アルムフーサ・Ⅳ
陛下は慣れた手付きでその踊り子を追い払おうとしたが、踊り子は艶めかしい動きで陛下の手をさっと避けた。彼女はそのまま優雅に舞いながら風の魔術を器用に操って、香の壺に入っていた芳香用の花びらを私たちの周りに散らし始めた。
「ラーニャ、止めろ。興が削がれる」
窘めるような王の言葉にも、その踊り子が動じた様子はない。さらに纏わりつくように体の周りを花びらが渦巻き出して、これはなんなのかと困惑していたところ。
渦巻きがふわりと解かれるとともに、もう一人の踊り子が私の手を引っ張って無理やりに立たせてきた。
突然の出来事に思考が止まる。固まったままの私を、その踊り子はなおも引っ張った。
「逃げるよ」
囁かれた言葉に、思考が動き出す。
踊り子は手を伸ばして、遠くの香の壺からも匂い立つ瑞々しい花弁をさらに風に舞わせて集め始めた。それを私も見よう見真似で、同じように風の魔術を操って寄せ集める。
エスパルディアの魔術師がなにかしているぞと、皆の視線が集まっているのがわかる。人々の目を集め始めたことに頬がカッと熱を持った。
「準備はいいかい?」
名前も知らない踊り子と目で頷きあって、集めた花弁を一斉に風に乗せて舞い散らせる。豪華絢爛に艶やかな花弁が吹きすさぶその中をかい潜って、私は踊り子に手を引かれて会場の片隅へと逃げ出した。
「あの、ありがとうございました」
踊り子はくるりと振り向いてくると、口元を覆っている淡桃の紗の向こうからニッと笑いかけてきた。
「いいってことよ。あたしはアイーシャ。あんたソフィだろ」
驚いた。彼女がカイロスが自慢していた、踊り子のアイーシャだった。
「迷惑をかけたね。うちの王様、人はいいんだけど女癖だけは昔っから悪くてさ。あれでも去る者追わずで断ったって責められはしないから、嫌ならすげなく返しときゃいいよ。気にしなさんなね」
呆気にとられて頷くと、アイーシャはまたカラカラと笑った。
「それじゃあたしは先に戻るよ」
アイーシャが立ち去ろうとして、ふと振り向く。
「あぁ、それともう一つ、さっきのラーニャって踊り子にはちょっと気をつけといたほうがいいかもね」
その言葉に、こくりと唾を呑む。その名前には聞き覚えがあった。
「あんたたちにどうこうするほどあいつもバカじゃないとは思うけど。あいつ、自分が一番じゃないと許せない性質なんだ。今は陛下の目があんたたちにばっかり向いてるからさ」
「……そうなんですね」
「もしもなにかあったら、あたしでもカイロスでもいいから遠慮なく言いなよ! んじゃまたね」
アイーシャは最後にニッと笑うと、素早い身のこなしで広間の真ん中へと戻っていった。
あっちに戻るのは……ちょっと止めとこう。しばらくここで全体を見渡しながら警戒していよう。そう思って壁に凭れ掛かりながら一息つく。
アイーシャの言っていたラーニャという踊り子は一際目立つ女性だった。抜群のプロポーション、眩いくらいに輝く明るい赤毛、そして勝ち気に吊り上がった大きな目。自然と吸い寄せられるような、そんな魅力を持った彼女。
たしかあの物語の中ではアルムフーサの王があっという間に聖女様に夢中になってしまったものだから、ラーニャはそれが気に食わなかったんだ。どうにか聖女様を牽制したくて、でも公に嫌がらせするわけにもいかない。だから魔術を使ってこっそりと悪戯を仕掛けるんだけど、ソフィア・ランドルフは当たり前にその事実に気づいていた。
ただ、彼女は聖女様の護衛にも関わらず、それに対して見て見ぬ振りをしてしまったんだ。そしてそんなソフィア・ランドルフのせいで聖女様は危険な目に遭ってしまうけど、それを危機一髪でライオネル・アディンソンが救って、そのことで聖女様にすごく感謝されたライオネル・アディンソンは――。
しばらく見るともなしに、この国でのキーパーソンであるラーニャを眺めていた。彼女は妖艶な踊りを舞いながら、舞の動きに合わせてアルムフーサの王の周りにふわりと花弁を散らしている。
アルムフーサの王はというと、そんなラーニャのことなんか気にもせずに、よりにもよって今度はブリジットさんを呼び寄せて和気あいあいと談笑している。
本当に懲りないほどに女好きなんだな。その姿に半ば呆れながらも、ラーニャはなにかするつもりなのかな。頭の片隅で警戒心が油断するなと囁いている。
陛下は散らされてはふわりと浮かぶ花弁を眺めながら、どうやら熱心にブリジットさんを口説いているようだった。笑顔のブリジットさんがどう答えているかはわからない。
いざというときのために素早く構築文を組み立てて掌に隠しておく。私の気のせいならそれでいい。でももしも、ラーニャがまたちょっかいをかけるつもりなら。
薄い紗の長布を器用に操って、ラーニャたち踊り子は陛下たちのすぐ目の前で舞っている。その中でもラーニャはまた一歩踏み出してアルムフーサの王に近寄ると、ふわりと笑むように目を細めて――その手の中の構築文が変化した瞬間、私は先手を打つように、間一髪のところで自身の構築文を展開した。
陛下とブリジットさんの周りに舞っていた花弁の一つ一つが、燃え上がる前に小さな水の玉に包まれる。その演出に陛下とブリジットさんは感嘆の声を上げた。続いて水に包まれた花弁を、風の魔術を展開してそのまま二人の周りから回収する。
二人はふわふわと漂って退場していく水玉花弁を見送りながら、楽しそうに話している。そのそばをラーニャはしばらく舞い踊っていたが、やがて彼女はほかの踊り子たちの中へと紛れるように下がっていった。
一瞬、陛下のあの食い破るような、好奇心に満ちた目が私を捉えた。それに軽く頭を下げて、いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭い取る。
間一髪だったかも。ラーニャがあの花弁を燃やす前になんとか強引にすべてを水没させることができてよかった。一部間に合わなくて焦げ付いているものもあったけど、幸いにもブリジットさんがそれに気付いた様子はない。
ただの演出だったと言われれば、それまでだった。それに陛下やライルがそばにいる限り、たとえその周りで花弁が燃やされたとしてもブリジットさんに危害が及ぶことはなかった。二人がそんなことを絶対に許すはずがない。それくらいは私だってわかっている。それでも、やっぱり見過ごすことなんてできなかった。
――あの日、出立前のエスパルディア城で、私の蒼い火の花を目にした貴族の令嬢たちの青褪めた顔が脳裏を過ぎる。
魔術に対抗する術を持たない人を魔術で脅かすことは、卑怯なことだと諭されたから。
踊り子の波に紛れながら、徐々にラーニャがこっちに近づいてくる。
目の前まで来たラーニャは同性の私でも惚れ惚れするような艶めかしい動きで舞いながら、じつに妖艶な笑みを浮かべてみせた。薄紗の向こうから真っ赤なルージュが痛いくらいに目に刺さってくる。ラーニャは笑顔のまま、そのまますぐにすれ違うように離れていった。
こんな……まるで喧嘩を売るような真似をしてしまった。でもこれで少しはラーニャの目を聖女様やブリジットさんから逸らすくらいはできたはず。魔術師である私ならまだ対抗する術もある。
ああ、賑やかでフレンドリーな入国から一転、やはりというか案の定というか、なんともな展開になってきた。




