ルドフォーノン・Ⅴ
神殿に戻ってくると、玄関先で待ち構えていたライルがすぐさま駆け寄ってきた。
「一人で買い物に行くなんて……なぜ声をかけてくれなかった。言ってくれれば一緒に行ったのに」
はなから誰かを誘うなんて頭にもなくて、言われたことにポカンとする。
「……だけど、聖女様のそばからそう何人も護衛が離れたらまずいんじゃないかな。魔術師は私とライルしかいないわけだし。お菓子を買いに行くくらい、一人でできるよ」
珍しくいつになく過保護気味なライルに当惑する。さすがに貴族でもないんだから、街で買い物くらいできる。
私の反論にライルは渋い顔をした。
「そうとは言え、見知らぬ土地でなにかトラブルでもあったらどうする? ……それに君はあまり気にしていないようだが、その黒髪はけっこうに目立つ」
……言われてみれば、お国柄なのかエスパルディアでもこの国でも、あまり濃い色味の頭髪は見かけない気がする。
「変な奴に絡まれたりはしなかったか?」
その言葉に、ドキリと鼓動が跳ねる。
「……あ、あの」
ライルは誤魔化しは許さないとでもいいたげにまっすぐに私を見つめてくる。その視線にこくりと唾を飲み込んだ。
一瞬、あの出来事を話すべきかどうか迷った。言っても信じてもらえないかもしれない。
自分でも先ほどの出来事に対していまだ現地味が湧いていない。本当にあれは真実だったのかと――なんというか、まだ消化しきれていないような、疑ってさえいるような、朧気な時間。
でもだからといって、聖女様の護衛としてここにいる以上、このまま黙っておくわけにもいかないだろう。
「……さっき、母の知り合いだっていう男性と偶然会った」
その途端、ライルはほら見ろと言わんばかりに目を細めた。
「私の亡くなった母の名前を知っていて……リンリールさんって言うんだけど、母の元恋人、って」
ポケットをごそごそと漁って、例のイヤーカフを取り出す。
「母に渡せなかったからって」
ライルは慎重にイヤーカフを受け取ると、しげしげと観察し始めた。その様子を固唾を呑んで見守る。
ライルは随分と慎重に、何度も何度もそれをひっくり返しながら、余すところなく検分し始めた。
「……特に怪しいところはなさそうだな」
その言葉に、息を呑む。
「なんだ?」
「いえ、ううん。それならよかった。だったら本当だったのかな。ちらっと会ったきりすぐに別れちゃったから、よくわからなかったけど」
言い訳をするように言葉を連ねると、ライルに背を向ける。
「それじゃあ、聖女様にお菓子を持っていかないといけないから」
震える手を見られないように、ポケットに突っ込む。聖女様に、一刻も早く尋ねたいことがあった。
「ただ今戻りました」
部屋に戻ると、談笑していた聖女様とブリジットさんが迎えてくれた。
「ありがとう、ソフィ。少し遅かったが大丈夫だったか?」
「ええ……すみません」
少し躊躇ったのち、私は切り出した。
「……ブリジットさん、あの。申し訳ないんですけど、もしよかったら食堂から新しくお茶をもらってきてくれませんか」
「ん? 構わないが」
気のいいブリジットさんは嫌がることもなく、快く引き受けてくれる。
「ルナ、ちょっと待っててくれ。お茶を持ってくる」
意気揚々とブリジットさんが部屋を出ていく。閉まる扉の音が、虚しく響く。
「ルナ」
少し様子のおかしい私に、聖女様が小首を傾げて見上げてきた。
「どうしたの、ソフィ」
「どうしても訊きたいことがあるんです」
自分でも思った以上に動揺を取り繕えていなかったのか、声に出ていた。
「ルナが浄化のときに使うあの特殊な構築文……あれはルナの世界のもので、おそらくはルナみたいな限られた人だけが使える魔術、なんじゃないんですか」
「……」
聖女様は答えなかった。
「あの魔術を使える人は、この世界にもいるんですか?」
聖女様はしばらく沈黙を保っていた。答えにくいのか、答えたくないのか。そうこうしているうちにブリジットさんが帰ってきてしまうんじゃないかと心配になるほどに、聖女様は長らく押し黙っていた。
「……それは、ソフィはもしかして、あの魔術を使える人に会ったのかな?」
今度は逆に尋ねられて、私のほうが言葉に詰まる。
「それは……」
なんと答えたらいいのか、わからない。
リンリールさんはただ、あのイヤーカフは母に渡すつもりだったとしか言わなかった。あれに書き込まれた構築文は自分が施したとも言わなかった。
そもそも、あの構築文はおそらく、誰もかもに見えているわけではない。
先ほどのライルの反応。ライルほどの才能ある魔術師でさえ認識することのできない構築文。聖女様が呟いた、『ソフィにはあれが、見えるんだ』という言葉。
限られた人しか見えないものであるのに、だったらリンリールさんに見えていたかどうかさえもわからないのに、それを安易に肯定してしまっていいのか、私にはわからなかった。
「いえ……」
結局言葉を濁して黙り込んでしまった私を、聖女様はなんともいえない顔で見つめてくる。
シンと静まってしまった部屋の中で二人、互いに見つめ合う。
「……うん、そうだね。一つ言えるなら」
聖女様はやがて、ため息と一緒に憂うように睫毛を伏せた。
「この世界の人たちには、私たち白の一族の魔術は使えない、ってことだけ。この文言を操って浄化を行えるのは、唯一私たち白の一族だけで、そしてそれが私たちに課せられた使命でもあるよ」
「使命……」
「うん。私は浄化の魔術が使えるけど、逆に言うと私にはこれしか使えない。私はこの世界を浄化するためだけに、生を受けたの」
俯いた聖女様。
……この世界を浄化するだけに生を受けた? それはまた、一体なぜ。わざわざ界渡りをしてまでこの世界を浄化しにくる使命とは。
謎は解決するばかりかますます膨れ上がっていくのに、結局それがなんのために、なにを浄化しているのかについては、聖女様は頑なに触れなかった。
聖女様は黙りこくってしまった私に微笑みかけてくると、いやにはっきりした口調で言った。
「ソフィがなにを気にしているのか、私にはわからないけど……私には浄化の魔術しか使えないし、この魔術は本来なら、浄化以外の役割を持つことはないよ?」
真っ直ぐに向けられた視線に、今度は私が目を逸らす。
そんなの、全然答えなんかになっていない。だったらこのイヤーカフに刻まれている歪で特殊な構築文は、いったいなんだというんだ。
「待たせたな、二人と、も……?」
ノックと共に入室してきたブリジットさんは、見つめ合う私たちに戸惑ったように立ち止まる。
「どうしたんだ、そんな真剣そうな顔で」
聖女様は振り向くと、いつも通りの儚い笑みを浮かべた。
「ソフィに浄化について訊かれてたの」
「ああ」
ブリジットさんは納得したように頷いた。
「ルナが祈るだけで浄化されるのだから、聖女の力というのは本当にすごいものだな。いつも感心しながら見ているよ」
「そんなことないよ。それよりブリジット、お茶をもらってきてくれてありがとう。よかったらみんなで食べよう?」
「そうだな。ルナならそう言うかと思って、カップも三人分もらってきたぞ」
お茶の準備をし始めた二人を見るともなしに見ながら、深く考え込んでいた。
つまり、聖女様と私以外のみんなには、聖女様は祈りの力で浄化を行っていると――そんなふうに見えている、と。
実際、聖女様が浄化を行った場所は空気が澄み、水が澄み、その結果実りが良くなり、街や森に活気が出て、人々の暮らしがより豊かになっていく、そんないいことばかりが連鎖的に起こってくる。そういうものだから、今さら聖女様がなぜわざわざ浄化してくれるのかなんて、誰も気にもしない。気にしたところでこの世界の発展には聖女様の浄化が必要不可欠だし、その本人が詳細を語りたがらないのなら、無理強いしたところで浄化の旅を止められたらたまらない。
誰も知らない。聖女様と私以外には見えていない、あの構築文。
……だったらなぜ、私にはその構築文が見えてしまうのだろうか。




