ミュルクウィス・Ⅷ
翌日から警戒していたシルヴィスからのコンタクトもなく、やや拍子抜けしながら滞在の最終日を迎える。
あれだけ言葉巧みに誘ってきたくせに、一度断ったらもうそれっきりとは。所詮私に対する執着心なんてその程度のものだったようだ。
安心したのかなんなのか、妙な気持ちを押し隠しながらミュルクウィスの翠の宮の門前に立つ。
見送りに出てきたシルヴィスとあの夜ぶりに顔を合わせると、彼は私に気づいてすぐに話しかけてこようとした。だが、すかさずオーウェンが私の前に立って、さり気なくシルヴィスの行く手を阻む。
「短い滞在でしたが、本当に良くしてくださってありがとうございました。異国の文化に触れることができて、有意義な時間を過ごせました」
対するマーリットさんは優雅に答えながらも、オーウェンとは目を合わせない。
シルヴィスはなにか言いたそうに終始私に視線を送ってきたが、最後までオーウェンが目の前から退くことはなかった。
「皆様、お気をつけて。この先の旅の安全を祈っていますわ」
「ありがとう。……それでは」
オーウェンは呆気ないほどにすぐに背を向け、私たちもそれに続く。
いつも通りまずは馬車の内部の確認をと、オーウェンに促されて一番に乗り込もうとしたとき。
「ソフィ!」
思わずといったようなシルヴィスの声が背中を追ってきた。
振り返った先で、シルヴィスが駆け寄ってきていた。
「シルヴィス……」
「乗って」
オーウェンは容赦なく、いつになく強い口調で私を促した。
「ソフィ、ルナと一緒に先に乗ってて」
なんだか有無を言わさない様子に少し竦みながらも、別に今さらシルヴィスと話したいこともない。頷きを返して素早く馬車に乗り込む。車内の様子を確認してから聖女様に合図を送ると、苦笑気味の聖女様とセヴランさんが乗り込んできた。
しばらく馬車が動く様子はなかった。外からはシルヴィスとオーウェンが話す声がわずかに聞こえてくる。それに時折、宥めるようなブリジットさんの声。
それらもやがて止むと、疲れた表情のライルが乗り込んできた。
間髪を容れずにすばやく出発する馬車。車内は奇妙な沈黙に包まれている。
「あのね……」
しんと静まった車内は、いつになく奇妙な沈黙に包まれている。
聖女様は苦笑いを浮かべ、ライルは深いため息をつき、セヴランさんはどうでもよさそうに窓の外へと視線を向けている。
「あのね、ソフィ。これ、オーウェンには内緒にしててほしいんだけど……」
そんな中、隣に座った聖女様がこっそりと耳打ちしてきた。
「あのミュルクウィスの魔術師さんね、実は滞在中にソフィとの婚約話を進めてくれないかってオーウェンのところに来たんだ。それで話を聞いてたんだけど、ちょっと……言い分に耐えかねたオーウェンが本気で怒っちゃったの。それで絶対にうちのソフィはあんたのところには嫁がせないって、結局追い払っちゃった。でもね、勝手なことをしたのがソフィにバレたらまた怒られるかもって、オーウェンがね。気づいたときにはあとの祭りだったんだけど……」
「そう思うのなら、断る前に一言ソフィに確認すればいいものを」
呆れたようなライルに、セヴランさんも遠い目をしている。
「いい大人なんだから、自分のことは自分で決めるだろうに。いつまで幼子扱いするんだか」
「だけどね、あの人の態度、ほんとに酷かったの。オーウェンが怒るのも無理ないかなって……だからなにも言わずに勝手なことをしちゃったオーウェンも悪いけど、でも今回は怒らないでくれると嬉しいな」
そんなこと、オーウェンは一言も言わなかった。私の知らないところで守ってくれたんだ。
改めてシルヴィスの言いなりにならなくてよかったと思う。オーウェンやライル、護衛仲間やブライドンで待ってくれているルイたちのように、私には大切にしてくれる家族や、守ってくれる仲間がいる。
私は私だと、そう断じてくれた友人がいる。
そのことを忘れないようにしなければ。
しばらく走ったあと、ふいに馬車が止まった。
「休憩にしようか」
扉を開けたオーウェンは、もう普通だった。
それを受けて、馬車から降りてそれぞれ思い思いに休憩の準備をする。
気づけばもう夕方で、太陽が傾き始めていた。ミュルクウィスの神殿は深い森の奥深くにあるので、今日は宿屋で一泊して、明朝早くに出発することになっている。
これまでも聖女様のために休憩はこまめにとっていた。だけどオーウェンがここで休憩を入れた理由はそれだけじゃないのだろう。
馬車から降りた先。少し開けた広場の先に鮮やかな夕陽に染められて、これまでとはまた違った光を放つリースグラスの群生地があった。
翠の宮の裏にあった人口的に作られた群生地とは違って、元々から茂っていた野生の地なのか、葉はこんもりと生い茂ってあちこち好き放題に伸びている。
それでも鮮烈な光に照らされて淡く点滅している様子は、はっと見惚れるくらいには美しかった。
「眺めておいで」
お茶の準備を変わろうとブリジットさんに声をかけると、優しくそう促された。
「ソフィも色々と大変だっただろう。少し気分転換してきたらいい」
いつも気遣って声をかけてくれる大人なブリジットさん。ありがたくお礼を言って、私は一人、少し離れたところまで歩く。
見える先ではオーウェンが聖女様となにやら二人、やっと打ち解けたように語り合っている。
きっとマーリットさんとのことや二人の気持ちなど、今までのわだかまりを解きほぐすように心を打ち明けあっているのだろう。なんとなく想像がついた。
「ソフィ」
しばらくなにを考えるでもなく、ぼーっと淡く光るリースグラスの群生地を眺めていた。
――いつの間にか、ライルが後ろに立っていた。
「用意ができたそうだ。戻ろう」
わざわざ私を呼びに来たみたいだ。それに頷いて戻ろうとして、その前にとライルを呼び止めた。
「ライル」
同じく背を向けて戻ろうとしていたライルが、訝しげに振り向いてくる。
夕陽に照らされたライルも、リースグラスの葉と同じく明るい橙に彩られている。
眩しげに伏せられた睫毛が頬に色濃く影を落とし、瞬きするたびに大仰に影が動いた。
「ライル、これ、あのときの。ありがとう」
私が懐から出したものをちらりと一瞥して、ライルは顔を背けた。
「……返さなくていい」
まさかそう言われるとは思ってもいなくて、ちょっと戸惑った。
あの夜会の日、ライルは私のドレスを留めるためにリースグラスの葉を加工して作ったローブブローチを貸してくれた。それきり彼に返しもせずに手元に持っていたのだが、ライルはそれを受け取ろうとはしなかった。
「でも」
「そのブローチは」
背いていた顔がこちらを向き、眩しげに照らされた瞳が私を捉える。
「そもそも君に渡す前提で作ったものだ。ほかの誰に渡すつもりもない」
まじまじとライルの顔を見つめる。呼吸をするのも忘れて眺めていたのが居心地悪かったのか、ライルは気まずそうにまた視線を逸らした。
「ソフィのことだけを考えて、ソフィのために作った。押し付けるつもりはないが、でも叶うのならば、それはソフィに持っていてほしい」
その言葉をどんな気持ちで言ったのか、ライルは俯いていて、表情はよく見えなかった。
辺りはしんと静まっている。急にバクバクと暴れ始めた心臓や、呼吸する音さえ相手に伝わってしまいそうだ。
「だったら」
一歩近づいて顔を覗き込もうとすると、避けられた。
「なおさらこれ、受け取ってほしい」
差し出した手に、ライルは首を振る。その手を掴んで押し付けるように手のひらにブローチを置くと、ライルが顔を顰めて深く息を吐いた。
「もういい、わかったから……」
ライルの言葉は途中で消えた。
手に押し付けられたローブブローチを、彼はまじまじと眺めていた。……今度は私が視線を逸らす番だった。
「これは……」
さっきと逆だ。今度はライルがまじまじと見つめくる。痛いほどに彼の視線を感じる。
それ以上はなんと言っていいのかわからなくて、黙り込む。それはライルも同じだったみたいで、私たちはお互いにお互いを意識して、なにも言えないでいた。
ライルは渡されたローブブローチを握り締め、束の間眺めていたが、やがて遠くからブリジットさんに呼ばれているのに気づくと、黙って私の手を取って歩き出した。いつもと同じ、私よりも少し低い体温は、この非現実的な出来事が現実だということを知らせてくる。
後ろから眺めたライルの耳は、薄っすらと赤く染まっている。なんとも言えない、気恥ずかしいような、夢みたいなぼうっとした心地。
結局、なんて声をかけていいのかお互いにわからないまま、奇妙にそわそわしたまま私たちは皆の元へと戻った。
翌日。
昨日からどことなくぎこちない私たち二人の様子を訝しんでいたオーウェンだったが、馬車の前に集合した私たちを見て、明らかに目を瞠った。
口を開こうとしたオーウェンの脇腹を小突いて、聖女様がにっこりと笑う。
ブリジットさんも微笑ましげに笑っている。唯一セヴランさんだけが気づいているのかいないのか、いつも通り、どうでもよさそうだ。
「み、みんな、揃った、かな……今日の御者はまず僕とライオネル君でいこうか」
オーウェンは心あらずでそう言うと、ふらふらと御者台へと行ってしまった。
なにも突っ込まれなかったことに、ふぅと息を吐く。
日常遣いにしているシンプルなローブは、ライルにもらったあの炎のゆらめきのようなリースグラスのローブブローチで留めている。
そしてライルのローブにも、まるで雷が落ちるときのような、角度できらりと光が走る加工を施したリースグラスの葉のローブブローチが留まっていた。――それは、私が作ったものだった。
昨日、私はライルに彼のブローチを返さずに、自分が作ったブローチを彼に押し付けたのだ。ライルはそれに気づいてまじまじと私を見つめてきたけど、結局なにも言わずに受け取った。
それが、昨日の私たちの間に起こったこと。
ライルはブローチを留めている私に一瞬だけ淡く微笑みかけてきた。けど、次の瞬間にはいつも通り冷静な顔に戻って、しきりに呼んでいるオーウェンの元へと渋々向かっていった。
ライルがどんなつもりでこれを私のために作ったのか。私自身、未だに本当にこれを私が身につけていいのか、ちよっと躊躇う気持ちもある。
でもたぶん、今このときだけは私は私で、ライルはライルで、お互いに持っていてほしいと思った気持ちだって今だけは真実だろうから。
そう信じたくて、ライルが作った胸元のブローチにそっと指を滑らせた。




