結局、誰かが骨を折る
土曜日の朝。
その日、父と母が壮絶な夫婦喧嘩を繰り広げていた。
「なんで、そういうこと勝手に決めるの!!」
「前もって電話したろ!!」
「私が嫌だ、ダメって言ったの忘れたの?!
このバカチン!!」
ギャースカ、ギャースカと白熱している。
居間で繰り広げられている夫婦喧嘩を横目に、あたしは台所へ向かう。
ご飯を食べるためだ。
すると、そこには今年高校生になった、年子の姉がいて、携帯端末で動画を見つつ味噌汁を飲んでるところだった。
夫婦喧嘩の大声から逃れるためか、イヤホンをしている。
あたしは、そんな姉の肩をちょんちょんと指で叩く。
すると、姉はイヤホンをとって私を見てきた。
「なに?」
気だるそうに聞いてくる。
そんな姉に、あたしは言い争っている両親を指さして、
「あれ、なに??」
そう聞いた。
台所と居間が隣合ってるので、喧嘩は丸見えだ。
姉が、やはり気だるげに答えてくれた。
「あー、ヌコだよヌコ」
「ヌコ……?
あ、猫か。
猫がどうかしたの??」
「保健所だか、保護施設だかから貰ってくるんだって。
それをお父さんが勝手に決めたんだってさ。
一応、事前にお母さんに相談したらしいんだけど、お母さんはその時はっきり、嫌だって言ったらしいよ。
でも、それをお父さんが無視して、話を進めたってわけ」
「それで、この大喧嘩か」
「刃物は隠したから、血を見ることにはならないと思うけど。
ご近所さんに迷惑、というか恥ずかしいからそろそろ怒鳴り合うのやめてほしいな」
この家は一軒家で、築ウン十年という年季がはいっている。
そのため、声が外に漏れやすいのだ。
というか、夫婦喧嘩に慣れきってしまっている姉の対応が早すぎる。
たかだか猫を飼う飼わないで、刃傷沙汰にはならないと思うのだけど。
「包丁隠すって、大袈裟過ぎでしょ」
そこで、姉が半眼になって返してきた。
「そうだったら良いんだけどねぇ」
そうならなかった事が過去にあるらしい。
育児疲れで精神的に追い詰められた母が、夫婦喧嘩で包丁を持ち出して、それをまだ五歳かそこらだったこの姉が、今は就職して家を出た長男と泣きながら止めたことがあるらしい。
「そんなことあったんだ」
「あったんだよ、そんなことが」
全然覚えてない。
「ま、あの時よりは全然マシだけどねぇ」
姉がのんびりとそう言った。
「かなりヒートアップしてるのに?」
「うん、ほらコーヒーカップとか洗濯物とか投げつけてないから、まだ全然マシ」
あたしもそうだが姉も、そして今ここにはいない、社会の歯車となった兄も、両親の喧嘩は何処吹く風として真に受けないようになった。
犬も食わないのが夫婦喧嘩だからだ。
そうこうしているうちに、夫婦喧嘩は決着が着いた。
「とにかく、貰ってくるからな!!」
「じゃあ、あんたがちゃんと世話してよ!!??
私しないからね?!」
そして、その日の夜に我が家に黒の子猫がやってきた。
手のひらに乗っけられるくらい小さい子猫だ。
ぽてぽてと居間のあちこちを興味津々に歩き回り、時折、ゴロンゴロンと腹を見せて寝転がるのを繰り返したあと、適当な場所で丸まった。
しかし、ケージもなにも用意していない。
施設の職員さんに用意するよう、言われたはずなのに、なにも用意していない。
その事に、母がまたブチ切れた。
しかし、父にも考えがあったようで、こんなことを言い出した。
「ヒロの部屋をコイツの部屋にすればいい」
ヒロというのは、兄のことだ。
姉はリオ、あたしはイオという名前である。
漢字で書くと、それぞれ【拡】、【里緒】、【依音】となる。
さて、この父の発言で、本日二度目の夫婦喧嘩が勃発した。
兄の部屋は、なにしろ十二畳ある広い部屋だ。
それをこの子猫のための一人部屋ならぬ、一匹部屋にしようと言うのだ。
大型連休などで、たまに帰ってくるとその部屋を使っているのだが、そのことを父は完全に失念しているようだった。
それを横目に、あたしと姉はやってきた子猫とじゃれて遊ぶ。
昼間に百均で買ってきた猫じゃらしを出してやると、子猫とはいえ狩猟本能が刺激されたのか、めちゃくちゃじゃれ付いてきた。
「んふふふ、かわいいなぁ」
と、姉が普段出さない不気味な声を出して可愛がった。
完全に子猫に絆されている。
「姉ちゃん、次、次あたしが遊ぶ!!」
姉から猫じゃらしを受け取って、あたしは子猫とあそび始めた。
その横で、姉がなにやら考えこんでいる。
やがて、ちらりと喧嘩真っ最中の両親に向かってこんなことを言い放った。
「ねぇ、ケージもだけどさ。
猫砂と、トイレは??」
そこで、夫婦喧嘩がピタリと止まる。
ギロリ、と母が父を睨みつけた。
ダラダラと冷や汗をかいて、顔を青ざめさせる父がいた。
慌てて、近くのホームセンターに行こうとする父。
だが、その背中に姉の冷たい言葉が投げられる。
「ホームセンター、もう閉まってるよ」
ホームセンターの閉店時間は早いのだ。
ちなみに、開店時間も早い。
姉がやれやれとどこかに連絡を取り始めた。
しばらくして、家の前に車が来て、止まる音がした。
姉が携帯を確認し、玄関に向かう。
母親もついでに連れて行って、なにやらやってきた客に礼と頭を下げている気配が伝わってきた。
少しして戻ってきた姉は、猫砂の入ったビニール袋を手にしていた。
そのまま黙って、明日ゴミに出す予定だった畳んであったダンボールをもう一度ガムテープ片手に組み立てて、中に古新聞を敷いて、猫砂をセットした。
簡易式子猫用トイレを作り上げた。
少し、子猫が使うには勝手が悪かったので、カッターで箱の高さを調節した。
「お父さんさー、面倒見る気があるならもうちょっと準備とかちゃんとしなよ」
姉がカッターをカチカチ鳴らして仕舞いつつ、そう言った。
「バイト先のパートさんに相談したら、わざわざ猫砂持ってきてくれたんだよ??」
どうやら、姉はバイト先のパートさんで猫を飼っている人に相談をしたらしかった。
そしたら、簡易トイレの作り方を教えてもらい、ついでとばかりにその人が猫砂を分けてくれたらしい。
父はバツが悪かったのか、子猫を連れて寝室に引っ込んでしまった。
母が盛大にため息をついた。
「菓子折り用意しておくから、次のバイトの日に持っていきなさい」
母の言葉に、姉も疲れたように頷いた。
ちなみに、キャットフードだけは母が用意していた。
きっとこうなるだろうと予想していたのだろう。