01 ひとめぼれ
寒い寒い冬が終わり、暖かな陽気に包まれた季節。
動物や虫たちは活動的となり、緑が青々しく、花はピンク色の色鮮やかな輝きを見せる今日。俺の頬は女の子がチークを塗ったみたいに真っ赤に染まり、まるで金魚がエサを食べているように口はぱくぱくと無意識に動く。俺の八重歯は、そんな動きをする口の隙間から何度も見え隠れし、「あうあう」と間抜けな言葉をもらした。
これまでの人生において味わったことのない息が止まりそうな感情。おさまらないドキドキで心臓が痛くて、俺はシャツを握りしめた。
それくらい俺は、この人に俺のぜんぶを持って行かれたのだ。
それはいつもの帰り道。友人と別れて、ひとりで見慣れた道を帰っている時だった。
本来であればトートの役割で作られた学校指定のかばんをリュックのように背負い、ポケットに両手を突っ込んで歩く。リュックにつけた犬のキーホルダーが音を立てて揺れる音色は、春のそよ風とマッチしてとても心地が良い。
高校生にしては少し明るいその髪と、首に引っ掛けている白いヘッドホン。流行りのJ-POPよりも少しマイナーなR&Bが何曲も詰まったデジタル音楽プレーヤー。腕まくりされた白いシャツと、手首に巻かれている黒くてゴツメなG-SHOCK。ロールアップされた紺色のズボン。その先から伸びる足先では、スポーツメーカーの赤いスニーカーが歩くたびに音を鳴らす。
俺は何となくその日気分が良くて、自分にだけ聞こえるほどの小さな声で、好きな曲を口ずさむ。
その隣を、自転車に乗った女子高生が二人通り過ぎる。とても楽しそうに話しをしながら、女子トークで盛り上がっている。風でなびく長い髪と女の子らしいメイク、少し腰を落とせば中身が見えるんじゃないかというくらいの短いスカート。俺はちょっとスカートを気になりながらも、何とか平然を保つ。
俺と同じ方向に数台の車が走り抜ける。赤、白、黒。車っていろんな種類があっていろんな色がある。車幅も違うし、形もバラバラ。ちなみにこの道は、対向車が来たらすれ違うのが大変な細い道幅。このまま無事に通過できればいいけど、と顔も見えぬ他人の心配をしながら俺の視線は小さくなっていく車を消えるまで追った。
よくよく地面を見ると、マンホールが地面に結構設置されていることに気付いた。いち、に、さん……、見える範囲だけでもまだある。この下に下水道が流れているのか。よくアニメや漫画で下水道で戦ったり逃げたりするシーンがあるが、この下はそんなに広々しているんだろうか。
あれ、ここってこんなお店あったっけ。昔はここ駄菓子屋だった気がするけど、今は中古屋さん。フリマスペース貸出中、か。俺ん家の大量の漫画、ここに置いてもらったら売れるかな。
何となく帰る道を、少しだけ意識するだけで見えてくる世界は変わってくる。いつも気付かないことに気付くことが出来る。
それはちょっとした子供時代の野心と冒険心のよく似ていて、違う視点に関心を向けると、新しい刺激により自分の中の領域を広げてくれる。
こんな風に意識するだけで相手の心が見えてくれればいのに、と何度か思ったことがある。魔法使いじゃあるまいし、そんなことは実際無理なんだけど。読めないからこそドキドキして、見えないからこそしんどかったりするのが人の心というものなのかもしれない。
そんなことを考えていると、目の前に猫が現れた。この猫、模様が珍しい。まるでパンダのような模様をしていて、何だかちょっと可愛らしい。猫は俺の思ったことが分かったのか、俺の方を向いてひと声泣くと、すぐ側にあった塀を乗り越え姿を消してしまった。写メでも撮ればよかったと少し後悔する。SNSでアップしたら反応をたくさん貰えたかもしれない。もしかしたらおすすめトレンドなんかに入ったりして、と考えると頭を抱えて「しくった」と思わず呟いた。
そんな頭を抱える手の隙間から、1軒の家が見えた。木造住宅で雰囲気がとても良い造りだ。家の門の向こうには、植木がバランス良く備えられ、より一層いい空間を相手に感じさせる。普段はあんまり人の家なんて意識して見たことがなかったせいか、なぜか俺はここの家に妙に惹かれるものがあった。
何となく家の前に立ってみる。表札に目をやると〝美里〟と書かれてある。〝美里〟はどうやら名字のようだ。他に名前が四つほど書かれてあるので間違いはないだろう。
門の右手には白いファミリーカーが停まっており、左手には庭があるようだった。俺は悪気や悪意があったわけじゃなくて、何となくふらっと庭側の方へ回った。とても広い庭だ。茶色い毛に包まれたチワワがストレスフリーで駆け回っている。犬好きの俺からしてみると、何とも微笑ましい光景だ。ああ、癒される。
そんなチワワの名前を、女性の声が呼んだ。チワワの名前はクリームというらしい。何とも可愛らしい名前だろうか。そんなクリームを呼んでいるのが誰なのか、何となくだが俺はすごく興味をそそられた。
そんなことを考えている間に、ひとりの女性が手を伸ばしてクリームを抱っこしようとする姿が見えた。長く茶色い髪はふわふわと女性らしく巻かれ、白いシャツにジーパン姿。顔が良く見えないせいか、俺は猛烈にクリームの飼い主の顔を確認したくなり、辺りを見渡した。
俺は完全に怪しい人と化し、庭の周囲で視界良好なベストポジションを探す。赤いスニーカーの底をそろりそろりと地面につけ、足音を殺しながら挙動不審に移動する。
何をやっているんだ俺は。側から見たら相当やばいやつじゃないか。こんな姿、近所のおばさんにでも見られた日には、速攻で通報されてしまうんじゃないだろうか。
だけど、そんな危険を冒してまで、どうしても見たかったのだ、その声の主を。
そしてついに見つけた、庭全体を見渡せる最高の場所。そして俺は、クリームをだっこする女性を見据えた。
ザァッと音を立て風が吹く。彼女から俺に向かって吹いたような不思議な風は、俺の思考を完全にストップさせる。周囲の木々は風の影響を受けることなく静かな時間が流れる、音もない世界。あまりに静かな時間なもんだから、俺の心臓のばくばくと高鳴る音がその場に響き渡り、胸元から音符の形となり外に飛び出す。音符は軽やかなステップを踏みながら色鮮やかな色彩に装飾され宙を舞う。それはヘッドホンから流れるものではなく、俺の心臓が弾ける音。
俺がこの世に生まれて18年。たったこれだけの時間しか生きていないが、この先もう二度と出会うことはないだろうと思ってしまうほどの眩しい笑顔。これだけ見続けていたいと思うほど素敵なものがあるだろうか。
俺はこの日――その笑顔に恋をした。
「あれ、そこに誰かいるの?」
透き通った声。まるでゆらぎの声を聴いているかのように心の中がすぅっと癒されていく。ずっと聴いていたいと思ってしまうその声により、宙を舞う音符たちは更に元気よくステップを踏む。
「もしもーし」
女性と目が合う。クリクリッとした大きな目はクリームではなく彼女の瞳。何だか俺の気持ちがバレてしまっているんじゃないかというほど純粋な色をした綺麗な瞳。
ん? 目が合っている?
俺はそこで自分がかなりの失態を犯していることにようやく気が付いた。音符たちは事態を把握したかのようにみんな消えていなくなる。絶景だと思ったポジションは、庭全体を見渡せる障害物のない場所。つまりは彼女からも俺が丸見えの状態なのだ。俺は自分の間抜けさを本気で呪い殺したくなった。
「君、何か用?」
クリームを抱っこした彼女が俺に近付いてくる。やばい。逃げなきゃ。いや待て。ここで逃げたら本当に不審者になってしまう。でもあの人がこっちに向かって歩いてきている。ああ、歩く姿も本当に綺麗だ。ちょっと待て、だから今はかなりまずい状況であり、きっとこの後この人が悲鳴を上げれば、警察に通報されて、俺はやっぱり刑務所行きに……。
「犬、好きなの?」
「あ、あの。えっと、犬、犬?」
俺は予想もしていなかったことを訊かれ、自分でもどうしようもないほど動揺しまくった。視線はあっち行ったりこっち行ったり、声がひっくり返ったりしている。相当情けない。きっとこの人も呆れているだろう。この後のセリフは適当にあしらわれて『なにこの子、気持ち悪い』とか言われるのがオチだ。
「うん。カバンに犬のキーホルダー付いてるから」
「ほえ?」
俺はまたもや情けない声を漏らしながら、彼女が指差す方を見る。
そこには白い犬のキーホルダー。そう、俺は大の犬好きである。先日立ち寄った雑貨屋で、実家で飼っているプードルのワタアメと似たキーホルダーを見つけたからひとめぼれして買ったもの。見た目はちょっとブサイクだけど俺はこのキーホルダーを結構気に入っている。
そのキーホルダーを指差して、彼女はにこにこと女神様のような笑顔を見せてくれた。そのあまりにも整った顔を、俺は全く直視できなくて俯いた。高熱があるんじゃないかというくらいからだ中が火照りまくっていて、それをこの人に悟られるんじゃないかと思うと俺は咄嗟に両手で顔を隠した。
「君、この辺の子?」
「ふぁい」
あまりの恥ずかしさについに日本語すらまともに喋れなくなってしまった。18歳にもなって何をやっているんだ、俺よ。
「そっか。私、ちょっと前にここに引っ越してきたんだよね。近所に犬好きさんがいてくれて嬉しいな」
再び俺に向けられる笑顔。ぶわあぁっと音を立てて彼女の周りに花が咲く。ああもう本当にやばい。心臓がばくばくして痛い。
「もし良かったら、今度君のわんちゃん連れておいで。みんなで遊ぼう」
まさかこれは、また会いに来てもいいって言ってくれているのか。
「私は、響花。美里 響花だよ。君は?」
「え、ええ、越前……、越前 光稀、です……」
響花さん。やばい、すごくいい名前。それに比べて俺なんて光稀なんて女の子みたいな名前で、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「今度はちゃんとおめかししてお出迎えするから。またね、光稀くん」
俺に手を振りながらクリームと家の中へ入っていく響花さん。
え、待ってくれ。次はちゃんとおめかししてってことは、今日はメイクとかしてなかったってことなのか。やばい、それであの破壊力は本当にやばい。
しかも名前、俺の名前を呼んでくれた。響花さんのあの声音で発音される俺の名前は、とても響きが良くて、気持ちが良く聴こえた。いつもはちょっと恥ずかしいと思っていた自分の名前も、響花さんはあっという間に素敵な呼び名へと変えてしまった。
俺は半端じゃない嬉しさによって、頭のてっぺんから蒸気を上げながら、またもや情けない声で返事をすると、響花さんの前を後にした。
・・・
翌日、俺はいつも通り学校へ登校した。
俺の通う高校へと続く通学路は、四季折々の景色が楽しめるように規則正しく木が植えられており、そろそろ満開の桜でピンク色の世界を作り出してくれる頃だ。
普通科高校生活3年目を迎えた俺は、進路を決めるための大事な一年間をこの環境で過ごすことになる。大学に進む友達が多い中、俺は家庭環境のこともあり、どこかに就職しようと考えていた。
と、まぁそんなことを考えているのは、自分の気を何とか紛らわそうとしているためだ。昨日あれから道中、帰宅後、食事中、寝る時、ずっと響花さんの呼んでくれた『光稀くん』が頭から離れなかった。正直、全くと言っていいほど寝ていない。目の下にクマを作り、机に方頬をつけ、開きっぱなしの口からはよだれが溢れ、机の上にはちょっとした池ができている。
「おは〜……って、おい光稀。まじお前やべぇよその顔」
「うるせぇよ、侑。まじ眠いんだって」
いちごミルクをちゅうっと飲みながら俺の隣の席に座ったこいつは、中城 侑。
小学校からずっと一緒の俺の幼馴染。俺にないものをたくさん持っているすごいやつ。勉強もできるし、スポーツも万能。身長だっておれより15センチ以上も高い。小学校の時は俺の方が高かったのに、何ともあっさり抜かれてしまった。おかげで女の子からもモテまくりのいわばリア充。何とも悔しいが、これが現実というやつだ。
「おはようふたりとも。げげ、その顔どうしたの? やばいよ、まじブスだよ」
「おいトーコ、ブス言うな」
朝からテンションの高いこいつは、中学校からずっと同じ学校の沢渡 透子。
トーコは3人の中で際立って背が小さい。男子に囲まれているからとかそういうレベルではなく、学校の中でも断トツでチビ。人混みの中では頭のてっぺんすら見えないので一度逸れると捜索がとても大変だ。
あと制服のスカートがいつも短い。ハッキリ言って目のやり場に若干困るが、ずっとこんな感じで俺らと一緒にいるので友達以上の感情は持ち合わせていない。だけど本っ当にいい友達だと思っている。
そんなふたりと常に行動を共にしている俺。
自分でも認めているが、俺は特に何か取り柄があるわけでも、特別何か優れたことがあるわけでもない。至ってどこにでもいる普通の高校生だ。成績だって真ん中くらい。スポーツは可もなく不可もないので部活には入っておらず、週末はバイトをしている。
「ねぇねぇ、おブスになったみっくん。君はどーしてそんなにおブスになっちゃったの?」
「こらトーコ。ブスブス言うな」
よだれまみれの机に肘をつき顎を乗せて、俺にブスになった理由を尋ねてくるトーコ。トーコは俺のことを〝みっくん〟と呼び、侑のことは〝あっくん〟と呼ぶ。
「あっくん、今日みっくんといつものカフェ行こうよ。どう? 時間ある?」
「俺は大丈夫だけど、光稀はどうする?」
「うぅ。眠いけど、ちょっとだけ行こうかな」
「だってよ、透子」
侑の飲むいちごミルクのパックからカスカスの音が聞こえる。どうやら飲み終えたようだ。こいつは割とクールぶっているクセに、毎日女の子が好みそうな同じものいちごミルクばっかり飲んでいる。
こいつらと一緒に学生生活を送れるのはこの1年で最後。ふたりとも、大学進学を希望している。もちろんやりたいことは違うから行きたい大学だってバラバラだ。俺は就職の道が強いから尚更。
こんな高校生活の最後くらい友達もいいけど、彼女とか作って『光稀、あたし寂しい(うるうる)』『そうか。じゃあ俺の勤務地の近くで一緒に暮らさないか?(キュピーン)』なんてかっちょいいセリフを一度くらい吐いてみたいと思うのが男のロマンではないだろうか。ああ、その彼女が響花さんだったらどれだけ充実した毎日を送れることか。
「わわ! みっくん、よだれだけじゃなくて鼻血も出てる!」
「お前いよいよやばいぞ。大丈夫か?」
窓から見えるこの相模原市の景色はなかなかいいものだ。少し高台にあるこの高校は、通学は大変だけど、それを耐えてやってくればここは絶景スポットと化す。
街のあちこちがピンク色に染まっている。とても綺麗だ。来月には町内会のイベントで相模まつりをやるらしくて、母さんは参加すると張り切っていた。
そんな俺が生まれ育ったその街にやってきてくれた響花さん。あんな衝撃的な出会いは初めてだ。クラスの女子が『ビビビッてきた!』なんて言っているのを聞いたことがあるが、まさにそんな感じ。思考が完全に止まって、なんかこう雷が走るっていうか。ああ、あんなに呆けた顔を響花さんの俺に対する第一印象にしてしまったのかと思うと、俺は人生をやり直したいと思うくらいに後悔している。ああ、本当にかっこ悪い。アニメとかでよくある超能力的なやつが使えるようになって時を戻したい。
それにしても響花さん、本当に綺麗だった。いったい何をしている人なんだろう。仕事とかしているのかな。何歳なのかな。女の人に年齢を訊くのはタブーだと母さんが言っていたけど、知りたい。響花さんのこと、いろいろ知りたい。教えて欲しい。今度、本当にワタアメ連れて行ってみようかな。
下校時刻のチャイムが鳴る。新学期が始まったばかりのため、部活動はしばらく休みの期間となる。本来であれば侑もトーコも部活をしているが、休みなのでカフェに行こうとトーコが誘ってきたのだ。
「みっくん、あっくん。終わったよー、行こう!」
真っ先にトーコがカバンを持って俺のところへやってきた。トーコだけ席が離れているので、いつも小さい体でクラスメイトをすり抜けて俺たちのところまでやってくる。
「だってよ。侑、行こうぜ」
「おう、行くか」
俺はトートバックをリュックのように背負う。かばんについたワタアメ似のキーホルダーがかばんにあたった拍子に音が鳴ると、俺はまたしても響花さんのことを思い出して、顔が熱くなる感覚に襲われた。「光稀?」と侑に呼ばれる声も、俺には微かにしか聞こえないほどに頭の中は響花さんでいっぱいだ。これは、重症かもしれない。たった一度しか会っていない響花さんのことがこんなに頭から離れないなんて。俺、この先大丈夫かな。