アルムフーサ・Ⅵ
すみません、少し改稿しています。
恒例の聖女様のお菓子を買いに、私は王宮の裏門へと向かっていた。
それにしてもオーウェン、アルムフーサの王に対してかなり本気で怒りを堪えてたなぁ。……それはそうだろう。目に入れても痛くないほど大事にしている聖女様を一晩の遊び相手に呼びつけようだなんて。今ごろがっつり抗議しに行ってるんだろうな。……これ、ライルも内心相当怒ってるんだろうな。かなり不快そうだったし。
あとでブリジットさんに様子を確かめておこうと思いながら門の外に出ようとして、一人の少女にぽんぽんと肩を叩かれた。
「ソフィじゃないか! こんなところでどうしたんだい?」
驚いた。
目の前にいるのは鮮やかな布地の長衣を着た、一人の華奢な赤毛の少女。……あの宴会で私を助けてくれた、アイーシャだった。妖艶な踊り子衣装を着ていなかったから、一瞬誰だかわからなかった。
「あのキラキラの魔術師ローブを着てなかったから、一瞬誰だかわかんなかったよ」
私が思っていたことと似たようなことを言って、アイーシャはにこりと笑いかけてきた。
「そんな格好で一人でどこに行くんだい?」
「あ、えっと、聖女様のためのお菓子を揃えに」
「そんなの陛下に言えば、いくらでも用意してくれるだろうに」
「いえ、聖女様ってその国の家庭的な食事や菓子なんかもいつも楽しまれていらっしゃるんです」
「へぇ、聖女様は庶民的な味も嗜まれるのかい! そりゃ嬉しいねぇ」
アイーシャは目を細めて優しげに笑ったあと、私の腕を遠慮なく引っ張った。
「だったら聖女様のためにもとっておきのお店を案内してあげるよ! カイロスもいるけどいいだろ? さ、おいで!」
「えっ!?」
それってもしかして、今からデートだったんじゃ。
思わず腰が引けて立ち止まる。そんなのお邪魔できるはずもない。慎んで辞退の意を示すために、降参するように両手を挙げてみせた。
「いやいや、お邪魔できませんよ!」
「なんでさ!」
眉を八の字に下げたアイーシャに、なぜか私のほうが怒られる。
「だって、せっかくのデートをこんな用事で潰すなんて……」
「そんなこと気にしなくていいよ! カイロスとのデートなんてまたいつでもできるんだからさ。ソフィにラハンの街を案内できるのも、聖女様のお菓子を選びの手伝いをするのも、下手したら今回だけだろ? それにソフィだって知ってるだろ? カイロスはこんなことでグチグチ言うような小さい男じゃない。なんてったってあたしが選んだ男だからね! カイロスは!」
そう捲し立てるアイーシャにグイグイと押し切られて、待ち合わせ場所で目を丸くして待っていたカイロスのところまで引きずって連れて行かれる。
「ソフィじゃねぇか。そんな格好でどうした?」
アイーシャが親切にもさっきの説明をカイロスにしてくれると、彼は嫌がるどころか豪快に笑い出した。
「そりゃそうだな! そんな小せぇ男なら今ごろアイーシャには捨てられちまってるところさ!」
「な? 言った通りだろ? わかったのならほら! さっさと行くよ!」
アイーシャにキュートなウインク付きでそう言われて、私はとうとう降参して抵抗する力を緩めた。
「それにしてもローブを脱ぐと随分と印象が変わるよな、ソフィって」
たくさんの人でごった返す市場の狭い通りをすり抜けるようにして歩きながら、唐突にカイロスがそんなことを言ってきた。
「あの皺一つない純白のローブを被っていると、ソフィって隙一つないお堅ーい感じなのに、たった一枚脱いじまうだけでただのどこにでもいそうな女の子になるんだもんなぁ」
「カイロス……あのね、女の子にはね、どんな姿を見せていたって必ず女の子に戻る瞬間があるんだよ!」
カイロスの何気ない呟きに、諭すように持論を返すアイーシャ。二人を見ているとまるで夫婦漫才のようだという言葉を、口に出してしまう前に慌てて頭の中でもみ消す。
「アイーシャこそ、踊りを踊っているときはとっても色っぽいのに、実際はこんなに可愛らしい方だとは」
「そうだろそうだろ? ソフィはなかなか見る目があるね!」
アーモンド型の目をパチリと瞑って再びウインクをくれたアイーシャの向こう側で、カイロスがアイーシャの踊りがどれだけ色っぽくてかわいいのか、滔々と語り始めている。
そんなカイロスを尻目にアイーシャに手を引かれて、私は次々と二人おすすめの菓子を買い漁っていった。そしてそれは両手が塞がってこれ以上は要らないとわかってもらえるまで、際限なく繰り返された。やっとアイーシャの小ぶりの口から休憩の二文字が出てきたときには、ホッと息が漏れたほどだ。
「ソフィはここで休んでな。今度はあたしたちがソフィになにか買ってきてあげるよ」
アイーシャはそう言うと、建物の影になったところで待つように言って、カイロスと二人、飲みものを買いに行ってしまった。
ありがとうと背中にかけた声が届いていたかもわからないほど、足早に人混みに紛れ込むその姿に自然と苦笑が浮かぶ。
待っている間に荷物の整理でもしようかとしゃがみこんだ、その途端。
「わっ!」
後ろから戯けたように声をかけて肩を掴んできた誰かに、肩を跳ねさせる。振り向いた先には、いつものように無邪気な笑顔のリンリールさん。驚くほどその気配はなかった。
今日はいつも被っているマントのフードを下ろしている。まるで光を放っているかのように艶めく、緩くうねった白髪。相変わらずそのアメジスト色の瞳は吸い込まれそうに澄んでいて、聖女様にも似た繊細な美貌は健在だった。
「リンリールさん……」
リンリールさんと会うのは、あのミュルクウィスの深い森以来だ。強張った顔で数歩距離をとった私に、リンリールさんは少し気まずげに笑った。
「ソフィ、この間はごめん!」
そして意外なことに、リンリールさんはそう言って両手を合わせると、先に頭を下げてきた。
「こないだはさ、僕も時間なくて、それで厳しい言い方になっちゃってごめんね。ソフィは聖女様の護衛なのに……ソフィの気持ちも考えずに聖女様の悪口を言ったみたいな形になっちゃって……」
正直、そのことについてはまだ、きちんと考える時間をとれてなかった。
すべてが嘘だとまでは思わないが、いくら元は母と親密な関係にあったとしても、私にとって彼は他人だ。その他人の言うことを鵜呑みにはできない。
そんな私に気づいているのかいないのか、リンリールさんは残念そうに眉尻を下げている。
「……でも聖女様が本当はなにをしようとしているのか、君はきちんと知っておいたほうがいいと思うのまでは撤回しないよ」
柔らかな優しい囁きは、聖女様を彷彿とさせる。
「僕はもう一度エルオーラ手記を読み返したいって思ってるんだ。できれば君と一緒に。もしかしたらそこになにか真実が隠されてるのかもしれないと思ってて……あ、でも聖女様のそばを長い時間離れるのは、今のソフィには厳しいかな……」
そう話しながらリンリールさんは困ったように首筋に手を当てた。その仕草をされて初めて、そこに火傷の痕があることに気がついた。ほぼ首筋のすべてを覆うほど、その火傷の痕は広範囲に入っていた。
「ん? どうしたの?」
私の視線を目敏く感じたリンリールさんは、わずかに声を強張らせた。
「いえ……」
「あれ、もしかして君、これが見えるの?」
言い方にどこか違和感を感じたが、その触れられたくなさそうな様子からあまり追求できなかった。
「すみません、つい目に入ってしまって」
「あ、そうなんだ……いや、うん、ちょっとね、昔、火事に遭っちゃって」
「随分と大きな痕ですね」
いつもの人好きのするような笑顔を浮かべているリンリールさんが、珍しく表情まで強張らせる。
「まあね。それよりソフィったら、いつになったらあのイヤーカフをつけてくれるのかな?」
あまり触れてほしくないことなのだろう。リンリールさんはやや強引とも言えるぐらいに話題を変えると、透き通ったその瞳でじっと見つめてきた。
「せっかくだから、ソフィがつけているところを見たいんだけどな」
「あー……あれですか」
リンリールさんは私の目をじっと見つめたまま、ふわりと優しく微笑んでその手を伸ばそうとした。
「ソフィのこのかわいい耳を僕が選んだアクセサリーが飾り立てる……なんだか想像するだけで嬉しくなっちゃうな。早く見たいよ。ねぇソフィ、今度こそ絶対につけてきてよ……」
リンリールさんの手が首筋に伸ばされたとき。
――燃え盛る炎の渦。誰かの泣き声。狂ったように響く怒声、怨嗟の羅列。段々と弱くなっていく、私を呼ぶ声。
それから首元に躊躇いもなく伸ばされてきた、真っ赤に染まる、大きな大きな骨ばった白い両手。
「……ソフィ?」
はっと焦点が戻ってくる。無意識に頭を抱え込んでいた。
「どうかした?」
「いえ、なんでも」
慌てて頭を振って誤魔化す。幸いにもそれ以上追求されることはなかった。
「っと、いけない。もうすぐソフィのお友だちが戻ってくるね。じゃあまた」
リンリールさんは最後に淡く微笑むと、ひらりと手を振って立ち去ってしまった。
「ソフィ、待たせて悪かったね! 思ったより屋台が混んでたよ」
「喉乾いてねぇか? ほらよ」
いつの間にか食べ物を抱えたアイーシャとカイロスが戻ってきていた。
「ぼーっとして大丈夫かい? エスパルディアの人は暑さに弱いっていうけど、ちょっとまいっちまったかな。さ、あっちで少し休憩しようか」
「あんまりしんどいなら俺がおぶってやろうか?」
カイロスの提案にお礼を言いつつも、断固として断りを入れ、ずきずきと痛む頭に無意識に手をやる。
今のはなんだったのだろう――うねり狂う炎、誰かの呻き声、白くて大きな、男性の手。
それだけが、それだけの光景が、囚われたように頭から離れない。
隣からはアイーシャが水分を摂るようにと搾りたてのジュースを押し付けるように渡してくる。それをありがたくいただきながら、とりあえずこのことはあとでゆっくりと考えようと頭を振った。




