エルレッタ・Ⅶ
神殿に着いて一通り落ち着いたあと、私は一言みんなに断って、街のほうへと降りてきた。
聖女様のお口直し用のお菓子を買うため、市場の出店を覗きながら歩いていると――。
「ソフィ!」
気さくにかけられた声に顔を上げる。明るい笑顔で片手を上げる男性――リンリールさんに、わずかに顔を顰める。
「すごい偶然だなぁ、また会ったね!」
市場のど真ん中でマントのフードを下ろし、軽く頭を振って落ちかかる髪を払ったリンリールさん。相変わらず目を惹く美貌なのに、誰一人私たちを気にとめる人はいない。
まるで、ここだけ空間が切り離されたみたいだ。
「……リンリールさんはどうしてここに?」
私の硬い表情に、リンリールさんは目を丸くする。
「ん? どうしてって、今聖女様が降臨してるでしょ? 追いかけてるんだよ。浄化の旅の巡礼だね。ソフィもじゃないの?」
その言葉に、内心困惑する。
たしかにあのとき、あの人混みの中にリンリールさんを見た気がした。だからもしかしたらリンリールさんは私が聖女様の護衛だと知っていて、こうやって声をかけてくるのかもしれないってちょっと疑っているところもあった。
「そうじゃなかったらこうして二度も偶然出会わないでしょ?」
そう言うとリンリールさんは目の前の市場の店主に気安く話しかけ、あれもこれもと食べ物を買い込み始めた。
「今日は時間ある? 僕、今からお昼なんだ。もうお腹ぺこぺこ」
ニコリと微笑みかけられたその顔が聖女様のあの害のない笑顔と一緒で、ますます困惑する。
「ちょっと付き合ってよ。また奢るから。ここのソーセージ、めちゃくちゃ美味しいよ! でも熱いからあっちで売ってるパンに挟んで食べたほうがいいね」
そう言いながらあちこちの出店で買い込んでいくリンリールさん。その様子にひたすら圧倒される。
彼は両手いっぱいに買い込むと、ニッと笑って手招きしてきた。
例のごとく広場の階段に座り込んで、リンリールさんはムシャムシャと勢いよく食べ始めた。
「あの……」
「ん? ソフィも遠慮せずに食べなよ」
話しかけた途端、ドサドサと食べ物の入った紙袋を手渡されて、思わず苦笑いを浮かべる。
相変わらずこういう悪意のない行動は、やたらと警戒心を削いでくる。
「これね、淡水魚のフライ。レモンソース付き。淡白でおいしいよ」
リンリールさんはモグモグしながらもご丁寧にも教えてくれた。
「こっちはじゃがいものカリカリ揚げ。これはちょっとなにか付け合わせがほしかったなぁ。塩味だけでもいけるはいけるけど」
しばらく二人、そうやってエルレッタの名物料理を味わっていた。
やがて一足先に食べ終わったリンリールさんはゴクゴクと水を飲むと、まだモサモサと食べ続けている私をちらりと見た。
「……あれ、つけてくれてないんだ」
その言葉にドキリとする。リンリールさんが言っているのは母に贈るつもりだったイヤーカフのことだろう。――彼は、あの歪で奇妙な構築文についてなにか知っているのだろうか。
「ああ、はい。母への贈り物だと聞いていたので、私が身につけるのもなんか違うのかなって思って」
何気ないふうを装ってその紫の瞳を見上げる。リンリールさんは思った以上に悲しそうな顔をしていて、その表情にギョッとなった。
「そっか。ベルエラには渡せなかったけど、せめて君につけてもらえたらって思ってたんだけど……」
随分と落ち込んだように呟かれて、慌てて言い訳を口にする。
「その……まさか私がつけていいとは思わなくて」
「ええ? そうじゃなかったら渡さないよ」
しらっとした視線を向けられて、口ごもる。
だからといってあの構築文がいったいなんのためのものなのかわからないうちは、気軽に身につける気にもならない。
「やっぱり気に入ってもらえなかったかぁ。ごめんね、変なの押し付けちゃって……」
リンリールさんはますます落ち込んだように頭を抱えてしまって、私は慰めにもならない言い訳をモゴモゴと口にする羽目になった。
「……ねぇ」
リンリールさんはしばらく落ち込んだように頭を抱えてぶつぶつ言っていたけど、やがて、そのまま俯いたままポツリとこぼしてきた。
「ベルエラの記憶がないって、いったいなにがあったの?」
正直、母のことを言うべきかどうか、迷った。リンリールさんのことをまだ完全に信用したわけじゃない。でも、もしもリンリールさんがなにか企んでいるのだとしても、母が亡くなったかどうかを知ったところで、彼になにかメリットでもあるだろうか。
「母は……私が小さいころに亡くなりました」
ヒュッと息を呑んで、リンリールさんは勢いよく私のほうを振り返った。まんまるに見開かれた目は、その事実を知らなかったことを物語っているように見えた。
「残念ながら、それ以前の記憶がないんです。だから、詳しいことは知らないんですけど」
リンリールさんは言葉を失ったように唇を震わせている。
誰が見ても心配になって思わず声をかけてしまいそうにほど、ショックを受けてしまった様子だった。
「そ、そっか……」
リンリールさんは戦慄いた。
「じゃ、じゃあ……もしかしてソフィは、ベルエラが亡くなったときのことも覚えてない……?」
震える声に重々しく頷きを返すと、リンリールさんは耐えられないとでもいうように顔を背けた。そのまま肩を震わせる様子に、なんだか他人事ながら可哀想になる。
「……ごめん。今日は、僕、これで……」
リンリールさんはよろよろと立ち上がると、そのままさよならの挨拶もせずに立ち去ってしまった。
しばらくその後ろ姿を見送る。
あの様子からすると、リンリールさんが母を愛していたというのもあながち嘘じゃなさそうだけど、だからといって母のことも以前の生活もなにもかもを知らない私には、相変わらず判断のしようがない。
大量に残されてしまった食べ物に辟易しながらも、私もいい加減に戻ろうかと腰を上げる。それにしてもこれ、どうしよう。
そう思ってふと顔を上げた先の人物に、瞠目する。
「まーったく、どこで道草食ってるのかと思えば」
気怠げな態度。完全に街中に溶け込んでしまうほどの気配のなさ。
「ソフィ?」
軽薄そうに笑いながらも、その鋭いアンバーの瞳は決して笑っていない。
セヴランさんはスタスタとやってくると、さっきまでリンリールさんが座っていたところにどかりと腰を下ろしてきた。
「珍しく自分から買って出たと思えば、まさか男と密会するためとはね」
「人聞きの悪いことを言わないでください」
大量の紙袋に入っている食べ物をこれ幸いと押し付けて、簡単に状況を説明する。
私にはリンリールさんのことが聖女様並みの儚い美貌の美青年に見えているが、セヴランさんの目にはどんなふうに映っていたのだろうか。普通であれば、あんな若い美青年が母親の元恋人なんて話、言い訳にもならないって一蹴されそうだけど。
「ふぅん。ま、すごい偶然もあるもんだな」
セヴランさんの反応から、やはりリンリールさんの見た目に齟齬があることを思い知る。
「しかし、母親の最期、ねぇ……」
セヴランさんは確か、私の両親が殺されたあの事件のとき、ネイサンと一緒に現場のプリムローズ邸に駆けつけた騎士の一人だ。
あのときの状況を思い出しているのか、セヴランさんはアンバーの目をぼんやりと宙に彷徨わせた。
「……」
決してネイサンが語ってくれなかったその事件のことを、セヴランさんが教えてくれるのかなと少し期待してしまった。だけどセヴランさんは話を打ち切るように立ち上がると、促すように見下ろしてきた。
「ま、積もる話もあったんだろうが、今のソフィは聖女の護衛の真っ最中だってことを忘れなさんなよ。若干名、イライラしながら待ち構えている奴がいてこっちも参ってんだ。とっとと戻ろう」
すぐに浮かんだ絶対零度の同僚の魔術師の顔を思い出して、私も慌てて立ち上がった。




