03 また、会えますか?
牙のように生えた八重歯が、口をパクパクするたびに自分の唇に何度も当たる。ワタアメを頭に乗せたまま固まってしまった俺の体は全く言うことを聞いてくれずに立ち往生した。
俺がそんな状況とはつゆ知らず、響花さんは手を振りながら俺の方へ走って来ている。どうしよう。それ以上近づかれると、心臓が止まってしまいそうだ。
「光稀くんだよね? 最初私服だったから気付かなかったよ」
「ああっ、お、おとっ」
唇が震えて名前をちゃんと呼ぶことができない。だって、あの響花さんが目の前にいるんだ。昨日みたいに庭の柵越しなんかじゃない。何の隔てもないこの場所に、俺と響花さんが対面して立っている。
昨日は分からなかったけど、俺よりも少し背の高い響花さん。顔なんて芸能人も顔負けするほど小さくて、めちゃくちゃスタイルがいい。それに加えて、ほんのり施してあるナチュラルメイク。幻想的なマジックアワーの夕焼けをバックに、それらはより一層魅力さを増している。
「あ、この子が光稀くんところのわんちゃん? かわいいねぇ、おいで」
突然俺の目の前に影ができた。最初は何だか分からなかったけど、状況を理解できた俺は驚きのあまり、心臓が口から飛び出し、眼球はまぶたから突き出しそうになった。
響花さんが、俺の頭に乗っているワタアメを抱っこしようと両手を伸ばしているのだ。それにより自動的に俺たちの距離は詰まり、俺の数センチ先に響花さんの顔がある状態となる。
響花さんのぷるぷるした唇と、ふわりと香るにおいに頭がクラクラする。目が回る。気を抜くと後ろに倒れてしまいそうで必死に両足を踏ん張った。
「ほらほら、怖くないよ。大丈夫だよ~」
響花さんはそんな俺を他所に、ワタアメを抱っこし、何とも幸せそうに顔をそのもふもふに埋めている。ちくしょうワタアメ、俺がこんなにビビっているのに、いとも簡単に響花さんに抱っこされやがって。
「プードルにしては毛がもふもふしてて気持ちがいいね。ちゃんとお手入れもされてるから毛並みがすっごく綺麗。これ、光稀くんがお世話してあげるの?」
「あ、ああ、はい。本とか動画とか見ながら。自己流なんですけど」
「へぇすごいね。上手に出来てるよ」
やばい、褒められた。俺は響花さんの言葉が嬉しくて、またもや顔を真っ赤にさせる。それを見られたくなくてちょっと角度を下げて顔を見られないようにした。
「お、響花さん、犬のこと……その、詳しいんですね」
俺はここでまた出会えた奇跡と、まだこの時間が続いて欲しい一心で、めちゃくちゃ勇気を出して会話を続けた。もう緊張しすぎて吐きそうだ。シャンプー褒められただけで『詳しいんですね』はおかしかったか? 変な奴だと思われたかな。しかもちゃっかり名前を呼んでしまった。『うわ、こいつ私の名前覚えてるよ』とか思われたらどうしよう。
「あたしね、トリマーしてるの」
「ト、トリマー?」
俺は犬を飼っているくせにトリマーという言葉を初めて聞いた。きょとんとした顔が響花さんにウケたのかワタアメを抱っこしながらクスクスと笑っている。最悪だ。これはきっと、あまりにも世の中のことを知らない高校生でガキすぎる俺を響花さんが呆れ返って嘲笑ってる姿だ。ああ、もうツラすぎる。俺は羞恥心から顔を真っ赤にし、下を向いてぷるぷると震えた。
「光稀くんってさ、何だかわんちゃんみたいだね」
俺の頭に向かって伸びる白く細い腕。
そして俺の頭を撫でているであろう、響花さんの手。
「髪、ふわふわ」
さらさらと撫でられる俺の髪。俺の心臓はあまりの驚きと嬉しさで、かちこちに固まってしまった。ドキドキしすぎて瞳孔が開いているのが自分でもよく分かる。噛み締めた唇の隙間から八重歯がこんにちはしている。ドキドキで苦しくて死んでしまいそうになっているのにも関わらず、『もっと撫でてほしい』と思う自分に正直な俺。
俺はなんとなく、自分に自信が持てずに今日まで来た。これまでそれなりに女の子を気になったことはあるけど、響花さんは別格だ。こんなにドキドキしたのは本当に生まれて初めて。こんな俺なんかじゃ相手にしてくれない、という不安な気持ちの表れか、まともに顔を見ることができずにずっと下を向いてしまっている。こんなみっともない俺のこと、響花さんのはどう思っているんだろう。
「ああっごめんね。突然撫でちゃって。嫌だよね、急に髪の毛触られちゃったら」
「え、あ、あの! そ、そんなイヤとか、そんなんじゃ、なくて……」
必死に否定をしようと顔を上げるが、困り顔の響花さんの顔が可愛すぎて、またもや自分らしさが発揮できなくて縮こまってしまう。
「光稀くんは優しいんだね、あ、お散歩の帰り? 良かったら途中まで一緒に帰らない? あたしもこっちの方角なんだよね」
「ああう、あっ、ふぁい。お、俺でよかったら!」
一緒に並んで歩き始めた響花さんと俺。ワタアメは響花さんの胸の中にすっぽりと収まり、気持ちが良さそうにウトウトしている。
夢のような時間。まるで一緒に歩く道が花道のように見える。響花さんが歩くたびに、周りの植物は生き生きと咲き、葉は青々と茂る。俺はオーラとかそんなのは全然分かんないけど、響花さんの周りに、キラキラした星たちが見える。ついに幻視が見えるようになってしまったと目頭を押さえた。
「そうそう、トリマーはねざっくり言うと、犬の美容師さんだと思ってもらえればいいよ」
「へぇ。何だかかっこいいですね」
「えへへ、ありがとう」
今俺と一緒にいる間、俺だけに向けられる笑顔。それがもう本っ当に眩しくて、直視できない。思わず「うっ」と言いながら片腕で太陽の眩しさを遮る動作をしてしまう。
トリマーの仕事の話をしている響花さんはすごく楽しそうに見える。夢とか特にない俺からしてみると何だかうらやましく思える。
「あたし、もうすぐトリマー始めてから4年経つんだけどね」
「えっ、4年⁉ 響花さんっていったい――」
『何歳ですか?』と訊きかけた。
母さんが言っていた、女性に年齢を尋ねるのはタブーだと。それなのに無神経な俺はなんと失礼な質問を。
「年齢? あたしは今年24歳になる年だよ」
「はわっ⁉ に、にに、にじゅう……っ⁉」
「なぁに? 年上のおばさんだーとか思ったでしょ」
「い、いや! あの、ちがくて!」
「あはは。ごめんごめん、からかった」
年上だと思っていたけど、まさか6歳も年上だなんて。ということはつまり、俺が小学1年生の時の……6年生ってことか⁉ 考えただけでやばい。まさかそんなに年が離れている人のことをこんなに好きになるなんて思わなかった。
でもよくよく考えなくても、こんなに綺麗なお姉さんが、こんなに歳の離れた俺のことなんて絶対相手にしてくれないことくらい分かる。考えるまでもない結論に俺はがくっと肩を落とした。
「あたし高校を卒業してからトリマーの専門学校に入って、資格取って、20歳の頃から今の業界で働いているんだよね」
「そう、なんですね」
「なかなかシビアだよ。正直結構大変だった。けどたくさんの動物たちと戯れることができて、本当に力もらっていたんだ。ああ、あたしこの子たちのためなら全然頑張れるって思ってさ。その熱が大きすぎて、ちょっと前に自分のお店開いたんだよ」
「えっ、自分でトリマーのお店経営しているってことですか?」
「そうそう」
すごい。人としても尊敬する。自分の夢を持って、それを実現した人って、こんなに輝いているんだなって思った。
すっかり暗くなった空を背景に、響花さんの周りに星が飛び始める。星は流れ星のように流れたり、その場で飛び跳ねたりすごく楽しそう。
「あ。あたしこっちだから」
「えっ?」
ちょっと待って。もう一緒にいる時間は終わり?
何の心の準備もできていない。
「あ、あの……」
素敵な時間ほど過ぎるのは本当にあっという間というけれど、それは本当の話で。
「お、響花、さんっ」
「ん?」
「ま、また……会えますか?」
――また会いたい。それは俺の口から出た精一杯の言葉。
口から心臓が飛び出しそうになるのを堪えて、自分のティーシャツの裾をぎゅうっと両手で握りしめた。響花さんの顔はまともに見れないけれど、響花さんは微笑んでくれているような、そんな気がした。
「もちろんだよ、光稀くん」
その柔らかい返事に、俺の体はピクリと動いた。
「ワ、ワタアメと一緒に、その……家に……」
「うん、ワタアメと一緒に遊びにおいで」
「またね」と手を振り、夜の暗闇の中消えていく響花さん。落ち着かないのかワタアメが俺の周りをくるくると回っている。
緊張のあまり力いっぱい握りしめた俺のティーシャツは、見るに堪えないほどしわしわになってしまった。