13 ティートリコ
梅雨。
雨は嫌いじゃない。
お日様は見えないけど、外に出るのが億劫になるけど、洗濯物は乾かないけど、ジメジメするけど、雨はいろんなものを洗い流してくれている感じがする。
雨上がりの匂いは好きだ。空気中の汚れが全部下に落ちるから、澄んだ香りがする。そんな時は外に出て、深く深呼吸をする。すると体の中の悪いものもぜーんぶ外に出ていく気持ちがいい感覚になる。
俺、越前 光稀は――失恋した。
先日行われた相模まつり。夕方に差しかかろうとしていた時にまつりに来てくれた俺の好きな人、美里 響花さんから知らされた彼氏の存在。
というかその可能性を最初から考えていなかった俺が馬鹿だったのだ。あんなに綺麗な人に、そもそも彼氏がいない訳がない。
しかも彼氏はメディアや雑誌にもよく取り上げられている、ドッグトレーナー。通称イケメントレーナーだった。
ネットで見てみると都内で開業していて大人気のトレーナーらしい。名前を、朝比奈 蒼真。なんだこれ、名前もすごくかっこいい。
俺はまつりの日、響花さんと喋っているときのことをあまりよく覚えていない。
俺があまりにも立ち尽くしているから、代わりにトーコが一生懸命隣で喋ってくれたのは何となく覚えている。俺が紹介する、と言いながらトーコが侑のことも紹介してくれた。本当に悪いことをした。
朝比奈さんが『君が光稀くん? 響花から話は聞いているよ』とにこやかに笑いかけてくれたときは、その爽やかな声音に脳が刺激されて痺れる感じがした。
都内で自分のお店を持っていて、めちゃくちゃイケメンのすごい人に、普通の高校生の俺なんかが敵うわけがない。2人は本当にお似合いだった。
物理的距離だけじゃなくて、心の距離もゼロ距離で。お互いがお互いのことを本当に好きなんだなぁということが、見ているだけで伝わってきた。
いよいよ自分に自信がなくなった。元々そんなものはないんだけど、圧倒的な差を見せつけられた感じがして、心が崩れた。響花さんに会いたいという気持ちも、すごく怖いと思うようになってしまった。
俺みたいな普通でちっぽけな存在が響花さんに会ってはいけない、そう感じてしまってしんどかった。
・・・
「みっくん……、大丈夫?」
学校では俺の大事な友達、中城 侑と、沢渡 透子が俺のことを心配してくれた。
俺は机に肩頬をつけて窓の外を見る。今日は雨だ。
「父さんが今度飯でも食いに行こうって言ってたぞ」
そう。相模まつりは結局大成功を収めた。参加人数が例年にも増してかなり増えたらしい。
それは本当に嬉しかったし、やってよかったと達成感も湧いた。
大人たちはみんなまつりの後、祝賀会を開いたようで、俺たちのことも誘ってくれて、2人は行ったみたいだけど俺はどうも気乗りしなくて行けなかった。何だか笑える気がしなくて、周りに迷惑をかけてしまうんじゃないかと思うと足がすくんでしまった。
更にこの2人には、逆にそれで気を遣わせてしまっている。
「みっくん。コンビニにあったGODIVAのプリンだよ。奮発しちゃった〜。一緒に食べよ?」
「光稀。俺はお前と響花さん、お似合いだと思う」
トーコ。ありがとう。GODIVAのプリンだなんて高かっただろうに。
侑。侑なりの全力の励ましなんだろうな。お世辞でも嬉しいよ。
「今日久しぶりにfrappé行こうよ。最近忙しくて行ってなかったでしょ?」
「え、でもトーコ部活は?」
「いいよ〜たまには1日くらい休んでも。あっくんはさすがに休めないか」
「悪い、俺は部活行かなきゃ。……2人で、行ってきなよ」
「じゃああっくんはまた今度ね。みっくん、行こ」
「そうだな。久しぶりに泉ちゃんにも会いたいしな」
そして俺は身の入らない授業を受け続け、下校時刻となった。今日はとても時間が長く感じた。
集中力も全然ないし、時計を見るたびに『まだこんな時間か……』って、今日何回思っただろう。いつもならなんとも思わないのに椅子に押しつぶされるお尻が痛く感じたり、背もたれに当たる背中が痛く感じた。
そんな謎の痛みにも襲われながら、俺は今日の学校生活からようやく解放されたと、frappéに向かう道中に安堵の溜息をもらす。
「いらっしゃいま――あっ、光稀さん、透子さん! お待ちしておりました!」
「わぁ泉ちゃん、久しぶりだねぇ」
笑顔で懐いてくるのは瀧本 泉ちゃん。
トーコはそんな泉ちゃんに抱きついて頭を擦り付ける。泉ちゃんも小柄な方だけど、トーコより背は高いので、実際泉ちゃんの胸の中にトーコが飛び込んでいるような状態だ。
「きょ、今日はお2人なんですね」
席に案内しながら、もじもじと俺に尋ねてくる泉ちゃん。侑がいなくてちょっと残念そうな表情をしている。
「侑、部活だって。ごめんね。誘ったんだけどさ」
「いっ、いえいえ。いいんです。私は光稀さんと透子さんに会えただけでも本当に嬉しいので」
俺たちは席につくと飲み物をオーダーした。トーコは相変わらずレモンティー。俺はその時いつもみたくウーロン茶と言おうとしたけど、ふと、響花さんのお店で飲んだアレを思い出した。
「泉ちゃん。あれ……」
「あれ?」
「あー、えとごめん。なんか紅茶の中にドライフルーツみたいなのが入ってる飲み物って分かる? ここにあるかな?」
めちゃくちゃ雑な伝え方だけど、泉ちゃんに分かるだろうか。泉ちゃんは「んー」と言いながらメニューをぺらぺらと捲る。
「もしかして、このことではないでしょうか?」
「あっ」
これ、俺が飲んだのと同じ紅茶!
まさかここに同じ飲み物があったなんて。
「これ、ティートリコというお店のフルーツティーなんです。最近仕入れたばかりなんですよ。女性に大変人気で。よくご存知ですね、光稀さん!」
「い、いや。たまたま……って、な、なんだよトーコ」
「なんでもないっ。ただ、響花さんに教えてもらったのかなぁって思っただけ」
何やら面白くなさそうに頬杖をついて俺のことを見て……、いや睨んでいるトーコ。
「あ、じゃあこの中のオススメを」
「はい、かしこまりました!」
泉ちゃんが去ってから、テーブル内では沈黙が流れる。さっきまでトーコは機嫌が良さそうに見えたけど、俺のオーダーの件くだりから何やら不機嫌そうにも見てとれる。
今度はなんだ。この前も似たようなことあったけど、今回トーコの機嫌を損ねた理由は何なんだろうか。
「ねぇねぇ」
「ど、どうした?」
そんな中、沈黙を破ったのはトーコだった。
「響花さん。本当に綺麗だったね」
「うん。そうだろ?」
響花さんの名前を聴いて、俺の心臓はツンと針で刺したような痛みがした。
「彼氏さん……朝比奈さんも、イケメンだった」
「そ、そうだな」
心臓が大きく唸る。俺は思わず心臓あたりを片手でぎゅっと掴むように握った。まだ癒えていない心の傷を、トーコは穿り返す。
「みっくんさ、まだ響花さんのこと好きでい続けるの?」
あまりにもドストレートな質問だった。真剣な顔のトーコ。
『イケメン彼氏持ちの年上女性への一方通行な恋を、まだ続けるのか?』
トーコの質問の意図はきっとこうだ。トーコはどうしてこんなことを訊いてくるんだろうか。あまりにもまっすぐに俺を見てくるトーコから、俺は目が離せない。
「ど、どうし――」
「お待たせしましたぁ」
回答に困っていたけど、泉ちゃんが何ともいいタイミングで来てくれた。さっきまで真剣な表情をしていたトーコは笑顔で「わぁ、ありがとう」と泉ちゃんに微笑みかけている。
「あ、光稀さんにはこれ」
そこにはまさしくあの時の同じフルーツティーが用意された。今回はオススメを頼んだので色は鮮やかなワイン色。底に沈んでいるのは暖色系をメインにしたカラフルなドライフルーツとハートの形をした飾りも見える。
「これはティート・パルフェ。私のオススメです。美味しいですよ。どうぞ」
トーコも「うわぁ」と目を輝かせながら身を乗り出して覗いてくる。そしてカバンからデジカメを取り出し、いろんな角度からティートリコを撮影する。そんな俺たちをにこにこと笑い、優しく見守る泉ちゃん。
「い、いただきます」
俺はそう言うと、パルフェに口をつけた。
ぶわぁっと口の中にその甘みが広がる。ちょっとオトナテイストのパルフェは、たくさんの葡萄がカップから飛び出し踊り出すようなワクワク感が溢れ出す。そして喉を通った後も、その魅力が余韻として残り、思わずぶるっと身震いする。
――響花さん。
俺は、初めてティートリコを飲んだ日のことを思い出した。
温かい言葉で俺を包み込んで、受け入れてくれた響花さん。小さな子供のようにわんわん泣いた俺を、追い出すこともせず労ってくれた響花さん。
俺はあなたの笑顔を好きになり、温かさを好きになり、寛大な心を好きになった。
俺の視野を広げてくれて、希望を見出してくれた響花さん。俺はそんなあなたに惹かれ、あなたのようになりたいとも思っている。
「トーコ」
もうすでに負けは見えている世界だけど、もう少し、あとちょっとだけ――
「俺さ、やっぱり響花さんを好きでい続けたいと思う」
あなたを好きでいて、いいですか?