学理科三類(医学部)に現役で合格し、三年生にして司法試験に合格。その後も最新の理論を生み出し海外の名だたる大学に絶賛される、その場で考えた発想で専門家を唸らせるなど、頭脳面においてはこの日本で右に出る者がいないであろう天才だ。
しかし、ある日何もかも嫌になって(本人曰く、人類の愚かさに嫌気が差して)勤めていた病院を退職、引きこもりに。今はウチ専門の産業医兼影の経営アドバイザーとして働いている。
……ここまで聞くと優秀な人間に見えなくもないが、彼女にはとんでもない欠点がある。それも二つ。
「何してんだ?」
「ネットに書き込みだ」
彼女は何でもなさげに言い放つ。ちなみに開いているサイトは見なくても分かる。匿名掲示板だ。
「このままでは、日本は終わりだ。長引く不況、少子高齢化、外国人労働者……後の世代に押し付け続けてきた結果、今の日本は実に酷いことになっている。そう思わないかい?」
「まあ、そうかもな」
国内市場の縮小化は俺も懸念している。
「この先に見える苦境が分かっているというのに、政府は何もしようとしない。国民もだ。皆、自分だけの実益のために動き、誰も国を救おうとはしない」
…また始まった。
「この最悪な現状と未来を回避するためには…そう! 組織だ! 絶対的な全体主義だ! まさにナチスのような!」
「そうだな。お前は正しいよ。凄い凄い」
俺は極めて適当に答える。
そう、コイツは熱狂的なナチスの信奉者だ。何か問題が起こるたびにナチスの復活を叫ぶレベルの危険思想の持ち主。過激思想もいい所だ。
ちなみに、面倒くさいことにこの女、口では全体主義を唱えるくせに他人との協調は大嫌いだったりする。あくまでもナチスのような組織が出来たら『組織のために』全力で手を貸すだけで、手と手を取り合うなんて下らないと普段から鼻で笑っている。
なかなか捻くれているし、頭がいい人間であるはずなのにここまで極端なのも不思議だ。と言うか戦争云々を抜きにしても、ナチスは別に完璧な組織ではない。
「なあ、ナチスの礼賛はいい加減やめねえか? 国際的にタブーになってるの知ってるだろ。つーかドイツ行ってそんな発言してたら捕まるぞ?」
「何を言う。過剰に取り締まるせいでかえって問題が発生しているんじゃないか。良い所も悪い所もある程度知った上で評価を下すのならともかく、良く知らないで悪と決めつけて弾圧してしまえば『なぜ悪いのか』が分からず、同じ失敗を繰り返すだけじゃないか。どうして自分の好きな物の時は『よく知りもしないのに批判するな』と言うのに、ナチスにはそれが通用しないんだい?」
まあ確かに、『何となく悪い事をしたから』と言う理由でナチスを毛嫌いしてる奴は(少なくとも日本では)多いように思われる。
「確かにそう言う面もあるが、だからって過度な礼賛をしていい訳じゃないぞ」
「安心しろ。神格化はしていない」
「へいへい。言ってろ言ってろ」
そしてもう一つ。まあこれはここまでの口調の端々で分かる通り、彼女は想像を絶するほどの人格破綻者だ。
毎日ネットを荒らすのは当たり前、気に食わない相手、政策に対して平気で罵詈雑言、それ以前に自分以外の人間を本気で見下している。
頭が良い奴に一定数いるタイプだ。自分が出来る事を相手も出来ると思いこんで、出来ない奴を見下すタイプ。コイツの場合は基準が普通の人よりも遥かに高いため、必然大半の人間を馬鹿にする事になる。
「で、何の用だよ? 俺も忙しいんだが」
「昨日、国会が今後の金融政策に関する情報を発表した。その要約とそこから考えられる今後の見通しについてまとめた紙を渡そうと思ってね」
ホチキスで止められている資料の束を投げ渡される。随分分厚い。
「あと、どこぞのお偉いさんが車で事故を起こしたらしい。政府はカモフラージュに交通事故のニュースを積極的に流すように各報道機関に圧力を掛けているようだ。君の所は保険業もやっていただろう? 自動車保険を重点的に売り給え」
「了解」
面白いもので人間とは、実際の統計よりも自分が感じたことの方が多いと錯覚する傾向にあるようだ。
例えば日本における死因には交通事故よりも心疾患が多いのだが、何故か人々は交通事故の方が多いと錯覚しやすい。普段からニュースで交通事故を見ているから、そちらの方が多いと勘違いしてしまうのだ。
なので、こういう時は自動車保険が人気になる。
俺は資料の束を見る。相変わらずよくまとまっている。無駄な部分を省きつつ、大事な部分は根拠付きで乗っている。とても一日足らずで作ったとは思えない。
「これで以上か? だったらFAXで送ってくれてもいいと思うんだけどな」
「たまには雑談でもと思ってね。人というのは弱い生き物で、誰とも喋らないだけでストレスが溜まっていくものだ」
素直に寂しいと言えないのかコイツは。
「お前の方は何かあったか?」
「特にないね。いつものように政策への不満をネットに書いて、ホワイトボードに落書きする毎日だよ」
そう言って、アルファベットのような物や数式のような物(汚すぎてよく読めない)がびっしりと書き込まれたホワイトボードを顎でしゃくる。よくもまあ、これを落書きと言えたものだ。
「何だこれ?」
「ヤン–ミルズ方程式の存在と質量ギャップ問題という、とてもワクワクする問題だよ。君もぜひ解いてみたまえ。やはり数学は素晴らしい」
「ふうん……」
俺の記憶が正しければ、それは世界の数学者たちが必死で解法を探しているミレニアム問題の一つだったと思うんだが、気のせいだろうか。
「解き方を教えてくれよ」
「教えてもいいけど、理解できるのかい? 言っておくが、私は教えることが得意じゃないよ」
「いや、やっぱり辞めておく」
聞けば頭がパンクするだろう。
「しっかし、凄いね〜大卒様は」
やや嫌味ったらしく言うと、彼女は皮肉げに笑った。
「学歴なんてものは手段であって目的ではない。そこを倒錯している人間が多いがね。そもそも、詰め込み教育を盲信している時点でこの国の教育水準は劣っているさ」
「エリート様が言うと嫌味に聞こえるな」
「学歴がない人間が言ったら嫉妬と取るじゃないか。本当に人という生き物は自分に都合のいい情報しか手に入れようとしないねぇ。真実なんてあったものじゃない」
そう言われるとぐうの音も出ない。
「私のことは良いんだ。君の話を聞かせてくれたまえ」
そう促され、俺は昨日勇者を名乗る女がやってきた話をした。
「空間が歪んだ? それはなかなか興味深いね」
勇者とやらを名乗ったとか、魔王云々の話ではなく、智音は空間の歪みの方に食い付いた。
「ああ、目の前に黒い穴がポッカリとーーー」
「空間から空間へと移動する技術か。理論自体は知っているが、まさかもう実装化されているとは思わなかった」
「理論自体は出来ているのか?」
「学会で発表していないから、あくまでも仮説の段階だけどね。まあ物理的に不可能だから実装出来ないんだけど」
「そう簡単に作れるもんなのか?」
「理論だけなら、頭を振り絞れば比較的簡単に作れる。過去に戻る方法がいつ考案されたと思っている」
「光の速さで進むんだっけか? 詳しい仕組みは知らないけど」
確か、相対性理論がどうたらとか高校の物理で習ったな。興味がなかったので、それ以上はよく覚えていないが。
「ちなみに、時空移動に必要なワームホールの作り方の理論は大学生の頃に完成させてね。科学論文雑誌に載せたら、訳の分からない賞状を貰ったよ」
「へえ」
死ぬほど興味がない。俺にとっては机上の空論よりも、確実に手に入る金の方が100倍価値がある。
「空間転移の理論に興味が湧いた。悪いんだが、これから彼女の元へ行って、詳細を聞いてきてくれないか?」
「俺がか?」
「当たり前だ。私が行くはずないだろう? まあこちらからの頼みである以上必要なフォローはするさ。何なら彼女の身元引受人になってもいいよ」
その時、ドン! と言う音がして部屋全体が大きく揺れた。咄嗟に壁に手を突く。
「じ、地震か!?」
「いや、この揺れは…………隣の部屋のオゾン発生装置が故障した音だ。クソッ、一昨日直したばかりなのに!」
「お前、なんて物作ってんだよ!」
「オゾン層を強化して紫外線を徹底的に防ぎたかったんだよ。私もか弱い乙女だからね」
「か弱い乙女は自分でオゾンを作ったりしねえよ! オゾンが漏れ出る前にさっさと直せ!」
オゾンが有毒な事くらい、俺でも知っている。
「分かっているよ。じゃあ、直してくるから君は行きたまえ。ここに居るとオゾンに巻き込まれるよ」
「分かったよ。じゃあな」
俺はそう言って家を出る。振り返ると、家に取り付けられた煙突がモクモクと煙のような物を噴出していた。あれが例のオゾンなのかどうか、科学が苦手な俺には判別できない。
「それにしても、自宅でオゾンを作れるのか…………」
しかもオゾン層を強化する、と言っている辺り生成したオゾンを高度数十キロメートルの上空に飛ばす方法も思いついているのだろう。
「相変わらずおかしな奴だ」
時間を確認すると、まだ午前9時ちょっと過ぎだ。思ったより時間を使わなかったらしい。
「しょうがねえ、行くか」
アイツの言う通りに動くのは少し癪だが、仕方ない。それにあの勇者とやらが言っていた『魔王』という単語も気になるしな。