プロローグ
わたし、エシル・グラティエスは今世紀最大と言ってもいい、非常に困難な状況に陥っていた。
それはもう、藁にも縋りたい心境だった。
「わたし、この人と想い合っています。だから、わたしのことは諦めてください」
わたしは後ろに立つ人物を手のひらで指し示し、はっきりと断言した。
「誰だそいつは!」
怒りのこもった目が、わたしを睨みつける。
「えっと……」
返答に詰まって後ろを振り向く。そこには見目麗しい男性が所在なきままに立っていて、視線が合うと嬉しそうに破顔した。
(……誰なんでしょう?)
名前すら存じ上げない。実のところ、今日初めてお会いしたばかりの赤の他人でしかない。
(咄嗟に巻き込んでしまったわ……)
わたし、エシル・グラティエスはとても困っていた。
だから、見ず知らずの人の手を掴んでしまっても仕方がないことだと思うのです。
* * *
「俺と付き合ってほしい」
目の前に立つ男が、自身の燃えるような赤い瞳をギラギラと輝かせながら言う。
程よく鍛え上げられて引き締まった身体に、さっぱりと短く整えられた赤髪が良く似合う。すっと斜めに切り込まれた目元が彼の魅力を一層引き立てていて、それはもう誰もが認める美男子と言ってもいい。
「何度お声がけいただいてもわたしの気持ちは変わりません。申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
わたしは幾度口にしたか分からない言葉を繰り返す。
「エシル。君を見ていたから俺にはわかる。君に想い人はいないはずだ。ならば、俺と付き合ってくれないか」
いつもだったら「わかった。また出直すことにする」と言うところなのに、今日は全く引き下がってくれそうにない。
一ヶ月前に見初められて以来、彼は毎日やってくる。出直すと言ってはまたすぐ翌日にやって来て、同じようなやり取りをしては、また帰っていく。
ほとんど変化のない会話の繰り返しで途方に暮れていたのだけれど、ようやく違った反応が返ってきたとはいえ、これはこれで非常に困ってしまう。
(買い物に行く途中だったのに……限定品のスペシャルスイーツ、売り切れてたらどうしよう……)
今は一秒だって時間が惜しいのに。
「わたしに想いを寄せる相手がいるかどうかは関係ありません。あなたの申し出は、お断りをさせていただきます」
一礼ののち、その場から離れようとしたけれどうまくいかなかった。横を通り過ぎようとしたときに右手を伸ばされ、進路を塞がれてしまったのだ。
今いるのは馬車も通れるくらいの広い道なので、彼の腕を避けて歩くことはできる。けれど、そうしたところできっと無駄だ。すぐに回り込まれるか腕を掴まれるかするに違いない。
「俺と恋人になれば必ず良さが分かるはずだ。想い人がいないなら問題ない。俺と付き合ってくれ」
(どうしよう。全く話が通じる気がしない)
わたしはクラクラとしてきて、頭を押さえた。