07 とまらない想い
SoLの中はとても落ち着く場所だった。カフェfrappéとはまた違う雰囲気で、ペットのシャンプーやカットを飼い主が待つのには快適な空間だと思う。
ふかふかのソファ、壁に取り付けられたテレビ、数種類のファッション雑誌やペット雑誌。またラックの上に値札とともに飾られている手作りっぽい犬や猫のキーホルダーや人形、そして首輪やリールなどの小物。俺は小学生みたいにきょろきょろしながらも、背筋をシャンと伸ばしてがちがちに緊張している。
「はいどうぞ。これあたしはすごく好きな紅茶なんだけど、光稀くんのお口に合うかな」
可愛いティーカップに入っている薄いオレンジ色の飲み物。カップの底には小さくカラフルなドライフルーツのようなものが沈んでいる。入れ立てだろう湯気が出ているそれを俺は一口飲んだ。
「お、おいしい……っ」
ものすごくおいしい。飲んだ瞬間、目がチカチカして、ころころしたこんぺいとうがたくさん弾けたような感覚がした。俺はあまりのおいしさにぷるぷる震えながらその飲み物を味わう。
「あはは、光稀くんっていっつもわんちゃんみたいな反応するよね。気に入ってくれたみたいでよかった」
響花さんがめちゃくちゃ可愛くて直視ができない。俺はおいしくて一気に飲んだ中身の入っていないカップを傾け、赤く染まっているだろう顔の大半を隠す。
「ここ、響花さんひとりでやっているんですか?」
「うん。あたしひとりでやってるよ。たまにクリームも一緒にいるんだけど、今日は家でお留守番」
俺の向かいに椅子を持って来てそこに座る響花さん。ワタアメはえらく響花さんを気に入ったようで、『膝に乗せろ』と尻尾を振っておねだりしている。響花さんもそれに気付いてワタアメを抱き上げ膝に乗せた。ワタアメずるい。
「光稀くんは、高校生だよね? 今何年生なの?」
「俺、今3年生です」
「そっか。3年生ってことは、進路どうするの? 大学?」
「い、いえ……、就職しようかと思っていて」
「そうなんだ。何かやりたいこととかあるのかな?」
「え、と、特にそういうのなくて……。とりあえず良さそうなところ受けてみようとは思ってるんですけど」
自分でものすごくかっこ悪いこと言ってるなって思った。夢を持って、それを実現した響花さんに比べたら俺なんて本当にちっぽけな存在。夢もない、やりたいこともない、ただ父さんが守ろうとした家族のために仕事をする。まぁそれも夢といえば夢なのかもしれないけど、これだけ自分の夢を掴んだ人を前にするとなんだか自分が情けなく感じてしまう。
「光稀くんって、何だか昔のあたしみたいだ」
「え?」
思いもよらない応えに、俺は思わず声をもらした。
「あたしもさ、光稀くんくらいの時、全然やりたいこと見つかんなかったんだよね」
「え、でも今……」
「そう。今はトリマーしてるけど、トリマーになりたいって思ったのは高校3年生の秋頃にクリームと出会ってからなんだよ」
「そ……、そうなんだ」
俺は思わず敬語を使うのを忘れた。今こんなに輝いて夢を叶えた響花さんが、全然やりたいことが見つからなかったっていうのに驚いた。しかもトリマーになろうと決めたのも高校生活の終盤だったなんて。
「あたしその時思ったよ。――ああ、あたしはやりたいことがなかったんじゃなくて、やりたいことにまだ出会っていなかったんだなぁって」
俺はその言葉を聴いた瞬間、バチバチッと脳が痺れる感じがした。これまで俺になかった視点があっさり切り開かれた感覚。頭の中の1本道が、ふたつ、みっつと増えていく。霧が晴れていくように無数に広がっていく道筋に俺はどうしたらいいのか分からず、混乱した。
「お、響花さん。俺……、あの、俺の家……父さんがいなくて……」
気付いた時には、俺は自分のことを話し始めていた。
「父さんがいないから、母さんはパート掛け持ちしてて、だから俺も週末はバイトしてて、ワタアメは父さんの代わりみたいなもので、でも妹はそれ以来心閉ざしてて」
何言ってんだよ、俺。日本語がめちゃくちゃだ。でも、止まらない。ずっと誰にも言えなかった思い。それを出会って間もない響花さんに何故か吐き出していた。
「家族に迷惑かけられないし、大学とかお金掛かるし、仕事してお金稼いで家に入れれば母さんの負担もラクになるし、でもこんなこと誰にも言えなくて」
マシンガンのように言葉を並べた後、俺は――自分が泣いていることに気付いた。言葉は止まったけど、今度は涙が止まらない。膝に置いた両手の甲にぽたぽたと雫が落ちる。
もう最悪だ。本当にかっこ悪い。俺は必死に溢れ出る涙を拭う。腕や手の甲を使ってゴシゴシ擦るけど、涙は意地悪にも流れ続ける。
出会ったばかりの高校生に家の状況を話されて、目の前で泣かれて、困って泣きたい気持ちなのはきっと響花さんの方なのに。
そして今まで何も言わずに聴いていた響花さんがワタアメを床に置くと、突然立ち上がり、俺の視界から消えた。
俺は後悔した。自分の思いを打ち明けてしまったこと。呆れてどこかへ行ってしまったんだと思うと、俺は顔を上げられず、この場を立ち去ることだけを考えた。
だけど、そんな俺のぐちゃぐちゃの気持ちは一気に払拭された。
それがいったい何なのか、俺は瞬時に理解ができなかったけど、気付くと、俺は響花さんの腕の中に優しく包まれていた。
「あ、え、と……お、おと……っ」
「ごめん」
響花さんのごめんに罪悪感を感じて、唇を噛んだ。
「あたしが余計なこと言ったから、しんどいことを口にさせちゃったね」
だけど、俺の耳元できこえる優しい声音。
「でも、今までよくひとりで抱えてきたね」
俺の目頭はぶわあっと熱くなる。
「よく頑張ってきたね。つらかったことがあったのに、よく弱音を吐かずに堪えてきたね」
やばい。涙が、止まらない。
俺は堪えきれない感情で響花さんの服をぎゅっと掴む。
「でも今あたしに言ってくれたから、ちょっと軽くなったでしょ? いいよ、はき出して。言葉にして。知ってる? 重たい荷物はひとりよりも2人で持った方が軽いんだよ」
俺はこの日、何年ぶりかの涙を流した。父さんが亡くなってからもう泣くのは止めようと思っていたのに、まるで子供のように響花さんの腕の中で声を震わせながら泣いた。
響花さんは俺が泣き止むまで、赤ちゃんをあやすように背中をぽんぽんと叩いてくれた。男のくせに情けない。こんな姿、響花さんに見せたくない。だけどどこか安心している俺のこころ。
普通、こんな年下の俺がべそべそ泣いていたら面倒くさいと思うのが当然だと思うけど、響花さんは一緒の目線に立って、一緒に俺の想いを背負ってくれた。
響花さん。これ以上俺を好きにさせて、どうするんですか――
・・・
「わぁ光稀くん。お顔真っ赤っかになっちゃったね」
俺はトイレの鏡で自分の顔を見て、死にたくなった。もはや目なんてぼっこり腫れすぎて開いていない。目も鼻もこすりまくったからめちゃくちゃ腫れている。
「はいこれ、貸してあげる。あっためるといいんだよ」
そう言って蒸しタオルを作ってくれた。ほんのりアロマのいい香りがする。腫れた箇所に温かい蒸気がじゅわっとしみ込んですっごく気持ちがいい。
「響花さん、今日は本当にすみませんでした」
俺は頭を下げる。ワタアメは俺を心配してくれているのか、尻尾を下げて俺の足に前足を掛けて「くぅん」と鳴いている。
「いいんだよ。あたしは光稀くんが溜まったものを話してくれて、すごく嬉しかった」
またその笑顔。それ、反則だ。俺は蒸しタオルを利用して顔を隠す。
「今度さ、よかったらワタアメのカットさせてよ。ほらこの辺とか結構毛が伸びて来てるからさ」
「い、いいんですか? また……ここに来ても」
「もちろんだよ。光稀くんなら大歓迎」
「あ、ありがとうございます」
「でもうち一応予約制だから、予約してもらえると助かるかな」
「あっ、そ、そうですよね。ええっと、この日はバイトだし、この辺はまつりの準備で……あっ」
俺はスマホのスケジュールを確認している時に、思わず声が出た。そう、今日の本来の目的は相模まつりのチラシを渡すためだったのだ。
「響花さん、もしよかったらこれ」
「相模まつり? へぇ~、地域でこんなイベントやってるんだね」
「俺、友達に誘われてまつりの準備したり、当日役員として手伝ったりするんです。相模原市では結構大きなまつりなので、よかったら響花さんもと思って」
「ありがとう! この日はまだ予約そんなに入ってないし、お店早く閉めて行ってみようかな」
「はい。お、お待ちしていますっ」
良かった。ちゃんと渡せた。ちょっと予想外な展開になっちゃったけど、目的は果たせたし、次また会いに来てもいいというおまけもついてきた。
「だから俺、まつりが終わるまでちょっと忙しいかもしれないので、それが終わったらぜひ予約させてください」
「うん分かった。あ、そしたらこれ渡しておこうか。あたしの名刺……それと」
響花さんは名刺の裏に、何やら文字を書いているようだ。ちょっと俺の今いる場所からでは何を書いているのか分からない。
「はいこれ。表はお店の住所、ホームページアドレスとかTwitterのID載せているんだけど、裏にはね……じゃん。あたしの携帯番号書いておいたよ」
「えっ! うわあぁ⁉ で、でで、電話、ばっ⁉」
俺は腫れた目をひん剥いて驚いた。名刺を持つ手がぷるぷると震えた。なんてったって響花さんの個人の電話番号をゲットしてしまったのだから!
「ああ、常連さんとかには結構教えているんだよね。通常は予約はホームページからしかできないんだけど、携帯で予約してもらった方が手っ取り早いでしょ?」
「あ、はい。うん。そうですよね」
……舞い上がってしまった自分を呪い殺したい。
でも常連さんしか教えていない携帯番号を、出会って間もない俺に教えてくれるなんて。俺はもらった名刺で口元を隠しながらふふっと笑った。
・・・
「侑〜、お前ちゃんとチラシ配りしてんのかよ」
「はぁ? 当たり前だろ。誰かさんと違ってちゃんとやってるよ」
「あっ、あっくん今日バナナミルク飲んでる。ひと口ちょうだーい」
「いちごがなかったんだよ。……ほれ」
後日のお昼休み。俺ら3人は、教室の後ろでいつものように昼食を食べながらだべる。
「バカたれ侑。俺はこの前ちゃんと配って宣伝して来たぞ」
「へぇ。たまにはやるじゃん」
「た、たまにはって何だよ」
「みっくんのバイト先には配ったの?」
「バイト先には今週末にでも店長に頼んでみようと思ってる。母さんの職場は置いてもらった」
今日の昼食は、俺は母さんが作ってくれた弁当。侑はサンドイッチとバナナミルク。トーコはコンビニのおにぎりを食べている。
「じゃあ誰に配ったの、チラシ?」
トーコの言葉で、俺は固まった。
「みっくん? 顔、赤いよ?」
「えっ⁉」
トーコの言葉に俺は両手で頬を隠すように顔を挟む。響花さんのことを思い出すだけでこの始末。ほら、俺が滅多にこんな反応しないから、トーコなんてまじで心配そうな顔をしている。
そうだよな。俺らの仲だし、そろそろちゃんと言わなきゃだめだよな。
「あのさ、俺……、ふ、ふたりに言っときたいことがあるんだ」
「みっくん?」
「どうした、光稀?」
「俺さ……、その、す、好きな人、できてさ……」
テレテレしながら2人に正直に話す俺。『えぇー⁉ みっくん好きな人いんの? どこの誰なのよ、さっさと言いなさいよ!』と、こんな感じでトーコの言葉が飛んでくると構えていたのに、どうしてトーコのやつ、固まってんだ? そんなに俺の宣言がおかしかったか?
「それって、この学校の子?」
「ううん。全然関係ない人」
「……そっか。それで光稀、その人にチラシ、渡してきたのか?」
「う、うん。そうなんだ。昨日渡してきた」
恥ずかしいから「えへへ」と笑いながら頬をかく俺。
でもどうしてだろう。なんだか変な空気が流れているのは、気のせいだろうか。