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夢境の花

作者: 雨森 夜宵

 戸口の小窓が人影を映した時、シャシはぱちりと目を開いた。出がけに「扉の方を向けて置いて」と言ったのが功を奏したのだ。大木の上にあるこの家に訪問者などいないが、出かけていった家人を迎えるためには扉の方を向いておくのがいいとシャシは主張した。これにより、それまでは三方の窓のいずれかのそば、出かけてゆく道と帰ってくる道とが眺められる位置に置いてもらっていたのが、今回はテーブルの上、扉をまっすぐに見る位置で置かれている。

 郵便受けを確認した人影は扉を開けた。僅かな隙間から、毛糸玉のように丸いくるくるとした赤毛と、両頬から鼻の上を横断している刺青の笑顔が見えて、シャシはぱっと顔を輝かせた。

「おかえりなさい!」

「ただいまシャシ」

 ナンナは眩しげに微笑むと、背負っていた荷物を部屋の中に下ろした。少し出て、ごめんよ、と言いながら手近な葉を一枚摘み取る。入口に腰を下ろすと、柔らかな、自分の顔を包んでしまえるほど大きなそれで、足についた泥やほこりを丁寧に拭っていった。

「留守番はどうだった?」

「いつも通りよ。『可もなく不可もなく、幸もなく不幸もなく』ね」

「そう」

「旅は? いつも通りかしら?」

「うん。……収穫なしだった」

「気にしないでナンナ」

 ナンナの横顔に憂いを見て、シャシは慌てて言った。

「シャシのことはおまけなのだわ。ナンナは鏡の番人なのだから、鏡のことが上手くゆけばそれでよいの」

「君のことは『鏡のこと』の一部なんだよ、シャシ」

 よいしょ、と立ち上がって、ナンナは足を拭いた葉を四つ折りにし、ふうと息を吹きかけた。端から崩れたそれは淡く光る緑の粒子になり、風に乗って大気に溶けていく。暫くそれを見送って、ナンナは部屋に入り、扉を閉めた。シャシの波打つ長い黒髪が風に乱れているのを見て、ああ、と慌てて駆け寄ってくる。

「目に入らなかった?」

「大丈夫。シャシの目は傷つかないのだわ。これでもこの世ならざるもので出来ていてよ」

 ぱち、とシャシは片目を瞑ってみせた。ナンナは静かに笑って、シャシの髪を手櫛で梳き始めた。シャシは気持ちよさそうに目を閉じ、頭を後ろへと反らす――と、重心がずれてそのまま倒れそうになったところを、ナンナが両手で受け止めた。

「おっと」

「あら失礼」

 後ろへ傾いたシャシの頭を極力動かさないように、ナンナはシャシの正面へ回った。シャシが乗っていた銀の盆の中心には、シャシ自身と同じ花のような紋が刻まれている。それを慎重に合わせながら、ナンナはシャシを助け起こした。

「ありがとう」

 銀の盆の上で、首だけの美しいひとが微笑んでいる。それがシャシである。

「うん。でも気持ちわかるよ」

「そう?」

「髪梳かされるの気持ちいいもん。僕も好き」

「あら。じゃあ後でシャシもやってあげるわ!」

「お。やったあ」

 のんびりと言いながら、ナンナはシャシの髪を梳いていく。曰く「この世ならざるもの」で出来ているというその髪は、ナンナ自身の髪よりも硬くて重たかった。だが、その手ごたえとは裏腹にあくまでもしなやかで、ナンナの手には逆らわない。シャシは自分の意志で髪を制御できるらしく、一度綺麗に梳いた髪束から手を離すとそのまま解けずに固まった。便利だなあ、と毎度のことながらナンナは少し羨ましい。

 初めて鏡の中にシャシが現れた時、その髪はまっすぐであった。積み重なった夢の結晶の上、蜜をかけるように黒髪を垂らしていたシャシの姿をナンナは思い出す。口も目も曖昧に開いた面持ちは死んだ人間のそれにそっくりで、それでいて不気味だという感じはしなかった。鏡の中に手を差し入れて、ナンナはシャシを抱え上げた。夢の結晶と同じ温度の肌は、最初は硬くて滑らかで、実に石のようにナンナには感じられた。だが、今は少しだけ肌に吸いつくような湿気があり、髪も波打っていて――。

「今回の結晶は如何ほど?」

 不意にシャシが訊いたので、ナンナはそうだねえと思案した。梳くだけだったシャシの髪を小さくひと房取り、周りと合わせて編み上げていく。

「でも、いつもと変わらないんじゃないかな。ギファさんのつどいより多くって、ザイさんのつどいより少ない感じ」

「ふうん? そうね、確かにこの前も同じこと言っていた」

「うん。……ピァラさんのところ、凄かったよ。つどいの真ん中にある大きなイスラの木が満開で、ふわふわの花びらが雪みたいに降ってきて。とってもいい匂いがするんだ」

「まあ! すてきね!」

「なんて言うのかなあ……うーん……、色はシャシの肌の色なんだけど、匂いは……うーん……」

「あら、無理に言わなくてよいのよ。あとでナンナの夢をシャシにちょうだい」

「あっそうか。ダメだな、毎回忘れちゃう」

「大丈夫。ナンナの忘れたことはシャシが覚えているのだわ」

 シャシが嬉しそうだったので、ナンナはそうだねと微笑するに留めた。テーブルの下にしまってあった椅子を引っ張り出してシャシの後ろに座った。シャシの髪は銀の盆を溢れ、テーブルの縁を越えて床の少し上まで垂れている。少し伸びただろうか、とナンナは髪に触れながら思った。だとすればシャシもまた、自分や、地上に点々と「つどい」を形成して生きている人々と同じように、生きているのだろうか。

 だとすればいずれ、長き眠りを迎えるのだろうか。ナンナは可能性の有無を吟味する。

「シャシ、少し髪が伸びた?」

「あら?」

 そうかしら、とシャシの紫がかった黒の双眸が、見えない毛先を追うように転がった。

「そこまで変わった気はしないけれど」

「そっか。まあ、元々長いから分かりにくいかもね」

「そうね。……ああでも、さっきみたいなことは多くなってる気がするわ」

「さっきみたいなこと?」

「後ろに傾いてしまうの。この前も、葉擦れの音がきもちよくって。ああすてき、ってすこうし上を向いた時なんか、危なかったわ。シャシは危うくひっくり返ったままナンナを迎えるところだった」

 テーブルに横たわるシャシの姿を想像して、ナンナは唸った。完全に横になってしまったシャシなど見たことがない。きっと心配で頭が真っ白になってしまうだろう。だが一方で、緑の音に聞き惚れるシャシの微笑はありありと浮かんだ。風を感じるように天を向くのだ。そうして「あら!」とか「まあ!」とか言いながら後ろへ倒れたシャシは自力で起き上がれないまま、帰ってきたナンナに言う。

 ――おかえりなさい! ナンナ、今回のお留守番は見ての通りなのだわ!

「うふふ」

「まあ、笑ったわね? よいわ。次の時はひっくり返ったままおかえりなさいをする」

「勘弁してよ。何かあったかと思うじゃない」

「なんにも起こらないわ! シャシが損なわれることはなくってよ」

 無邪気につんと鼻を上げて笑む。シャシの無垢さがナンナには眩しく、愛しかった。髪は順調に編まれ、全体がまとまりつつある。

 髪に指を通しながら、ナンナは数日前に訪れたピァラのつどいの景色を思い出していた。

 ピァラはナンナの倍ほども背が高く、髪の毛を全て剃り落としている。このつどいの人々は皆そのようにする習いである。つるりとした頭の上に笠を被って、山の上にあるつどいから麓まで迎えに来る。霧の多い山は迷いやすく、また道も頻繁に崩れて変わってしまうからである。

 ピァラは何度もナンナを振り返り、穏やかに話をしながら進んだ。道中も所々に佇むイスラの木が白い花をつけていたが、つどいの中心で枝を広げる大樹は桁外れに美しかった。高さも、枝の端から端までも、ピァラの背丈の更に何倍あるか分からない。毎年同じ時期に足を運んではいたものの、ちょうど満開になったところで訪れるのは珍しかった。ざっと百年は見なかったかな、とナンナは振り返った。

 トレファが長き眠りにつきまして、とイスラの大木の下でピァラは言った。複雑に隆起した根の間に、柔らかく微笑んだトレファが眠っていた。その隣に眠っているのはヨハである。十五年ほど前に長き眠りについたヨハの体は透けているが、降ってくるイスラの花弁はその輪郭を捉えながら滑り落ちていく。

「此度の夢は少々寂しいお味かもしれません」

 ピァラはそう言って微笑んだ。ヨハが眠りについた時も、それから数年は寂しい味がしたのをナンナは覚えている。それが次第に薄れて平穏さを取り戻してきていたのに、また寂しさを取り戻してしまうことをナンナはほんの少し残念に思った。そういうものですよ、とナンナは静かに言った。

「そういうものです。……夢は、いつもちょっとだけ寂しい味がします」

「そうですか?」

「はい。なんていうか……すっぱい、というか。まだ熟しきっていないイスラの実って、かじるとすっぱいでしょう。それを飲み込んだ後の、ちょっとだけぴりぴりするような……そんな感じの味がします」

「ああ。なるほど」

 想像はできました、と言って、ピァラはそっとイスラの大木を見上げた。暫くそうして見上げたあとで、ふっと思い出したようにナンナを見下ろした。

「ナンナさんはイスラの実がお好きなのですか」

 緑の瞳がきらりと光った。

「大好きです。……あ、でも、熟しきってるののほうが好きです」

「ははは。でしょうね。……でしたら、来年はふた月ほど遅めに来られるとよろしい。実そのものはひと月で付きますが、甘く熟すにはそのくらいかかります」

「そうなのですね。じゃあ、来年は少し考えます」

 ナンナは微笑んだ。そうでしたか、と小さく呟いたピァラは、ナンナに向かって丁寧に頭を下げた。

「申し訳ない。番人様はわたしたちのように食事をすることはない方なのかと思い込んでおりました」

「ピァラさん顔を上げてください、そんなことじゃないんです」

 慌てて言ったナンナは頭を掻いた。まさかそのように話が膨らんでいるとは思わなかった。

「僕その、夢を、食べないといけないでしょう。……だから、ご飯を出されちゃ困るんです。仕事ができなくなっちゃう。けど、みなさん親切だから、おいしいものたくさん出してくださって……出していただいたら断りきれないし……おいしいからいっぱい食べちゃいますし、その……太りますし……」

 ピァラが笑いを堪えているらしいのが見えた。ナンナは首まで真っ赤になりながら続けた。

「だから、ご飯は出さないでほしいってこちらからお願いしたんです。それがどこかで独り歩きしちゃって、そういうことになったんだと思います」

「なるほど。番人様も大変なお仕事をされている」

 隠しきれない笑いを声に滲ませてピァラは言い、失敬、と言い添えた。それから――。

「――あ」

「どうしたの?」

「ピァラさんからイスラの実をもらってきたんだ。すっかり忘れてた」

「あら! すてきね!」

「ちょっと待って」

 立ち上がり、荷物を開く。夢の結晶の入った袋の上に小さな麻袋がある。それを持っていくと、ナンナはシャシの前でそっと逆さにした。ナンナの手の上に、乾いて褐色になった実が落ちてくる。ナンナの親指の先ほどの大きさをしたそれを、シャシは目を丸くして見つめた。

「これがイスラの実?」

「うん。元は緑色なのが、熟すと黄色になって、干すとこういう色になるんだって。僕も初めて見た」

「すごい! 二度も色が変わるのね」

「そうみたい。干したのがいちばん甘いってさ」

「……甘いって?」

「あそうか」

 うーん、とナンナは考え込む。シャシは夢の結晶以外のものを口にしたことがない。結晶に「味」というものはなく、味覚だけはナンナの夢を通しても伝えることはできない。それ故に、甘さというものをどう説明してよいものか、ナンナは暫く悩んだ。

「……官能、が近いかもしれない」

「官能……。とろりとしていて、絡みつくみたいにゆっくりした感じ、かしら……?」

「そう、かも? なんだろう、味を説明するって難しいな」

「シャシが食べてもよいかしら」

 シャシが思案げながらもそう言ったので、ナンナは驚いた。

「シャシ、食べられるの?」

「さあ。食べてみたことないのだもの。でも、夢の結晶だって食べられるのだからきっと平気よ。シャシは強いのだわ」

「いや、そういう意味じゃ――うーん。でもそうか。お腹痛くなったりするわけじゃないもんね」

「ええ。おなかがないから無敵なの」

 くすっとナンナが笑うと、シャシはちょうだい、とねだった。ちょっと待ってと制して実を割り、種を取り除く。

「それは何?」

「種。ここは硬いから食べないんだ」

「ふうん」

「ダメそうだったら言ってね」

 言いながら、言われたとしてどうしようかなとナンナは思った。シャシも吐くのだろうか。吐くのだとしたら、どうなるんだろう。自分に何ができるのだろう。シャシを抱えて、逆さまにするとか……?

「はい」

 考えのまとまる前に、つまんだイスラの実を差し出していた。シャシが口を開け、その隙間からそっと果実を落とす。きゅ、とひと噛みして、シャシは目を見開いた。純粋な驚きを浮かべていたその顔は、あっという間に眩しい笑顔に変わる。やがて、シャシの真っ白な喉が嚥下の動きを見せた。

「――ナンナ! これとてもよいのだわ!」

 叫ぶように言ったのが珍しくて、嬉しくて、ナンナは声を上げて笑った。

「それはよかった」

「どうしてシャシは知らなかったのかしら? これが味というもの?」

「多分」

「そう……すてき。現実って、夢よりも豊かね」

 その台詞を反芻するように、シャシは一瞬遠い目をした。

「変なところはない?」

「ないわ! シャシはもっと味を知りたくなっていてよ」

「取り敢えずもう半分?」

「ええ!」

 シャシは嬉しそうに言い、ナンナは残りの半分をシャシの口に入れた。もうひとつ取り出して種を取り、今度は自分でも頬張る。確かにとても甘い。熟したばかりの瑞々しい実より、ぎゅっと甘さが濃くなっているようにナンナは感じた。知らず知らず顔を綻ばせたのを見て、シャシがにっこりと笑う。笑みを返しながら、後にしておけばよかったかなとナンナは密かに思った。これから食べる夢の結晶は寂しい味がすると聞いた。口直しには十分な量を分けてもらったものの、先に甘いものを食べてしまったせいで、寂しさが余計に染みるかもしれない。

「残りは後にしよう。今回のは寂しい味がすると思うってピァラさんが言ってた」

 余韻に浸っていたらしいシャシはふっと目の焦点を合わせて、ええ、と頷いた。

「ナンナの言いたいこと分かるわ。喜びは最後に食べたいことの方が多いもの」

「そういうこと」

 袋の口を折り曲げて、テーブルに置く。今度はもうひとつの、イスラの実が入っていたものより二回りほど大きな袋を持ってくる。ずっしりとしたそれを開くと、見慣れた黒い結晶が三分の二ほど入っていた。大きさはイスラの実と変わらない。ただその形は直線的で、全ての面が磨きあげられたようにつるつるとしている。

「こんな感じ」

 ひと掴み分を手に乗せてみせると、シャシはすっと目を細めてひとつひとつの中を見つめ、それから小さく頷いた。

「そうね。寂しい感じがするのだわ。……喪失と、嘘」

「嘘?」

「寂しくなんかない、って。そういう嘘の色が見えてよ」

 シャシの言葉に、ナンナはああと声を漏らした。

「正解だと思う。……永き眠りに入るのを見たの、トレファさんが初めてっていう人いたから」

「そう。きっとその人の夢ね」

 人はみな、いずれ永き眠りにつく。眠りが次第に長くなり、ある日そのまま目覚めなくなるのだ。眠る人々の体は次第に透き通ってゆき、やがて消える。夢に還る、と言う人々もいる。いずれにせよ、人はいつか眠りの中に溶けて存在がなくなるのだ。この世界の誰もがそのことを知っている。ただ、言葉で聞いて知っていることと、それを目の当たりにすることとは全く違うのだと、ナンナは学んだ。誰かが永き眠りにつく度、その人のいたつどいの夢は夜霧のような重さと冷たさを滲ませる。寂しさのそれとはまた違う、胸の底を重く沈ませるような感覚である。

「ちょうだい」

 シャシが言い、ナンナは手のひらの上で煌めく結晶をひとつ、その口に入れた。ナンナ自身も口に入れる。噛めばしゃらりと崩れるそれは、穏やかで、あたたかくて、確かに少し寂しかった。ピァラの家に行き、鏡の中の結晶を見た時のことをナンナは思い出した。

 ナンナの上半身くらいの大きさの鏡を見つめていると、ふっとその表面が揺らぐ。映っていた景色が握りつぶされるようにくしゃくしゃになり、砕け、結晶の山になって降り積もるのだ。

 ピァラの鏡に映ったその山に、異物はなかった。あの、初めての時のように、その上から目を閉じた首がふわりと降ってきて静かに頂を飾ることもなかった。残念な、しかしどこかほっとするような気持ちで、ナンナは鏡を手に取り、袋の上で伏せた。ざらざらと落ちてくる結晶の中に指の一本でも交じっていはしないかと目を凝らしたが、降ってくるものは全て、均一な黒の結晶だった。

 シャシの、失われた首から下が見つかるとすれば、それは鏡の向こう側でだろうとナンナは思っている。鏡を覗き込む度、ナンナはシャシの肌と同じ色を探し、その度に裏切られる。

 無力感を思い出しながら、ナンナは結晶をつまみ、再び開いたシャシの口に入れた。

「鏡、見る?」

 ナンナの問いにシャシは首を横に振った。咀嚼したものをこくんと飲み込む。飲み込んだものはどこへ行ってしまうのだろうとナンナは毎度不思議に思う。

「食べたいけれど、今は髪が楽しみなの。鏡はそれからがよいのだわ」

「そっか。そうだね、先にやっちゃおう」

「ありがとう!」

「うん」

 シャシの笑顔が美しい。でももうひとつだけ、とねだったシャシにもうひとつ結晶を食べさせ、ナンナは改めてシャシの背後に腰を下ろした。編み込みの残りを進め、ねじり合わせていく。シャシは機嫌がいいのか、断片的な音を並べて遊ぶように鼻歌を歌っていた。細くまとまった毛束を更に合わせ、長い長い三つ編みにした。仕上げに、銀糸を織り込んだ細い布で三つ編みの先を結わく。

 暫く左右から眺めてみて、漸くナンナは頷いた。

「よーし。できた」

「見たいわ!」

「いいよ」

 答えたナンナは右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、左上の空中に置いた。そこから右へ。下へ。左へ。上へ。そうして大きな長方形を描くと、開いた右手の上から何かを吹き飛ばすように、ふう、と息を吹いた。長方形に切り取られた空間が水面の如く揺れる。やがてそれは鏡となった。椅子に腰かけた赤毛のナンナと、その手前、銀の盆の上で期待に目を輝かせているシャシとがそこに映し出された。

「まあ!」

 シャシは鏡の中の自分を見るなり叫んで、それから軽やかに笑い出した。

「とってもきれい!」

「動かすよ」

 声をかけたナンナが銀の盆に手をかけ、揺らさないようにゆっくりと右へ回した。シャシの目が鏡を捉えられるギリギリまでいき、今度は反対に向けていく。すごい、すごいわ、とシャシははしゃぎ、ナンナが三つ編みの先を持ち上げて見せると歓声を上げた。

「ナンナは天才なのだわ! きっと今、シャシがこの世界で一番きれいね!」

 何の躊躇いもなくそんなことを言うシャシに、ナンナはぷっと噴き出した。

「あら、笑い事ではなくってよ? シャシはとっても綺麗になったのだから」

「そう?」

「ええ!」

「それはよかった」

「そうよ。シャシもよかったと思っているわ」

 くすくすと笑いあう。それから、シャシはまっすぐに鏡の中のナンナを見つめた。

「ナンナ、イスラの花の夢が見たいのだけど、構わない?」

「いいよ。ちょうど眠くなってきたし」

「あら!」

 ぱっと表情を変えたシャシが眉を落とした。

「ごめんなさい、ナンナは遠くから戻ってきたばっかりなのに、シャシがいっぱいお願いをしてしまった」

「気にしないでよ。僕の仕事はシャシとお昼寝をするところまで入ってるんだから」

「本当? それってとってもすてきなお仕事なのね?」

「その通り」

 まあ、と笑ったシャシを、ナンナはそっと銀の盆から持ち上げた。椅子に腰かけ、結い上げた髪を丁寧に流してから膝の上に乗せる。鏡は滑るように空中を動き、二人の正面に来た。シャシとナンナはまっすぐに首筋を伸ばし、じっと鏡の中を見つめる。静かに、ただただ静かにである。

 ――と。

 そこに映ったナンナの背後から、シャシと同じ肌の色をした腕がゆっくりと上へ伸びた。胴体は見えない。まるで寝起きの伸びでもするように、ぐっと力んで伸び上がる。ひとしきりそうした腕は、今度はゆっくりとナンナの体に巻き付いた。左腕はしだれるようにナンナの右わき腹へ手を触れ、右手はナンナの左頬を覆った。ナンナは微笑みながら目を閉じる。腕に抱きしめられる感触は心地よかった。体の緊張を解きながら、ピァラとともに見上げた満開のイスラの大木を思い出す。枝の揺れる音、淡い木漏れ日、降り注ぐ純白の花弁。

 きれいね、とシャシが囁いた。花弁と共に空中を流れていた匂いを思い出せば、シャシはうっとりと溜め息をつく。ナンナはそこから道中の情景も辿った。霧深い山道、ところどころに咲く幽玄なイスラ。髪を剃っているピァラとその顔、表情。木の下で眠るトレファとヨハ。ピァラの家。鏡。現れる夢の結晶と黒一色の鏡の中、失望、安堵、無力感……。

「あ、ごめん」

 追憶が脱線したことをナンナは謝った。

「謝ることではないわ。ナンナが、シャシのことをとても大切に考えてくれている証なのだもの」

 シャシは静かに言った。背後から伸びている右手が、触れているナンナの左頬を柔らかく撫ぜる。

「――ねえ。シャシは思うわ」

 目を閉じたナンナの表情を鏡越しに見つめながら、シャシは言う。

「きっと、シャシはシャシだけなのだわ。……ナンナのようではないの、きっと」

 その言葉に、ナンナは思わず目を開いた。鏡の向こうのシャシと目が合った。

「……どういうこと、それ」

「シャシは何も失ってなどいないということよ」

「何も?」

「そう。ナンナはシャシの『からだ』を探している……それってとっても嬉しいことだわ。嬉しいけれど、きっと、シャシは今のこの姿ですべてなのよ」

「でも、この腕は」

 ナンナは視線を落としたが、そこにはただシャシのつむじがあるだけだった。鏡の中に目を戻せば、二本の腕は僅かにナンナの体から離れた空中に留まっている。だが、部屋にはナンナとシャシ以外に誰もいない。何度も目の当たりにしてきた事実をナンナは再び見た。

 きっとあの腕はシャシの腕だ。だが、腕は鏡の中にしか現れない。

「夢なのだわ!」

 悪戯っぽくシャシが笑った。

「シャシは鏡の向こうから来たのだもの、ナンナに夢を見せることくらい、たやすくってよ?」

 ぱち、と鏡の中のシャシが片目を瞑り、真っ白な両腕がナンナに向かって手を振った。

「そうなの?」

「ええ」

「……てっきりシャシの体が向こう側にあるのかと思ってたよ」

「シャシが上手に夢を見せているからなのよ」

「そっか。すごい、とっても上手」

「光栄ね!」

 くすくすとシャシは笑った。苦笑するナンナの体に、改めて腕が触れる。慈しむような抱擁はかすかにぬくもりさえ帯びていた。

「だから、ナンナ。シャシの『からだ』を探すのは、もうよいの。はじめから、この世のどこにもないのだわ。鏡のこっち側にも、シャシの来たあっち側にも。……シャシは、これでシャシなの」

 それにね、と、さりげなく伸ばした腕でテーブルの上の結晶をつまみ上げた。空中を動いてきた結晶はシャシの口に吸いこまれ、シャシがそれを嚥下した動きがナンナの太ももに伝わる。余韻を楽しむように沈黙していたシャシは、ふと顔を上げ、そのままゆっくりと後ろに倒れた。目を閉じたシャシをナンナは受け止め損ねた。編み込みの凹凸がナンナの下腹にぶつかる。

「おっと」

「うふふ」

 受け止められたシャシが、嬉しそうに声を漏らして目を開けた。見上げてくる黒の瞳に、ナンナは夢の結晶と同じ紫色のきらめきを見る。

「――シャシには夢がある。ナンナもいる。それに、ナンナに編んでもらえるながあい髪だってあるのだから、シャシはこれでよいのよ」

 美しい黒髪のとぐろの上で、シャシは笑んだ。逆さになったその顔を見下ろして、ナンナは暫く思案していた。この考え事はシャシに筒抜けだろうとは思いながら、じっとその目を見つめる。シャシは何も言わなかった。長い睫毛を揺らして二、三まばたきをしたのみである。だが、シャシが沈黙していること自体が、ナンナにとってはひとつの答えだった。

「……そっか」

「ええ」

 ナンナは微笑んだ。小さく頭を振り、ふわあ、と欠伸をひとつ漏らす。

「失礼」

「よいわ。……ねえ、お昼寝にしない?」

「うん。そうする」

「すてき。シャシもお昼寝にするわ」

「いいと思う。……ありがとうシャシ」

「よいのよ」

 おやすみ、とシャシが囁き、ナンナはうん、と頷いた。シャシを起こしてやって、落ちないようにその前で手を重ねる。背もたれに自重を預けて目を閉じると葉擦れの音が心地よかった。脇腹に触れる右手が緩やかなリズムで打ち付ける。そっと頭に触れた指先が、くるくると丸まった赤毛を慈しむように梳き始める。

 やがてナンナの意識に浮かび始めた不定形の夢を、シャシもまた、目を閉じて追った。




 fin.

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