アルムフーサ・Ⅴ
ここまでお読みいただいて、ありがとうございます。
ブックマーク、評価、感想、誤字報告、いつもありがとうございます。嬉しいです!
その日の夜、陛下との晩餐も無事に終わり、さあ部屋に戻って休もうかというとき。
「待て、ソフィ」
陛下に名前を呼ばれて、立ち止まる。
「これを」
おもむろに手を取られて、甲にキスをされた。あまりに自然な動作で抵抗する間もなかった。聖女様は驚いたように口を軽く覆い、オーウェンもライルもあからさまに不快感を顔に出して抗議の声を上げようとしている。
「部屋に戻ってから読め。あいつらのいる前では開けるなよ」
殿下は身を寄せてきてこっそりと耳元で囁くと、悪戯っぽく微笑んできた。甲へのキスでカモフラージュされた手の中には、なにやら小さく畳まれたメモ紙が握らされている。ライルが足早に引き返してきて、呆気に取られている私を隠すように前に出た。
「お言葉ですが陛下、」
言葉は丁寧だが、慇懃無礼な態度を隠そうともしていない。
「女性に対していささか馴れ馴れしすぎるのでは?」
簡潔な言葉は想像以上に冷たくて寒々しかったけど、陛下は鼻で笑っただけだった。
「そうかな? この国ではこれが普通だ。まぁ文化の違いだな」
そうだろうな、陛下ならそう言うだろうって思ってた。なおも言い募ろうとしたライルの服の裾を引っ張って帰ろうと促す。聖女様を待たせてるし、ここでごちゃごちゃ揉めてしまって、せっかく和やかな空気で終わった晩餐を台無しにしたくない。
「ソフィ」
「ライル、ありがとう。でも陛下にとってはあんなのただの挨拶なんだよ……きっと誰にでもやってる、だから気にするようなことじゃない。もう行こう」
「ソフィ……私にまで聞こえているんだが。それと少し訂正させてもらうと、誰にでもしているわけではない。気に入った女子にだけだ」
その言葉は、逆にライルの癪に障ったようだった。
「そうですか。ですが、そういうことはされて喜ぶ女性に対してだけされるほうがスマートですね。残念ながらソフィは……」
「では陛下、いい夜を! ごめんライル、言い分はあとで私が聞くから……」
ライルはあまり納得した様子はなかったけど、私はその背中を押して退室を促した。二人をこれ以上同じ空間に存在させたらいけない。これ以上の心労はもういらない。
部屋に戻って陛下に渡された言伝に目を通す。その内容に思わず眉を顰める。だけど同時にこの国の王がやりそうなことだとも納得した。道理でオーウェンの耳に入らないような、こんな回りくどい伝え方をしてくるわけだ。
「あの、ブリジットさん」
「どうした、ソフィ」
聖女様を休ませに寝室に行っていたブリジットさんが戻ってきたので、その言伝の内容を伝えると、妙な顔をされた。
「アルムフーサの王がルナを呼んでいる?」
「はい。その……とっておきの美酒があるから一緒に呑まないか、と。あくまでプライベートな誘いだそうで。それに、私たち護衛も一緒にとは書かれてはいますけど……」
昼間の王の態度を思い出して、思わず顰め面になる。そんな私にブリジットさんはしばらく顎に手を当て考え込んでいた。
「この話はまだルナは知らないな?」
「ええ」
「ならば、私が代わりに行ってこよう」
いい考えだとばかりに明るい顔になったブリジットさんを慌てて引き止める。
「でも! あの……陛下はおそらく、その……」
一人で妙にあわあわしている私に、ブリジットさんは思わずといったように笑い出す。
「大丈夫だよ、ソフィ。陛下の目的ぐらい私だってわかっている」
からからと笑っているブリジットさんに、まごつく様子はない。
「だったら、なおさらブリジットさんを一人で行かせるわけには」
「いやなに、私に少し考えがあるんだ」
ブリジットさんは勿体つけてさっと髪を掻き上げると、いたずらっぽくウインクしてきた。
「これでも男だらけの騎士団で随分と鍛えられてきたからな。心配してくれてありがとう。だが私なら大丈夫だ。ソフィ、申し訳ないが今夜はルナのそばについていてくれないか」
「それは構いませんが……」
「安心してくれ、すぐに戻るよ」
ひらりと手を振ってブリジットさんが颯爽と扉を開けようとする。その後ろを慌てて追いかけた。
「とっ……取り敢えず、オーウェンにも相談しましょう!」
扉が開いた先では、目を丸くしたオーウェンが立っていた。
「あれ、次ってブリジットが休憩?」
「いやなに、ちょっとした野暮用ができてな」
「ブリジットさん、ちょっと……!」
やけに乗り気なブリジットさんを慌てて宥めて、オーウェンに簡単に事情を説明する。始めは訝しげだったオーウェンも、次第に胡散臭そうな半眼になった。
「ブリジット? それってまさか、単にお酒が呑みたいだけとかじゃないよねぇ?」
「まさか! 違う違う! 私はただ陛下の機嫌を損ねないようにお断りを入れに行こうとしているだけだ」
「本当に? ……それならいいけどさ」
「安心してくれ。すべてうまく丸く収めてくるから」
「くれぐれも無茶しないでよ?」
「ああ、わかっている」
今度こそ颯爽と去っていくその後ろ姿を心配そうに見守っていたオーウェンは、深いため息をついた。
「あーあ……こんなこともあるかもしれないと思って、今夜の警備はわざわざ僕が代わったのに」
「あの、私ブリジットさんを呼び戻してきます。私が受け取ったんだし、やっぱり私が陛下の元に伺って断ってこないと」
「ダメ! それだけは絶対に止めて!」
その途端すごい剣幕で怒られて、思わず首を竦める。
「ブリジットなら大丈夫だから! 彼女はああ見えてけっこう機転がきくし、伊達に騎士団の中で研鑽を積んできたわけじゃないからね。それにむしろ、行きたくてたまらないみたいだったしさ。あれはもう頭の中はお酒のことでいっぱいなんだろう。明日の朝に陛下からなんて言われるか、そっちのほうが僕は心配だよ……ま、なんにせよ明日ブリジットから詳しい話を聞いてから、正式な抗議は僕がしに行くからさ。ほら、ソフィはもう聖女様の元に戻って。ブリジットがいないんなら、なおさら護衛のほうをよろしく頼むよ」
オーウェンに促されて、とぼとぼと聖女様の寝室へと戻る。
灯りを落とした寝室では、聖女様は既にベッドに入って休まれていた。待機のために隅のソファへと座り込みながら、思わずため息をつく。
静かに寝息を立てる聖女様を見守りながら待つこと数時間、やっとブリジットさんが帰ってきた。
「ブリジットさん!」
「やあ、ソフィ!」
寝室を出て迎えたブリジットさんはいやに上機嫌で、そして……お酒臭かった。
「いやぁ、見たこともない上等な酒ばかりでな。存分に楽しませてもらったよ」
「お酒、だけですか」
「ああ、言葉通りのとっておきの美酒だった」
たしかに誘い文句はそうだったが、陛下の目的は。
「……えーっと、その……ほかに嫌なこととかされませんでしたか……?」
「大丈夫だ。その前に陛下は酔い潰れてしまわれたから」
さらりと言われた言葉に閉口した。
「あの、ブリジットさんって」
「ああ、残念ながら私よりも呑める奴がなかなかいなくてな。いたら結婚を申し込もうと思ってはいるんだが、今のところセヴラン以外にいない」
「セヴランさんも!?」
「あいつはなかなかに手強いぞ?」
きゃらきゃらと笑うブリジットさんは、たしかに少し酔っているようだった。
「セヴランが酒を飲んで顔色を変えたことなど、一度もない。その酒豪っぷりに敬服して一度結婚を申し込んだんだが、あのときはすげなく追い返されてしまってだな。うん、そういえばそれきり何度尋ねてもうやむやにされたままだが、あの返事はいつ返してくれるんだろう。おーいセヴラン、私はいつまで待てばいいんだぁー?」
「ブ、ブリジットさん……今日は取り敢えずもう寝ましょうか」
楽しそうなブリジットさんを護衛の控え室へと促すと、彼女はご機嫌に鼻歌を歌いながら行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながらほっと肩を下ろす。酔っ払ったブリジットさんの意外な顔に心底驚いたが、でもこうして体を張って乗り越えてくれたんだ、心から感謝したい。私だったらきっと、ブリジットさんみたいにうまくあしらうことはできなかった。
明日改めてブリジットさんにお礼をしよう。なんとかこの夜を乗り越えられたことに胸を撫で下ろしながら、聖女様が眠る寝室へと戻った。
翌日、起きてきたブリジットさんに改めてお礼を言ったが、彼女はピンとこないのかきょとんとしていた。
朝の護衛の定例会議では、ブリジットさんはさらりとこの件の報告をしていた。
聖女様は自分の知らぬ間にそんなことがあったのかと申し訳なさそうな顔になり、男性陣はそれぞれ三者三様のリアクションを見せた。オーウェンは呆れたようにため息をついて、ライルは陛下への不快感を示すように思いっきり眉を顰めて。そしていつだって蚊帳の外から眺めているような、無関心なセヴランさんはというと。
彼は珍しくサッと顔を青褪めさせて、心なしかブリジットさんと目を合わせないように距離を置こうとしていた。
「ソフィ、ちょっといいか」
「えっ……なんですか?」
一日の流れの確認と護衛の配置についての最終確認が終わったあと解散となって、私は顔色の悪いセヴランさんに無理やり壁際に連れ去られた。
「なぁソフィ、昨日のブリジットなんだがよ」
珍しくいつもの飄々とした態度は消え失せて、むしろ護衛のときよりもよほど鋭い警戒した視線をブリジットさんのほうに送っている。
「なんだか妙なことを口走ってはいなかったか? たとえば、その――結婚がどう、とか」
「あー……」
もしかして、昨日のあの自分よりお酒が強い人と結婚したいっていう話のことか。
「やっぱりいまだにブリジットはそんなことを口走ってるんだな?」
セヴランさんはますます小声になり、そのせいで聞き取りにくくなった声を聞き取るために、私は身を寄せなければならなかった。
「あの、それってセヴランさんが結婚の約束をしたくせに、いつまでもあやふやにしたまま逃げ回っているっていうアレのことですよね」
「あのな、事実を歪曲するのはやめてくれ!」
その途端、セヴランさんから叱責された。
「俺は呑み勝負に勝ったら結婚するなんて一言も言ってない。それにそもそも酔っ払いの戯言だろ? 真面目に取り合うほうがバカバカしいって!」
「……そうですか」
半ば引いている私に気づくと、セヴランさんはさらにローブを引っ張ってきて、引き寄せられた。
「ただ、な! ソフィみたいに真面目に受け取って聞き流せないような奴にまで吹聴されるのに俺は困ってるんだよ! 酔いが醒めたら当の本人はすっかり忘れてるってのに、周りばっかりが覚えているもんだから、それで俺が今までどれだけとばっちりを受けてきたことか! ソフィにわかるか!?」
危うく吹き出しそうになったが、セヴランさんがあまりにも真剣な顔をしていたので、なんとか堪えた。
「ご愁傷様でした」
ほかに言うべき言葉も見つからずにそう締めくくると、セヴランさんは立ち去ろうとした私の裾を慌てて掴んで引き止めてきた。
「おいおいソフィ、護衛仲間に随分と冷たいんじゃないか? おまえさん、魔術師なんだろ? 今度ブリジットが酔っ払ったら俺が酒に強い記憶だけ封印する魔術でもかけといてくれよ」
「なんですか、それ。そんな都合のいい魔術なんて存在しませんよ。それにセヴランさん、自分のことは自分で始末をつけるのがモットーなんでしょう? いつもみたいになるようになるさって様子見とけばいいじゃないですか」
「ぐっ……ソフィ、随分と俺に冷たくなったな……」
「おかげさまで! この旅の中でですね、受け流すということはどういうことか、セヴランさんの姿から嫌というほど学ばせていただきましたから」
用事があるのでと、セヴランさんに手を離すように促すと、彼は密かに歯ぎしりしながらもようやく手を離してくれた。
部屋にはもう、こちらをじとりと見つめて早く業務へ戻れと無言の圧をかけてくるオーウェンぐらいしか残っていない。
「それでは、私もルナのお菓子を買いに行ってきますね」
オーウェンのお説教は、セヴランさん一人へと任せることにする。私は声をかけられる前に背を向けて、そそくさと部屋を立ち去った。




