ルドフォーノン・Ⅵ
翌日、聖女様の浄化のために地下の鍾乳洞様の洞窟へと降りる。
エスパルディアで行ったのと同じように、聖女様は禊場の澄んだ湧水の中に進み、そこで静かに浄化の文言を構築し始める。
前回と同様、聖女様の浄化が進むにつれ、辺りを清浄な空気が包み、凛と透き通ったその空間が広がっていくような感覚。
――始めは、ちょっとした違和感だった。
なんとなく、イヤーカフが入っているポケットが熱いなと思うぐらい。
だけど、後半のあの構築文が変わった辺り。今までと違う構築文を流し始めた辺りから、急激にイヤーカフが熱を持って、まるで接触した部分が焼け焦げて皮膚が爛れ落ちそうなほどに当たっている場所の痛みが強くなる。
「っ……」
後ずさって誰にも見られないように蹲ると、ヒヤリとした手が背に当てられた。
「おい、どうした?」
セヴランさんだった。
ほかの誰もみんな、聖女様に見惚れていて気づいていないというのに、セヴランさんは音も立てず、気配さえも感じさせずに近づいてきていた。
――まるで隠し事などできないと言われているみたいだ。
「……っ、その、ちょっと……」
セヴランさんは不審げに眉をピクリと動かした。そりゃそうだ。本来ならば、この場に居れば気分が悪くなるどころか、とても清々しい気持ちになれるのに。
だけどセヴランさんはそれ以上なにも言わずに私を抱えると、音も立てずに禊場を出た。
「ソフィ、なぁ」
セヴランさんは階段を軽々と駆け上がって、誰一人いない廊下へと私を下ろした。禊場を出ると嘘のように熱は引いていって、今は余韻のような痛みが尾を引いている。
セヴランさんはなんとか呼吸を整えている私を、読めない顔で見下ろしてきた。
「もうちょっとこう、うまくやりなさいよ? 周りを頼るとか、ね?」
見上げたセヴランさんはいつものようにへらりと笑っているが、その内心まで笑っているとはさすがに思えなかった。
「俺や護衛長には言えなくても、ブリジットやあの気取った魔術師になら言えたりもするだろ。あいつらも気にかけていることだしさ」
あくまでいつも通りの口調、声音。責めている様子はまったくない。
「本当にすみません……」
「しっかりしてくれよ? なんてったって誰もが期待している、エスパルディア初ブライドン学院お墨付きの魔術師なんだから」
困ったように頭をかいたセヴランさんは、琥珀色の瞳からからかうような色を消した。
「それにソフィがそうやってだんまりだと、誰かさんまで機嫌が悪くなっちまうからなぁ」
視線を落とした私に、セヴランさんがしゃがみ込んでくる。
「いけるか?」
「……いけ、ます」
「やっぱもうちっと休んどくか」
「……」
正直、今戻ってもまた同じ目に遭うだろうことは目に見えている。押し黙ってしまった私に、セヴランさんがまた困ったように頭をかいた。
そうしているうちに、オーウェンがぐったりした聖女様を抱えて飛び出してきた。その後に続いて出てきたライルが、私たち二人に眉を顰める。
「二人とも、どうかしたのか?」
急いで立ち上がろうとした私をセヴランさんは支えながら、話しかけてきたブリジットさんに向かってひょいと肩を竦めてみせた。
「ソフィがちょっと具合が悪そうだったもんで」
「そ、そうか……」
聖女様のあとを追うべきか私を気遣うべきか、少し迷う素振りをみせたブリジットさんに急いで頭を振る。
「すみません。大したことないんです。私もすぐに行きます」
「こんなところでもたもたしたって仕方ない。先に行ける奴は行っといてくれ」
いつも通りの飄々としたセヴランさんに促され、ブリジットさんは小さく謝りながらもオーウェンのあとを追って消えていった。
こっちこそ申し訳なく思いながらあとを追おうとして、反対側から肩を支えられる。
ムッとしたようなライルだった。
「こんなところでもたもたしていたって仕方がないんだろう? 先に行け」
「あのねぇ……」
セヴランさんは呆れたように息を吐いたが、ライルは譲らなかった。
「どのみちおまえが行こうが私が行こうが、ルナのためにできることなどなにもない。扉の前に突っ立っているだけなら、護衛長が立派にその役目を果たすだろう。違うか?」
「あーはいはい……わかりましたよ。そこまで言うなら、お好きにどうぞ。……ただし! すぐに戻れよ!」
セヴランさんはガシガシと頭をかくと、ヒラリと手を振ってあっという間に見えなくなった。その後ろ姿が見えなくなってやっと、ライルの目がこっちを向く。
「大丈夫か?」
「うん。ごめん、大したことないんだ。私たちも行こう」
借りていた肩から遠慮して手を離そうとして、逆に引き寄せられる。
「本当に?」
そっと抱え込まれるように、ライルが顔を覗き込んでくる。その視線を避けようとして、失敗した。
「ソフィ」
正直、いつもみたいに怒られるかと思っていた。
なんで言わなかった。一人で抱えるな。お願いだからなにかあったらすぐに言ってくれ。
お小言は大抵いつも、もらっていた。
だから、いつもみたいになんでもないって突っぱねようとして。
「ソフィ、私の前ではもう我慢しないでくれ」
「……っ」
間近に見下ろしてくるライルはひどく真剣で、薄暗いアイスブルーの瞳は妙な迫力が込められていて。
「あ、の……」
いつになく近い距離に、ちょっと、いやかなり緊張している。この美貌で間近に迫られるのは、いくら見慣れているとはいえいたたまれない。
ライルは窺うように私を見つめたままだ。引き寄せられた肩が熱い。抱き合うように触れる体が、熱い。見上げた先の瞳は冷たい色なのに、まるで熱を持っているみたいに妙な熱さを帯びている。
「私にだけは、どうか隠さないでくれ」
ライルの声は、囁くように小さかった。
それだけを告げたまま、ライルはしばらく私のことをじっと見つめていた。
あの日ランドルフ家の別荘で過ごした夜、私が決心つくまで待つと言ったときのように、彼は私が心を明け渡すのをまるで待っているかのようだった。
「……ライル」
透き通るようなアイスブルーの目に晒されて、とにかく落ち着かない。これ以上は勘弁してほしくて、その肩に顔を埋めて視線から逃れる。ライルは一瞬体を固くしたが、すぐにポンポンと背を撫でて受け入れてくれた。
「……昔からずっと、ライルは優しいよね」
「昔から言っているが、優しさでしていることじゃない」
「だったらなんで、こんなに……」
「……」
答えはいつも、返ってこない。これも昔からだ。
「……そんなこと言ってくれなくても、ライルにはいつも甘えてるよ」
「……」
「本当にいつも、頼ってる。……これ以上ないくらい」
ライルはただ、なだめるように私の背を撫でている。
身近に感じる、ライルの体温。出会ったときよりも成長した硬い体。嗅ぎ慣れたライルの匂いがかすかに鼻孔を擽る。
最近はどこか遠い存在だったライルがなんだか久しぶりに身近に感じて、そう思えると、やっと呼吸がしやすくなった気がして。
もう言ってしまおうと思った。
ただでさえ聖女様やオーウェンとの関係、物語の強制力なんかで頭を悩ませているのに、リンリールさんのことまで抱えきれない。
いろんなことが溢れてきて、いい加減はち切れそうだった。
「ライル……」
肩口に押し当てた顔を上げると、ライルもじっと見下ろしてきた。口を開いた私を、ライルはなにを言うこともなく見守っている。
吐息すらかかりそうな距離に躊躇する。ライルがわずかに顔を傾ける。さらに近くなった距離に目を瞠る。
「ライル……?」
その瞬間、いつの間にかそばにきていたオーウェンが間に割り入ってきた。
「なかなか戻ってこないから嫌な予感がしてたんだけど……こんなところで二人っきりで、君はいったいなにをしでかしてくれているのかな? ライオネルくん?」
オーウェンの死んだ表情筋にびっくりして、思わず飛び退いた。
「ライオネルくん、君、前々から思っていたんだけど、ちょっとソフィに対する距離が近すぎるよね? しかもこれ……明らかに確信犯だよね?」
「すみません、オーウェン。お待たせしてしまいました」
あんまりなオーウェンの姿に、逆に冷静になってくる。そうだ、こんなときにいつまでも自分のことにかまけている場合じゃなかった。
解けたライルの腕から抜け出して、戻ろうとオーウェンの手を掴んで前に踏み出す。
ひたすらライルに詰め寄っているオーウェンがうるさい。この様子じゃそのうち神官さんたちに怒られるんじゃないかと、黙ってもらおうと思ってちらりと振り向く。
少しだけ、まだ胸がドキドキしていた。さっきの、言葉も出なかった瞬間。いつもとはちょっと雰囲気の違ったライルの姿が目に焼きついて離れなかった。




